第六話
流通センターには何の恨みもないんですが、人の出入りが激しくて人目につく場所でなくて建物自体は目立つということで、倉庫のような場所として選んだ、という気がします。
うすうす予想はしていたが、秋森の夢見はよくなかった。夢の中で秋森は金縛りにあい、数万もの茶褐色の線虫が皮膚の裏で肉を食い散らかしていた。全身が汗で濡れ、軽い頭痛がした。ふすまの向こうから聞こえる物音のおかげで助かった。目は覚めていた。目覚まし時計の針は十一時半をさしていた。カーテンの向こうは明るい。
寝間着のままなのが気になったが、着替えは居間に置いてある、というより散らばっている。仕方がないので秋森は和室から居間へ出た。カフェオレを飲んでいた宮沢佳奈が秋森に気がついた。裾の長い黒のセーターを着て、ベージュのスカートをはき、黒いストッキングを着けている。
「おはよう、セイン。台所は借りたけど、コーヒーと牛乳は私が買ってきたやつだから」
宮沢佳奈がなぜか照れくさそうにコーヒーカップを持ち上げた。
「それくらいなら勝手に使ってくれてもいいよ。牛乳は、冷蔵庫にあっても飲まない方がいいとは思う」
「みっしーが危なそうなものはだいたい捨てたよ。ええと、生ごみは捨てても良かったよね?」
「ありがとう」
宮沢佳奈はおかしそうに笑った。秋森は、宇宙人たちに請われるままに家に泊めただけなのだが、見慣れた居間が暖かく変わった気がした。昨日までは、空気ももっと乾いていた気がする。美人はこれだから得だ。秋森は無意味に表情を引き締めた。宮沢佳奈にコーヒーを飲むか聞かれたので、秋森はもう一度ありがとうと言った。
居間が昨日と違っているのは、宮沢佳奈だけではなかった。洗濯物と洗濯していないものは消えている。ソファのクッションは座面に柔らかそうに転がり、応接テーブルの上では、昨日までは端の方で丸まっていたテーブルクロスや、その他秋森にも把握できなかった雑物が姿を消し、宮沢佳奈のコーヒーカップだけが静かにたたずんでいる。フローリングの床は、数年分ぶりにつやを取り戻していた。新品に変わったというわけではないし、フローリングの床や応接テーブルの角には細かな傷が隠しようもなく残っているが、平らなものはことごとく、埃を取り払われて誇りを取り戻したように見えた。応接テーブルの下の段で、ペン立てに斜めに入っている爪切りや耳かきまでもが、胸を張って自らの本分を果たすときを待っている。居間の隅で四つ並んでいるゴミ袋だけがつや消しと言えるが、それくらいの汚点がなくては、かえって秋森は居心地が悪い。
「他の人たちはどうしてる?」
秋森は宮沢佳奈が淹れてくれたコーヒーを飲みながら聞いた。寝間着姿でアイドル系女子と昼から寝起きのコーヒーなど、伸びきったゴム紐のように緩んだ幸せと言える。ただし、相手は宇宙人で、秋森は昨夜からのめまいが消えていなかった。
「新菜は出かけてて、帰りは遅くなると思う。みっしーと薫は二階とトイレを掃除してる」
トイレ掃除を人にやらせるというのは、かなり人間としてだめだと秋森は思う。秋森は身の置きどころがないような気持ちになった。
「みっしーには、捨てていい物の確認を取られるかな」
「後で聞くってみっしーは言ってたよ。ロウソクとかCD-Rとか、一応分けてあるけど、埃がすごかったよ?」
「CD-Rは取っておいてもいいけど、ああ、どっちにしろ使う予定はないか」
「捨てた方がいいと思う」
返す言葉もない秋森だった。尾崎みすずが生き生きと、これは何に使いますか捨てても困りませんねと、秋森に迫る姿が想像できた。ロウソクを分けておくくらいだから、大事な物が捨てられてしまうことはないだろうが、尾崎みすずは、気を使って掃除した分だけストレスが溜まっていそうで、秋森は少し気が滅入った。
秋森はシャワーを使い、髪を乾かして寝巻を着替えた。居間に戻ると、宮沢佳奈に加えて、尾崎みすずと相原 薫がソファに座っていた。
尾崎みすずは昨日と同じメイド服を着ていた。掃除には向かない服装に見えたが、汚れもついていないので、掃除中は着替えていたのかもしれない。なぜメイド服を着続けるのかは、秋森には謎だ。相原 薫はダークグレイのワイシャツにスラックスで、全体の印象は昨日と変わりがない。宇宙人たちは三人掛けのソファの方に座っている。ソファの端には、昨夜、尾崎みすずが持っていた竹刀袋のようなものが立てかけてあった。秋森はおはようと言って、空いていた一人掛けのソファに座った。
