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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
18/38

フェイズ18「ナポレオン戦争と日本」

 近代フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトは、1796年のイタリア遠征でその名を広く知られるようになった。

 そして1799年には、フランスの権力を掌握する。

 短くも激しいナポレオン時代の幕開けであった。

 

 そしてフランス革命後半からは、以前からフランスとの関係が深かった日本が、急速に復活したフランスとの交流を活発化。

 貿易面や植民地地域での協力や連携などを精力的に実施した。

 フランスは、欧州のつまり世界の覇権を握るために、日本はブリテン、ネーデルランドなど海外での欧州陣営をけ落とすために、互いに同盟関係に踏み切ったのだ。

 


 時の八代将軍織田信治は、ヨーロッパから伝わった啓蒙思想に心酔していたため、象徴君主、権威君主としての立場を頑なに保っていた。

 また信治は、啓蒙君主に相応しく文学将軍であり、書物を愛し多くの記録と本を残させる事で大きな功績を残している。

 日本の出版物の多くが銅版の活版印刷になったのも、彼の功績に負うところが大きい。

 大衆新聞が一般化したのもこの時期で、今の大日本図書館(書籍の収集施設と組織)の原型が形成されたのも信治が設立した織田文庫を発祥としている。

 

 そして1792年に34才の若さで関白となった豊臣定秀は、日本で豊臣(羽柴)秀吉の再来、今秀吉とうたわれた敏腕宰相であった。

 若い頃は田沼意次の補佐を行って急速に頭角を現し、また名家出身であったため出世も早かった。

 そして田沼時代の後かたづけの大移民事業で活躍し、当時の宰相に当たる関白へと上り詰めた。

 

 なお、日本を最高の繁栄へと導いたのはひとえに彼の功績であり、日本で宰相と言えば聖徳太子と豊臣定秀を第一とするほどだった。

 

 また少し遅れて太政大臣として徳川家治が就いて、彼もよく将軍と関白を助けて、混乱する時代の中で内政面と武士階級の統制に力を発揮した。

 近代的側面で見れば内務大臣といえる役所だったが、彼なくして豊臣定秀の活躍も随分と小さくなったと言われている。

 そして織田幕府の両輪となった二人によって、その後しばらくの日本は進んでいく事になる。

 なお二人は、「ヒデさん」、「ハルさん」と呼び合ったほど良好な関係だったという。

 

 そうした日本の状況はともかく、世界はフランスを中心として大きく揺れ動いた。

 


 1793年にヨーロッパで、最初の対仏大同盟が成立した。

 これはフランス革命の波及を恐れた同盟だったが、実際はブリテンによる新大陸情勢挽回のための同盟でもあった。

 そして対仏大同盟に対抗したのが、その後に出現した事実上の仏日同盟である。

 なおフランスと日本は、正式な同盟文書を交わすことは遂になかったが、これはフランス側の有色人種蔑視があった事は間違いないだろう。

 それでも日本と連携したのは、日本が世界規模での大国にのし上がっていたからだ。

 16世紀のヨーロッパでのオスマン朝に近い扱いと考えれば、分かりやすいだろう。

 

 そしてこの時、ブリテンの十三植民地に派遣されたブリテンの大軍に対して、当初現地フランス軍は大きな劣勢だった。

 カナダではフランス系住民による義勇兵が多数編成されたが、まだまだ人口の少ないルイジアナ方面では僅かな数のフランス軍部隊しか存在しなかった。

 それを補完したのが、当時から進出していたフランス軍所属の日本軍傭兵部隊であった。

 また、ミシシッピ川西岸、五大湖西部、ハドソン湾、そしてメヒコ湾に面する新折鶴市には、相応の規模の日本軍部隊が展開した。

 フランス領内のカナダや西ルイジアナにも、日本人傭兵と日本が派遣した艦艇が存在した。

 しかも経費のかなりが、日本持ちだった。

 

 そして双方各地で小競り合いを行うが、この時は和平が成立して大規模な戦闘には発展しなかった。

 兵力の均衡が互いの警戒感を呼び起こして、本格的な戦争に至らなかったのだ。

 

