表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
13/38

フェイズ13「北方情勢」

 1645年の唐出兵を終えた日本は、もう一手清帝国に楔を打ち込むべく、中央アジアへの大規模な干渉を決意した。

 当時の日本にとっての一番の問題は、着実に巨大な帝国を出現させつつある大陸国家の清帝国を抑え込む事だと判断されたからだ。

 海洋国家へと進化しつつある日本にとっては当然の選択だろう。

 

 日本は、自らが既に勢力圏としていたバイカル湖地域から、多数の武器を東トルキスタン地域を本拠とするジュンガル汗国に交易でわたし、彼らを清帝国と対立させて日本及び海洋への関心と余力を低下させようとする。

 

 そして外モンゴル地域にまで勢力を拡大させたジュンガルの王ガルダン・ハーンは、モンゴルの独立とラマ教帝国成立のため精力的に清帝国に挑戦する。

 しかも彼は稀代の英雄とも言われており、事実戦上手だった。

 彼は各地で勝利して、騎馬民族の統一を図るような行動に出ていた。

 

 そして事態を重く見た清帝国も、外モンゴル(ハルハ部)からの援助要請と康煕帝がダイハーンの称号を受けた事もあって、ジュンガル討伐を開始した。

 

 この戦いは、最後の騎馬民族同士の対決だった。

 

 ラマ教(チベット仏教)のダライ・ラマ5世からボショクト・ハーン(ホンタイジ)の称号を受けたジュンガルのガルダンと、モンゴルからダイハーンの称号を得た満州族にして中華王朝である康煕帝の戦いでもあった。

 

 しかし今回は、草原の騎馬民族だけの戦いではなかった。

 何しろジュンガルのガルダンの後ろには日本の影がちらついており、これも重なって康煕帝がジュンガルの討伐を決意したからでもあった。

 またガルダンも、宗教や入植者を彼らの草原に持ち込まない日本人の商人や顧問を重用しており、兵器の扱いのためや政治制度導入のために多数の日本人がジュンガル国内に入り込んでいた。

 日本人達は戦国時代の雰囲気のまま、ジュンガル本土に残っていた同族のツェワン・ラブタンがガルダンに対して反乱を起こそうとしたのを未然に防ぐなどの功績すら挙げている。

 

 また一部では、ジュンガルに対してかなりの規模の傭兵の派遣まで行われていた。

 1694年の清帝国軍との事実上の決戦では「鉄人部隊」という鎧武者の屈強な鉄騎馬集団が軍の一翼を担ってもいた。

 しかも日本人は多数の軽量機動砲と鉄砲を豊富な弾薬と共にジュンガルに供給していて、康煕帝の軍と似たような多数の鉄砲と軽量砲を有してもいた。

 

 このためもあって、内モンゴルの「ウランプトゥンの戦」で決戦と呼べる戦いが行われるも、戦いは痛み分けに終わる。

 ただしジュンガルが万里の長城を越えることは遂に出来ず、中華世界を守った康煕帝の清帝国内での評価は大いに上がった。

 

 そしてその後、外モンゴルの本拠地で講和会議が開かれ、両者の境界線が決定される。

 これによりジュンガル汗国が清帝国からも認められ、清帝国への朝貢(貿易)が行われることが決まった。

 またジュンガルの領域としては、外モンゴル、東トルキスタン全域、ワラ部(青海)が認められた。

 ただしチベットは両者の中立地帯とされ、互いに協力してラマ教を守護することを誓う。

 またチャハル(内モンゴル)は清帝国の領土とされ、ジュンガルが得ることはできなかった。

 

 しかしジュンガルは実質的には清帝国からの独立国家であり、その後もジュンガルは圧力の少ない中央アジア方面の遠征を続ける。

 青海を通じて、チベットへの影響力も保持し続けた。

 

 加えてガルダンが没するまでに、ペルシャ、アフガンの境界線近くからアラル海にまで領土を拡張した。

 つまりガルダンは、トルキスタン全域の統一に成功したのだ。

 そしてジュンガルの隆盛は、日本にも大きな影響を与えた。

 

 一つは、ジュンガルの征服によってユーラシア大陸の交易路が日本人の領域と繋がった事。

 このため日本商人は、はるばるオスマン朝トルコの都イスタンブールに陸路ですら向かうようにもなる。

 そしてオスマン朝側の好意もあって、日本商人が北方大陸からユーラシア中央部に深く入り込むようになる。

 この当時オスマン朝トルコが大陸奥地から現れた商人を重用した背景には、大航海時代の進展によって交易による利を失い、さらにはオスマン朝トルコが衰退しつつあったからだ。

 