「調子はどうですか」
尾崎みすずが聞いた。
「少しよくなったよ。そっちこそ昼飯はいいの?」
「半端な時間に食べたので、今はいいですね」
宮沢佳奈と相原 薫も、尾崎みすずと同様のようだった。
「いろいろとありがとう」
秋森は、コーヒーカップを持ち上げながら言った。シャワーを使っている間に、宇宙人の誰かが淹れてくれたらしい。
「どういたしまして。秋森隆一郎は何か食べなくてもいいんですか?」
尾崎みすずが言った。
「あまり食欲がないし、晩飯以外はもともと規則正しくは食べてないよ」
「そんなところだろうとは思ってましたが、不健康ですね。食べたくなったら言ってください」
昨日までとは見違えるように広くなった応接テーブルの上を、緊張が走った。
「先にセインに事情を話した方がいいんじゃない。食べたいものがあったら私が買ってくる」
宮沢佳奈が素早く口をはさんだ。
「うん、僕たちみんなにとって大事な話だ。セインの身の安全に関わることでもある」
「薫さんまで、なんですか」
尾崎みすずは不服そうだったが、秋森も身の安全は気になった。
「帝国軍の残党のことを教えてほしい。俺は昨日は、途中から何が起きたか、覚えていないんだ」
「釈然としませんが、いいです。確かに帝国軍の残党の件は、秋森隆一郎にも知っておいてもらった方がいいでしょう」
尾崎みすずがソファの上で座りなおした。
「反帝国運動の話は覚えているかと思います。反乱側は帝国に勝利しましたが、圧勝というわけではありませんでした。帝都を占拠したことによる僅差の判定勝ちと言うのが、実際のところです。帝国との戦いで、反乱側、今の銀河連盟は、戦力の六割を失いました。一方で、帝国側は総戦力のおよそ八割が無傷で残っていたんです」
百人と百人で戦争していたわけでもないだろうから、戦後の宇宙にすさまじい荒廃が残ったことは、秋森にも想像ができた。
「具体的なことはわからないけど、帝国軍がまとまったら、連盟が負けるように聞こえる。それでも、戦争は銀河連盟の勝ちなのか?」
「はい。帝国軍の残存勢力がどれだけあろうと、基本的には問題になりません。帝国は皇帝を頂いた身分社会だったことは、昨日説明した通りです。皇帝の死によって、彼らは指揮系統と精神的支柱を失いました。残党同士で連合なんてできるはずもありません。連盟の追撃を受けるまでもなく内部抗争で部隊がまるごと瓦解したり、残党同士で戦闘を繰り返して自ら消耗している有様です」
「地球の歴史だと、皇帝が死んだら軍閥が群雄割拠したりするものだったけど、そうはならなかったのか」
「そのあたりは、連盟は半分は政治的に解決しました。特例として、連盟の理念に反対しない貴族には生命と一定の生活の保障を与えたんです。これも、セインが事前に立てていた策のひとつですが、残念なことに、実施に当たっては混乱が起こったのも事実です」
「私のことなら気にしなくていいよ、みっしー。きっとみんな、いつかわかってくれる」
宮沢佳奈が言った。尾崎みすずが宮沢佳奈に軽く頭を下げた。秋森には理解できないやりとりだったが、軽々しく尋ねるのもはばかられた。
「とりあえず、戦争の後も、政治的社会的にひどい混乱があったと理解しておいてください。すんなりと決まったのは、帝政の破壊くらいのものです。セインを除く帝位継承者は処刑され、他の皇帝一族は終身刑に処せられました」
尾崎みすずは例によって淡々と語るが、宇宙は治安が悪いどころか血なまぐさいらしかった。セインは自らの親兄弟を処刑するために戦っていたことになる。地球人が宇宙に出るのは、皇帝や反乱軍の怨霊が鎮まってからでも遅くないのかもしれない。
「もしかして、帝国軍の残党は、残党同士を糾合するためにセインを探しているのか?」
秋森の問いかけに、尾崎みすずは頷いた。