 しかし1799年、ナポレオンがフランスの権力を掌握すると、第二次対仏大同盟が成立する。

 この同盟では、日本も同盟の敵とする事が盛り込まれており、ヨーロッパ以外での対日包囲網を意味していた。

 このため第二次対仏大同盟は、日本人の勢力(国家)が初めてヨーロッパ勢力から名指しで敵とされた最初の軍事同盟となった。

 

 そして日本はシベリア・中央アジアでロシアと対峙し、ブリテンとは新大陸で睨み合いとなった。

 アジアでも、東印度諸島を堅く守っていた。

 そしてフランスのナポレオンは、日本をけしかけてブリテンを消耗させようとしたが、日英双方ともフランスの口車に乗ることはなかった。

 つまりヨーロッパ以外では、ほとんど互いの軍事的連携が機能しなかった事になる。

 

 そして第二次対仏大同盟も「アミアンの和約」でフランスとブリテンが講和。

 同盟は自動的に解消される。

 

 だが、日本に対するブリテンの反発は無くならなかった。

 日本側もブリテンに対する反感を強めた。

 当時の日本が、ブリテンにとって最も邪魔な海洋国家だったからだ。

 

 これは、1803年にフランスが日本に東ルイジアナを1500万両で売却すると、より顕著となる。

 東ルイジアナ売却により、ブリテンの十三植民地は日本の巨大な「ホーライ・コロニーズ(蓬莱州)」と直に境界を接する事になったからだ。

 しかも北アメリカ(蓬莱)大陸中の8割以上が日本の手に帰したことになり、ブリテンの新大陸での危機感は極めて大きなものとなった。

 

 当然と言うべきか、これはナポレオンの策略だった。

 それに東ルイジアナは、当時のフランスには大きすぎる荷物だった。

 日本側もあえて承知でヨーロッパで孤立するフランスを支援するべく、また自らの勢力拡大を画策するべくあえて行った事だった。

 

 この時の関白と太政大臣は、ご先祖は信長公に従って天下を平定したが、今度自分たちは西洋の信長公の世界を平定する戦争に荷担するとはと感慨深く語ったという。

 


 話が逸れたが、新大陸での緊張度合いがより増していた頃、ヨーロッパではナポレオンが「フランス民法典(ナポレオン法典)」を制定し、1804年にはフランス皇帝に即位。

 自ら帝冠を戴いた。

 そしてその勢いのまま、1805年にブリテン遠征を発動する。

 

 しかしこの時の海戦は、ブリテン側の決死の反撃により敗北した。

 トラファルガーと名付けられた海戦において、フランスはブリテンの制海権を打破する事はできなかった。

 一方ではアウステルリッツの「三帝会戦」において大勝利を飾ってオーストリア、ロシアを破り、ヨーロッパ大陸での勢力をさらに拡大した。

 ナポレオンの権勢が頂点に達した瞬間だった。

 

 そしてこの二つの戦いは、新大陸にも伝搬する。

 遂に日本軍とブリテン軍がアパラチア山脈付近の各所で戦闘を開始し、メヒコ湾、カリブ海、北米東岸で海上戦闘や互いの海賊行為を頻発させた。

 ここでの戦いは、日本の軍艦が多数カリブ海で活動した初めての事例となった。

 

 このスキを狙ってフランスが西インド諸島のどこかの領土をかすめ取ろうとしたが、海軍力の不足とブリテン海軍の妨害により叶わなかった。

 日本も同様で、カリブに一時的以外の拠点や植民地を得ることが出来なかった。

 日本は、艦艇の活動のための拠点を多数設けたがそれ以上にはできなかった。

 カリブ海では、遅すぎたゲームプレイヤーだったのだ。

 

 また初めて大西洋南部各地での戦闘も行われたが、こちらは小規模な海上戦闘や小規模な拠点に対する相互の攻撃が行われたに止まっている。

 この頃にブリテンにとって、フランスや日本との戦争どころでない事態が発生していたからだ。

 


 一方ヨーロッパでは、ブリテンを追いつめるためにナポレオンはブリテン打倒のために「大陸封鎖令」を発令する。

 ナポレオンとしては、日本と連携すれば十分に勝算のある戦略だった。

 

