1/1
承認欲泣
昔、科学が盛んだった頃に学べば。
物体はそれを認識する者がいて初めてそこに存在し得る、らしい。
誰にも認められることなく、それでも生きていけるのは、自己を、自身が認めているからではないか?
「哲学」は、曖昧な自己を定めたい者がいたから生まれた、そう考えるのは考えすぎだろうか?
もしこの世界が、「そう」思いたい者で溢れ返っていたのなら。
自己への認識を他社に委ねる恐怖から逃れたいが為に、他者を変えて、環境を変えて、幻想にしがみつく傲慢があったなら。
幾つ世界があっても足りない、そうだろう?
初投稿です
黒歴史を手当り次第に生産しようと思いまして