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ジパング大航海時代  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ10「大坂時代到来と初期の新大陸移民」

 織田信長死去から一年後の1618年、ヨーロッパでは「三十年戦争」が勃発。

 ヨーロッパは、海外の事が自然と疎かになった。

 

 一方の日本では、信長死去による内政面での混乱は特になかったが、一種の停滞期へと一気に突入してしまう。

 戦国時代後半から続く今までの変化があまりにも激しすぎたため、信長が消えたことが引き金となって、人々がたまらず一息ついたと言える状態だった。

 

 無論政府は盤石だった。

 織田家は信忠を中心に将軍家として安定しており、彼らは武士の統制以外で現実政治に深く踏み込む意思を持たなかった。

 織田信忠はそう言う意味では傑物や英雄ではなかったが、政治と権力に対する良識人であったと言うべきだろう。

 ある意味理想の二代目だった。

 また関白と太政大臣は、多少の権力争いは見られたがその時代時代の優秀な有力者に委ねられ、愚政を行うことはあっても悪政を行うような事はほとんどなかった。

 

 日本は織田信長という覇王による事実上の絶対王政を経験した後に、一気に事実上の権威的君主国家(この場合、一種の啓蒙君主国家)に流れ込んでいたのだ。

 このため織田信長が権勢を誇った時代を「安土大坂時代」と呼ぶ。

 時期的には、1573年の室町幕府滅亡から彼の没年の1617年の約四十年間になる。

 

 それ以後は織田幕府の本拠が大坂であるため、「大坂時代」と呼ばれるようになる。

 もしくは「織田時代」と呼ぶ場合もある。

 また幕府が開かれた1585年からを同時代で呼ぶ場合も存在する。

 

 そして信長没後から活発な動きをみせた動きが一つあった。

 日本列島内でのキリスト教徒への迫害である。

 

 信長自身は、当初は本願寺など旧勢力排除のためと、日本に新規な風、技術を入れるためにキリスト教を保護した。

 天下統一後は、彼自身の合理性と一部清廉なイエズス会宣教師とのつながりから、日本と日本人の中でキリスト教は平和のうちに共存できると考えていたとされる。

 ただし信長は、キリスト教の悪い点を排除することには熱心であり、侵略や人種差別を排除したキリスト教のみを受け入れるよう努力していた。

 またそれでも国内での迫害や白眼視があったので、キリスト教徒自身に自らの新天地を探させた。

 無論日本人の勢力を広げるという主目的の上ではあったが、目論見は成功を以て報いられた。

 

 そうして南天大陸が開拓されたことで、一つの道筋が付けられた事になる。

 しかし新天地が見つかったからと言って、日本列島から出たがらないキリスト教徒の方が圧倒的多数だった。

 日本で極端に差別や弾圧もされないのだから、当然と言えば当然だろう。

 日本列島は、世界的に見てもかなり住みやすい気候の土地だったのだ。

 

 しかし信長死去すると、俄に切支丹(キリスト教徒)への差別と迫害がまき起こる。

 もともと島国であり閉鎖的環境に慣れていた日本人本来の拒絶反応が、巨人の消滅と共に吹き出した形だった。

 

 動きは織田幕府によるものでも統制的なものでも無かったが、反動であるため差別と迫害、そして事実上の弾圧も急速で激しくなった。

 ただし主に民衆と旧宗教勢力となる寺社勢力によるものだったため、政権自体が弾圧したり迫害したのではなかった。

 むしろ幕府は、常に事態の沈静化と行き過ぎた者への処罰、切支丹の保護を行ったほどだった。

 

 そうした中、切支丹大名明石全登に率いられた4隻の船団が、東の新大陸へと航路を取った。

 彼らは日本人切支丹の中でも特に「純粋派」と言われるイエズス会の影響が強い日本風でないキリスト教を信仰する人々であった。

 このため、既に日本人切支丹の主要新天地となりつつあった南天大陸を選ばずに、まだまだ未開地が多いと言われていた新大陸に進路を取ったのだ。

 