 しかし日本は日本の都合で動いた。

 ヨーロッパ海運が大混乱に陥った今こそ、世界の海で海運と貿易を拡大する千載一遇の機会だからだ。

 日本にしてみれば、フランスの愚行は棚ぼた的な外交勝利であった。

 

 ここで日本は、ブリテンに代わってヨーロッパ大陸で足りず自分が持っている場合限定であったが、大量に物資を輸出して大きな利益を得ることになる。

 そしてヨーロッパ大陸でだぶついている穀物と木材などを相手の足元を見て買いあさり、それを本国や蓬莱などの植民地に持ち帰っていった。

 フランスも、相手が日本商船では強く文句を言うことはできなかったし、フランス以外の国にとっての日本商船は、例え相手が有色人種であろうと買い叩かれようとも救い主に等しかった。

 

 そして奇妙な事に、日本が安く買い叩いたヨーロッパ大陸の穀物や木材が新大陸以外でブリテンの手にわたり、日本はさらに利益を得ていた。

 そして日本は、ブリテンの工業製品をその時の三角貿易で入手し、一部をヨーロッパ各国に売却して、さらなる利益を得ることになる。

 またヨーロッパでイギリス以外の海運業が大打撃を受けたのに反比例して、日本の海運業者が大西洋でも大きな勢力を持つようになった。

 ブリテンの艦船や私掠船は懸命に日本商船を襲ったが、日本側が十分な戦力を回した事と、ブリテンが他でも戦力が必要だった事、大陸諸国の思惑などもあり、十分な成果を得ることはできなかった。

 むしろブリテン側が疲弊したほどだった。

 

 これらのため、大陸封鎖で一番の利益を得たのは日本だと言われた。

 まさに今秀吉と言われた、関白豊臣定秀の面目躍如たる姿と言えよう。

 

 ただしこの時の日本は、貿易利益に胡座をかいて自国産業の育成を疎かにしてしまい、結果としてブリテンとの競争力に差を付けられる事になる。

 また莫大な戦費を前にしては、一見膨大な貿易利潤もせいぜいが自転車操業状態での運転資金程度だったとも言われている。

 

 一方世界各地では、幕府海軍とブリテン海軍が衝突し、互いに海軍力を消耗する事になった。

 日英の貿易も行われたのだが、それは中立国や第三国においてであり、互いの植民地や公海上であるなら互いに容赦しなかった。

 商船も襲いあった。

 そして既に工業の近代化が始まっていたブリテンと、人口に任せた高い手工業生産力を誇っていた日本の力は、ブリテンがフランスとの全面対決があった事も重なって勢力が拮抗。

 結局、日英の戦いに結論が出ることはなかった。

 

 現場レベルでは、互いに士気は高いながらなぜこんな密貿易と海賊行為、そして激しい戦闘を行っているのかと大きな疑問が持たれたという。

 中立地帯では、互いに酒を酌み交わしてすらいた記録も残っている。

 互いの国で、それぞれ相手国の酒が飲まれたり、場合によっては自力で醸造される切っ掛けにもなったほどだった。

 

 そして日本が新大陸や世界中の海で活発に活動を行っている時、フランスから新たな使節が日本に到着する。

 

 大陸封鎖令を破っているロシアを討伐するべく大軍で遠征を行うので、日本も後背からロシアを攻撃して欲しいという内容のものだった。

 


 当時日本とロシアの境界線は、自然停止線的にエニセイ川(白龍川)からレナ川(北斗川)にかけてとバイカル湖西方百里の辺りとされていた。

 日本は自分たちの領域を「大蝦夷」、ロシア人は「シベリア」と呼んだ。

 しかし日本人の数の方が多かったため、エニセイ川流域の主な使用者は日本人だった。

 エニセイ川河口部には、短すぎる夏の間には日本本土から船もやってきていた。

 日本人の姿は、オビ湾にすら見かけられていたほどだった。

 日本の冒険商人に至っては、真夏北極海を踏破して最短経路でヨーロッパに至ったりもした。

 