 そしてもう一つの理由が、ジュンガルによってユーラシアの南進を絶たれたロシアン・コサックの侵入が、日本の勢力圏へと明確に向けられるようになった事だ。

 そして清帝国もロシアの東進を知っていたので、その緩衝地帯としてジュンガルと日本の北方支配を容認した節が存在している。

 


 その頃日本は、早くは15世紀に始まった北方開発に端を発して、国内と中華地域で持てはやされる魚介類(の乾物)とヨーロッパで珍重される毛皮を求めて、冒険的武装商人による北方の乱開発を押し進めていた。

 

 主に関東、奥州の大名がこの権利を幕府から与えられており、奥州の伊達、関東の佐竹、越後の上杉などが各地に日本人入植地を作り、魚介類や毛皮を求めた略奪的探検隊が組織されていた。

 また狩猟を目的とする者が多かった事から、彼らの事は蝦夷もしくはアイヌの言葉を使って「マタギ」と呼ばれた。

 このマタギは、ロシアのコサックと似た性格を持つようになり、少なくとも略奪を受ける側の先住民族からは似たような連中だと解釈され、文明の物産をもたらす者であると同時に、テリトリーを侵す者として忌み嫌われた。

 

 一部では先住民との共存や共同開発も行われていたが、それは日本側の関心が低い場合に多かった。

 特にユーラシアの北極圏近くやアラスカ地域では、かなり友好的だったとされる。

 日本側はイヌイットが狩り取ったアザラシなどの毛皮や肉を、イヌイットは日本から狩猟用の鉄砲やその他生活用品を得ていた。

 そしてこれはアラスカから新大陸北部一円にどんどん広がり、後に日本が広大な大陸領土を主張する大きな要因となっていく。

 

 一方旧大陸、ユーラシア大陸北部に対しては、沿岸部においては豊富な魚介類が求められた。

 また一部では砂金祭り(ゴールドラッシュ)も発生し、各地にその名残ともいえる日本人の街が形成された。

 そして大陸北方内陸部、大蝦夷と呼ばれた地域においては、銀狐、黒テン、ミンクなどの高級毛皮を追い求めた北進と西進が緩やかに続いていた。

 日本側の進出が比較的緩やかだったのは、余りにも寒い大蝦夷に適応できる馬が日本になかったためだ。

 おかげで初期の頃は、樺太などから連れてきた犬ぞりが重宝され、その後、馴鹿トナカイによる橇や馬車が多用されるようになる。

 

 そうして1640年には、バイカル湖に拠点が建設されるまでになった。

 

 なお17世紀中頃の日本人の狩猟領域はレナ川やエニセイ川にまで及び、バイカル湖付近でロシア人に出会うことになる。

 

 そしてロシア人と日本人は、互いにヨーロッパに輸出する毛皮を求めるため険悪な関係として接触し、即座に争いへと発展した。

 しかしロシア側は軍ではなく一種の屯田兵であるコサック主導で、日本側も諸侯単位でのマタギによる進出でしかなかった。

 互いに小規模な組織が多かったため、戦争と呼ぶには至らないものばかりだった。

 どちらかと言えば、部族同士による争いぐらいの規模でしかなかった。

 時折軍隊と呼べるものが投入される事もあったが、遠征の難しさと費用対効果の低さから、小競り合いが主流のまま推移する事になる。

 それでも日本側の方が数が多い事もあって、ロシアを徐々に圧迫して押し返していった。

 

 一方で、中華地域にも含まれる黒竜江に進出していた大名もいたのだが、女真族(満州族)の台頭と共に追い出されてしまい、1620年代には樺太島までの後退を余儀なくされていた。

 

 そして1689年にジュンガル汗国や清帝国地域への進出を条約によっても阻止されたロシア人は、日本の持つザシベリア(和名:大蝦夷)への進出を強めていた。

 一方で日本も、大蝦夷での乱獲から獲物が減っていたため、逆に西に向けた動きを取ろうとしていた。

 

 そして滑稽な事に、日本人、ロシア人共にお互いが獲物を刈り尽くした場所に、自らの求めるものがあると考えていた。

 冷静になって考えれば、互いに求めるものがない事は分かりそうなものだが、欲に駆られた人々に冷静な判断はなかった。

 このため、バイカル湖からエニセイ川(白竜川)近辺を中心にして、ザシベリアもしくは大蝦夷地域からウラル山脈にかけての広大な土地を舞台として、日本人とロシア人の小競り合いと勢力合戦が延々と続く事になる。

 

 この争いは、日本側の六代将軍織田信宗、ロシア側のピョートル大帝の時代に和平条約と国境を定める条約、「バイカル条約」が定められるまで続く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