「その通りです。正しくは、帝国の再興のためですね。帝国軍の残党は、ひとつひとつは宇宙海賊程度の脅威でしかなく、連盟を覆すだけの力はありません。支持者も指揮者もいない非合法武装集団ですから、連盟が治安維持にもっと力を割けるようになれば、いずれは消滅する勢力です。ただ、彼らが統一した指揮者を戴き、連盟の不満分子を集めるような動きに出ると、事態は一気に緊迫します。これは、今の連盟がもっとも憂慮している事態のひとつです。なにしろ、今の連盟には、帝国軍の残党を力づくで制圧するだけの余裕がありません」
尾崎みすずの話をまとめると、セインが帝国再興のために起った場合、樹立間もない連盟は太刀打ちできないことになる。秋森は寒気を覚えた。今の時点で、連盟が打てる最上の手は、セインを捕まえて連盟に協力させるか、暗殺することだ。
「でも、セインは帝国を倒すために戦っていたんだろう。帝国の再興なんかに協力するとは思えない。帝国軍の残党だって、それはわかっているんじゃないか」
「そうですね、ですが、彼らに必要なのは指導者というよりもシンボルです。たとえセインが帝国の再興を望まなくても、帝国の残党にしてみれば、セインの身柄があれば目的の半分以上は達成できます。彼らは、今の秋森隆一郎なら、洗脳するか、口を利けない体にすることが簡単にできます。後は、新皇帝の親衛隊とかブレーンとでも名乗ればいいだけです。もしもあなたが記憶をなくしていなければ、帝国の残党に見つかっても、私たちもここまで心配はしないのですが、どうにも運がありません」
「セインの記憶があると安全になるのか?」
「そうですね、まずはセイン自身が歴戦の英雄であることです。もうひとつは、彼は私たちや、帝国軍の残党には扱えない装備を使えることです」
秋森はジェダイの騎士を連想した。光の剣を振り回す超能力者であり、戦士であれば、捕まえるのも容易ではないだろう。かといって、秋森は自分が戦士だとはとても思えない。
「セインが、というか俺が、連盟に降伏しろと帝国軍の残党に言ってもだめなんだろうな」
「相手によっては可能性はゼロではありませんが、まず試す価値はないですね。彼らが必要としているのは帝国の新皇帝です。皇子の身分を捨てた上に帝国を破壊した張本人の言うことなんて、聞く耳はないでしょう」
妄念に取りつかれた宇宙海賊となると、日本の警察がどうにかできる相手ではなさそうだった。アメリカの軍隊でもたぶん無理だろう。
「銀河連盟に助けてもらうのはだめなのか」
「今は無理です。昨夜、私たちの船は帝国軍の残党に捕捉されました。こちらは非武装ですので、着陸させてどうにか身を隠させています。連盟に通信を送れば、発信源を特定される恐れがあります。おそらく、私たちを捕捉した帝国部隊もごく小規模な分隊程度で、たいした装備もないと推測できますが、こちらから船の位置を知らせるような真似はできません」
秋森の知識にあてはめると、戦記もので出てくる無線封鎖の状態なのだろう。もっとも、宇宙人が使っているのは電磁波なんてちゃちなものではなく、超光速粒子タキオンだったりするはずだ。
「小規模というと、その帝国軍は、具体的にはどれくらいなんだ」
「多くて二十人、少なくて二人ですね。船は、揚陸艇程度の小型船が一隻です。戦闘能力はたいしたことはないでしょう」
「ごめん、やっぱりよくわからない」
秋森には、宇宙人の戦闘能力の基準が見当もつかなかった。
「大丈夫だよ、秋森隆一郎。私もよくわからない」
宮沢佳奈が明るい笑みを振りまいた。秋森はそれで安心できたわけではなかったが、宮沢佳奈は性格が素直なことはわかった。相原 薫が少し考えてから口を開いた。
「船の火力なら、多く見積もっても原爆十発程度かな。陸戦力なら、向こうの装備にもよるけど、地球の軍隊でも対処できると思う」
「原爆十発は、ぜんぜん安心できないよ」
秋森はため息をついた。それくらいしかできることがない。
「実際に爆撃を行ったりはしないと思うから、そこは安心していいよ。向こうの目的はセインの確保だから、無差別爆撃は彼らにとっても下策だ。最悪のケースでも地球人が絶滅することはないと思ってほしい。秋森隆一郎にはわからないかもしれないけど、帝国を相手に戦うなら、これは幸運に恵まれてると言っていいんだ」
相原 薫は涼しげな顔で微笑んでいるが、言っていることは重かった。秋森は二、三度唾を飲みこんだ。平和ボケした日本人と言うが、平和ボケしていない世界は、きっと一言一言が重すぎる。