 そしてモンゴルから中央アジア全域にかけては、ジュンガル汗国というトルキスタン系民族を統合した形の世界最後の騎馬民族帝国が存在しており、日本からの援助を受けつつロシアや清朝からの圧迫にさらされていた。

 またロシアに圧迫されていたオスマン朝トルコが、同じトルキスタン系国家という事もあって、ジュンガル汗国とロシア政策などで連携していた。

 コーカサス地域の残存勢力も、日本やジュンガルとの連携を求めていた。

 ロシアの南進が、同地域で進んでいたからだ。

 

 そしてヨーロッパの邪魔をされず交易できるルートを持つ日本商人の、ユーラシア大陸での重要性は増し続けていた。

 

 ただし、これらの地理条件を考えれば、フランスの申し出はほとんど荒唐無稽でしかなかった。

 たった半年で3000キロを踏破して、モスクワに攻め込めと言っている事になるからだ。

 

 しかし政治的影響は強いと判断されたため日本側は快諾。

 日本とフランスは、世界中に日仏が総力を挙げてロシアに侵攻すると宣伝した。

 

 もっとも日本側が用意したのは、現地に広く分布していたマタギを集めて兵站部門を強化した事と、機動性の高い騎馬部隊と機動砲兵をいくつか用意しただけだった。

 それでも兵力数は数の上では2万人程度に達し、馬匹1万5000頭という数は騎兵部隊と考えればかなりのものだった。

 だがそれでも、普通ならバイカル湖からウラルまで攻め込めるものではなかった。

 時代は既に近代に入りつつあり、戦争をするには膨大な物資が必要になっていたからだ。

 しかも集められた兵力は、ヨーロッパ一般の騎兵に比べれば戦闘力は低く、実際の戦闘力は通常の騎兵の半分程度だと考えられていた。

 

 当然日本側も無茶を理解していたので、ジュンガル汗国に多大な援助を行って同盟に抱き込んで、同時に中央アジア方面からの侵攻を行わせる事にする。

 また自らもモンゴルから中央アジアに入って、こちらから主攻撃を行うこととした。

 ここらからなら、ヨーロッパの境界線となるウラル山脈は比較的近く、馬の足なら運が良ければモスクワにまで突進できるのではないかと考えられたからだ。

 

 またジュンガルの方は、国中から動員した3万の騎馬部隊を用意した。

 西欧諸侯ほどではないが日本製の火力装備も可能な限り用意され、ロシアコサック程度なら蹴散らせると考えられた。

 ジュンガル側もロシア人への反発とモンゴル帝国の再来を夢見て、日本の口車に乗ることになったのだ。

 

 そして1811年冬から、乾坤一擲のロシア遠征が開始される。

 

 真っ先に行動を開始したのは日本軍だった。

 日本の騎兵部隊は、モンゴル帝国の故事に習って、冬の間凍り付くシベリアの大地と河川群を奇襲的に一気に突破。

 点在していた冬ごもり中のごく僅かなコサックを蹴散らして、西へと急進した。

 この時は、あえて近代化した軍をほとんど用いずに進軍したため、数世紀前の再現といわんばかりの進撃が行われたと言われる。

 人の数よりも、馬を始めとした家畜の数の方が多い進軍だったのだ。

 

 一方、西部ジュンガル方面から奇襲的に出現した日本の主力騎兵部隊も、一気に北上してウラル山脈を目指した。

 そして一ヶ月ほど遅れてジュンガルの騎馬部隊も進撃を開始し、一路ウラルそしてモスクワを目指した。

 

 騎馬で5万もの大部隊がユーラシア北部中央で動く様は、ロシアにおいてタタールの再来と恐れられた。

 

 この報告を聞いて、フランス軍も1812年5月にロシア遠征開始する。

 

 当然ロシアの恐怖は頂点に達した。

 ヨーロッパそのものと、モンゴル帝国の後継者に攻撃されたのだから、この時の彼らの恐怖は歴史上屈指のものだっただろう。

 

 しかも相手は自分たちを連携して挟み撃ちにする積もりであり、しかも東(正確には南東)から突進してくるアジアの蛮族は、タタールの子孫であるだけに彼らが対フランス戦の切り札と考えていた焦土戦術の効果がないと考えられた。