 そして道中1隻を失った船団は、サンフランシスコ(聖府)に至る。

 1620年のことだった。

 同時期大西洋では、イングランドで迫害されたピューリタンがプリマスに上陸しており、奇妙な共通項と言えるだろう。

 

 到着した彼ら移民達は、最初に日本に訪れたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの導きだとして、天に感謝した。

 そしてそれにちなんで、多坂と名付けられていその場所を、スペイン語風にサンフランシスコ(聖フランシスコ=現:聖府)に改名した。

 

 なお当時カリフォルニアはノヴァ・イスパニアの最北端に位置しており、南部のロサンジェルスやサンディエゴにはごく少数だがイスパニアの役人も駐在していた。

 しかしサンフランシスコは、イスパニアの勢力圏外だった。

 また彼らは、日本から遠路やってきた異民族のキリスト教徒に寛容で、交流や交易を行った。

 当時はわずかな数の原住民が散在する以外、ほとんど人の住まない場所だったので、相手がキリスト教徒であるなら友好的に接する方が遙かに得策だった。

 

 以後日本人移民達は、イスパニア人のいない場所を中心に開拓を行い、サンフランシスコとサンフランシスコ湾内陸部の櫻芽市を建設するに至る。

 そしてサンフランシスコ湾一帯では稲作が可能であり、日本的な収穫物を得ることができた。

 そしてこれが日本に伝わり、日本国内の切支丹の多くが新大陸に流れる切っ掛けとなった。

 

 1637年には、九州の島原地方で起きた大規模な不作を契機として多数の切支丹移民が発生する。

 短期間で3万人もの移民者が、大圏航路をたどって新大陸西部に至った。

 

 なおノヴァ・イスパニアのイスパニア役人と宣教師は、日本人ハポンを準イスパニア人であるとして、自らの植民地にも移民を受け入れ、さらには政治的に利用した。

 主な理由は奥地の開発と植民地化、そして原住民の殲滅に力を入れるためだった。

 しかしこれは、純粋派と言われていた日本人の反発を呼び起こし、日本人独自による出来る限り争いを伴わない進出へと形を変えていく事になる。

 

 どちらにせよリオグランデ川以北は、数の差から事実上日本人切支丹(後に普通の日本人が増加)並びに日本人移民の勢力圏へと姿を変えていく事になる。

 また、カリフォルニア南部各地のノヴァ・イスパニア北部も同様に、戦争を経ずにイスパニア領から日本の勢力圏へと変化していく。

 それほど日本人の増加は急速であった。

 また現地インディアンは、イスパニア人と日本人が持ち込んだ疫病により、日本人が何かを行う前に簡単に死滅に近い打撃を受け、勢力争いをする間もなく日本人の勢力が新大陸西海岸北部一帯に広がっていくようになる。

 

 なおこの時期に新大陸の和名である「蓬莱大陸」が日本人の間でほぼ定着し、日本人が最初に進出した地域を伊達州、サンフランシスコ一帯をカリフォルニアというスペイン名そのままに加州、ロサンゼルス地域を砂州と呼ぶようになる。

 

 また当初日本人が東夷や蓬莱民と呼んでいた原住民族は、イスパニアの影響を受けた日本人切支丹の影響から、当面はインデオ(インディオ=インディアン)と日本人の間でも呼ばれるようになる。

 

 そしてイスパニアであれ日本人であれ、キリスト教徒が進出した場合は原住民のキリスト教の布教と古来の信仰破棄が強制された。

 当然衝突も発生したが、ここでは新大陸に渡った失業武士が大いに活用され、新大陸各地で悪行を繰り返すことになる。

 そしてカリフォルニア南部を除く地域の殆どが山間部か乾燥地域のためインデオの人口密度は低く、日本人もさらなる豊かな土地を求めて東進するようになる。


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