「状況は最善でもなければ最悪でもありません。たいがいの出来事と同じですが、それにしても、地球でやつらに目をつけられるなんて、奇跡的な確率です。わかっていれば準備もしたところですが、そこまで想定していたら何もできません」
尾崎みすずが嘆息した。
「でも、みっしー、きっとあの人たちも、そのうちどこかに行っちゃうよ」
宮沢佳奈が言った。
「そうですね、それを期待するしかありません。私たちが秋森隆一郎の護衛についてきたのは、そういうわけです」
「護衛とは言うけど、帝国軍の残党が襲ってきたら、君たちが戦うのか?」
秋森は宇宙人たちを見渡した。昨日の注射騒ぎのときに、見た目以上に力が強いことはわかっている。もっと言えば人間離れした腕力だったと思うが、凶悪な宇宙海賊相手にどうやって戦うのか、秋森は宇宙人たちの戦闘能力を信じきれなかった。相原 薫が秋森の問いに応じた。
「戦うのは最後の手段だよ。目立たないように隠れて、見つかりそうになったら逃げる。向こうも地球人を一人ずつ探して歩くわけにもいかないから、いずれは諦めて、一度は地球から出ていくと思う。そうでなくても、隙があれば僕たちの船で脱出できる。今、秋森隆一郎とセインの関係を知られないように、望もセインの捜索を妨害している。秋森隆一郎、君には、まず状況を理解してほしい。そして、必要なときは僕たちと一緒に移動してもらいたいんだ」
秋森隆一郎の公的記録は、宇宙人たちは簡単に入手できる。河合 望が行っているという捜索の妨害とは、情報的な欺瞞工作のことだろう。
「あまり一人で外をうろつかないでくれ、ということか」
「そうだね、しばらくはこの家も出ないでほしい」
「いつまで隠れていないといけないと思う?」
「ここ数日は絶対に家を出ないでいてほしい。落ち着いたら外出してもかまわないけど、そのときは僕たちの誰かがついていく。帝国軍の残党を振りきるまでの時間は、向こうの物資や忍耐によるけど、長くて一年だと思う」
「わかった。努力する」
相原 薫の表情が険しくなった。中性的な美形だというのに、かえって刃物を思わせる凄味があった。
「秋森隆一郎、命がかかっているんだ。努力ではなく、約束してほしい。僕たちとしても、君のプライバシーや生活はできるかぎり尊重する」
「悪かった、約束する」
秋森は反省した。平和ボケしている場合ではないのだった。身を乗り出して聞いていた宮沢佳奈が、はためにもわかるほど脱力してソファに背をつけた。彼女の性格からして、話の内容よりも秋森と相原 薫の間柄を気づかっていたと思えた。秋森としても、相原 薫の提案には文句はつけられない。強引なところが多少気に入らないとはいえ、この宇宙人たちは、秋森の命を心底から心配していた。もっとも、本当に大事なのは秋森隆一郎ではなくセインなのだろうが、たぶん、命はひとつなのだろう。
「さて、納得してくれたようですね、秋森隆一郎。話は変わりますが、私たちは、これから一年ほどこの家であなたを護衛するわけですが、事前に確認を取りたいことがあります」
尾崎みすずが言った。これは厄介な話だと秋森は直感した。
「ありがとう。明日からも大変だろうし、俺にはわからない面倒事もたくさんあるんだと思う。今日はゆっくりしたらいいよ。俺も一人暮らしが長いし、家のことはたいてい自分でできるんだ」
「正直に言って、とても自分でできていたとは思えません。私たちは、いえ、私は今日は秋森隆一郎宅の掃除と洗濯をやると決めました。ゴミに出すべきか出さないべきかわからないような、そんな曖昧なものが残っていては、私の仕事が画竜点睛を欠きます」
どうも藪蛇のようだった。尾崎みすずの性格を考えれば、秋森が何を言おうと論破するだろう。秋森は、ゴミとゴミでないものの仕訳は、せめて明日にしたかった。
「続きは、ちょっと一服してからにしない?」
秋森はテレビのリモコンを取って電源を入れた。居間のテレビをつけるのは数カ月ぶりだが、当然、問題なくテレビは映った。問題があったのは画面の内容だった。
テレビには、炎上する建物と消防車が映っていた。秋森にも見覚えのある札幌の流通センターだった。