 何しろ彼らは国(国民)ごと動いて侵略してくる騎馬民族の末裔なのだ。

 長い間ザシベリア(大蝦夷)で暮らしている日本軍も大きな違いはないはずだったし、ジュンガルとか言う蛮族はあのモンゴルも領土としているのだ。

 しかもオスマン朝トルコまでが、日本とジュンガルの動きに大きな魅力を感じ始めていた。

 

 しかもこの時ナポレオンは、ヨーロッパ中から60万人もの大軍を動員していた。

 東の日本・ジュンガル連合騎馬軍団は合計5万人。

 これに対してモスクワを中心としたロシア中央部を防衛するロシア軍は12万人にすぎなかった。

 ロシア人の気分としては、世界中から攻撃を受けていたように感じられた事だろう。

 

 そして3月までに、日本・ジュンガル連合騎馬軍団はウラル山脈を突破し、ヴォルガ河にまで到達した。

 そこでロシアの大地の泥濘が固まるのを待つため一度停止し、休養と夏の戦いの準備しつつも、侵略した各地で略奪と破壊を欲しいままにした。

 またこの間に、カスピ海を越えてコーカサス地域との連携も強められ、アゼルバイジャン地方への侵攻も行われて、現地からは一時期ロシア人が駆逐された。

 さらには、オスマン朝トルコとの連携も図られた。

 この影響で、トルコは軍の一部の装備を刷新したし、ロシアのコーカサス地域への南進は後退する事にもなった。

 

 一方北方に放たれた偵察隊は、バレンツ海に到達した。

 

 日本人の手が、ヨーロッパにまで届いた瞬間だった。

 


 しかしこの年のロシアの夏はおかしかった。

 

 フランスの大軍はロシアの後退戦術と焦土戦術もあって順調に進撃したが、一方では主にシベリアの冬にも慣れていたジュンガル兵がモスクワに進むことを躊躇し始めた。

 日本のマタギ達も首を傾げた。

 彼らは、何かがおかしいと騒いだ。

 かといって日本軍はフランスとの同盟の手前止まることもできず、進撃をほぼ単独で再開する。

 フランスに全力を投入していたロシアは、日本軍の前に僅かな強硬偵察と遅滞防御目的のコサック以外は現れなかった。

 フランス軍前面のような焦土戦術も行われず、日本軍は例年よりも寒い無人の広野をただ前進するだけになる。

 

 そして7月にはスモレンスクでのフランス軍勝利の報が舞い込むが、呼応して皇帝の街と名付けられた場所から日本軍が再度進撃をしようとした刹那、季節はずれの雪が降りしきった。

 この時の季節はずれの寒波で多数の馬を無為に失ってしまった日本軍は、たまらず進撃を停止。

 戦う前から戦力が半減してしまう。

 そこで分かりうる全ての情報を本国に送って、決断を待つこととした。

 そしてその間にボロディノでのフランス勝利の報告が舞い込み、本国の幕府はモスクワの占領をフランスに譲るように命令。

 また兵力を失ったのなら、それを悟られることなくロシアとの単独和平を行うことを同時に指令する。

 ほとんど火事場泥棒で得たロシア領シベリア東部を、法的に確固たるものにしようとしたのだ。

 

 何しろ今回のロシア遠征では、ロシアが滅びないのであればフランスから日本が得られるものは感謝の言葉以外何もなかったからだ。

 フランスがある程度勝つにしても、同じなのだ。

 フランスがロシアを完全に打倒するならともかく、抜け駆けは当然の権利だと考えられた。

 ナポレオンも、その程度は見越していた筈だった。

 

 そして秋にはモスクワが陥落して勝敗が決すると思われたため、ロシアとの交渉が急がれた。

 

 かくしてボロディノの戦いで敗北して窮地に立っていたロシアは、日本からの講和提案を即刻受諾。

 ジュンガルもこれに乗り、ジュンガルは中央アジア全域の領有をロシアに約束させた。

 日本もコーカサスなどからの撤退を条件に、新たにオビ川を境界線とする事に成功した。

 もっともロシアは、日本人に現地コサックが大打撃を受けて拠点のほとんどが占領されたため、シベリアの維持が事実上不可能になっていた。

 

 そしてフランスに対して相応の義理を果たしたと考えた日本だったが、モスクワ市に入城したフランス軍はほとんど自滅の形で敗北してしまう。

 早すぎる冬将軍とロシアの焦土戦術、そして9月のモスクワ市の大火による廃墟化、その後のモスクワからの退去、ロシア軍の追撃によって遠征軍の全てを失ってしまったのだ。

 

 その敗報を凱旋途中に聞いた日本軍だったが、今更どうしようもなかった。

 日本には、ロシアを攻めるだけの戦力も戦費もなかった。

 ついでに攻める気もなかった。

 

 またフランスがある程度勝つと思って抜け駆けで先に講和した事を、フランスは自らが負けたのは日本のせいだとばかりに強く非難した。

 日本はフランスがロシアを併合するか属国にする前に領土をかすめ取ろうとしたのだが、裏切りに映ったのだ。

 この経緯を説明する形で日本側も反発。

 しかし大敗を喫して感情的となったフランスは納得せず、その後日本とナポレオン率いるフランスの関係は急速に冷却化する。

 翌年の1813年には、日本はフランスとの同盟を解消すると通達。

 間をおかずして、抜け目のないブリテンが日本に接近。

 日本側も活発な交渉を行った。

 

 こうして日本は、ほとんど一夜にして新たに成立した第四次対仏大同盟に参加する。

 この辺りの外交の巧みさは、豊臣、徳川の先祖もかくやというものだった。

 

 かくしてナポレオンは敗北し、エルバ島に流配。

 

 1814年にはウィーン会議が開催される。

 


 ウィーン会議に際して日本は、豊臣定秀を関白がヨーロッパの宰相に当たるとして派遣。

 彼もこの時の風刺画の一部となった。

 「会議は踊る、されど進まず」というやつだ。

 もっとも豊臣定秀は、当時の白人一般の有色人種蔑視から猿踊りの猿のような珍妙な姿で描かれることになる。

 しかし豊臣定秀は、その猿踊りでフランスのタレーランと再び友好関係を結ぶことに成功した。

 会議が長引く事は、日本にとってはむしろ好都合だった。

 世界各地での既成事実を固める時間として活用できるし、本国との距離の差を埋めることも出来るからだ。

 定秀は、巧みに猿を演じきった。

 

 そしてその間にナポレオンが復活。

 しかし、ワーテルローで敗北するまでの100日天下であった。

 

 その後再開されたウィーン会議では、ヨーロッパの再編成とウィーン体制と呼ばれる政治状態が作られる。

 一方では、世界中の植民地の再編成も実施された。

 ここで日本は、会議で主な役割を果たすことになった。

 日本全権の豊臣定秀は、流ちょうなフランス語を駆使した類い希な能弁によって、日本の利権を次々に確保していった。

 彼の言葉は、目をつぶっていればパリの宮廷人も真っ青の華麗さだった。

 

 けっきょく日本は、ナポレオン戦争中に得た利権や植民地を全て認められた。

 新大陸についてはブリテンが食い下がったが、既に条約が交わされたことを反故にする事の不条理を巧みに説いた。

 また日本は、日本がフランスとの同盟を破棄したことが戦争の決定打になったと論陣を張って反論を封じてしまう。

 ロシアに対しても同様の措置が取られた。

 

 一方で日本は、各国が求めた新たな利権や諸国の併合などについて認め、大国外交の最たる例を示した。

 それまで外交的に疎遠だった、オーストリアとの交渉もメッテルニヒと豊臣秀定の間で熱心に行われた。

 

 そしてヨーロッパ以外の各地だが、ブリテンは新たに王国となったオランダのケープとセイロンを獲得した。

 しかしフランスの持つカナダについては、寸土も触れていないとして得ることができなかった。

 一方フランスは、カナダの利権を保持できた。

 フィンランドとポーランド中心部を得たロシア、領土を拡張したプロイセンも勢力を拡大したが、所詮は大陸国家に過ぎなかった。

 

 結果的に、ヨーロッパ以外の世界がブリテン、フランス、日本によって三分割されつつある事を世界に印象づけた。


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