第四話
投稿してみて、だいたい一話が七千文字程度だということに気がつきました。
秋森は凍りついた歩道を歩いていた。街灯の向こうに暗黒の空が見える。歩道と車道の間にある雪のボタ山が、街灯の光を受けてオレンジ色に染まっている。飲みすぎた晩のように記憶がはっきりしなかった。どこに向かって歩いているのかもわからなかった。雪は降りやんだようだった。秋森は吐き気に襲われた。
歩道の中央を避けるのが精一杯だった。雪のボタ山が秋森の吐きだしたもので少しだけ溶けて、白い湯気が立った。口の中にスープカレーの匂いが残ったが、固形物はほとんど出なかった。諸沢の顔が思い浮かび、秋森は諸沢に向けて、あまりに食いすぎると記憶が飛ぶんだぜ、と心中で話しかけた。
「寝ぼけてるなら目を覚まさせてやるよ。一発だ」
秋森の脳内の諸沢が暑苦しい笑顔を浮かべて、怪しげなスプレーを秋森の顔に向けた。秋森は愕然とした。冬の夜道にうずくまり、行く先を見失って途方に暮れたときに、真っ先に思い浮かべるのが、親でも別れた元カノでもなく、よりによってなぜ諸沢なのか。
誰かが秋森の背中をさすった。
「セイン、大丈夫?」
秋森は体を震わせた。宮沢佳奈の声だった。爆発したように記憶が甦った。諸沢とスープカレーを食べた後、宇宙人にさらわれ、秋森は宇宙帝国の元皇子で反帝国軍のリーダーだと告げられたのだった。そして最後に注射を打たれ、それからの出来事がわからない。
秋森はゆっくりと立ち上がった。今まで気がつかなかったが、真冬の深夜にも関わらず体は汗ばみ、寒さが苦痛ではなかった。かなり長い間、歩いてきたようだった。秋森を囲むようにして、宮沢佳奈と高梨新菜、尾崎みすず、相原 薫が立っていた。
「いったい、どういうことだ」
秋森はめまいを感じながら言った。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったが、今は長い言葉を喋れなかった。
「どんどん歩いていくから、ついてきたけど、具合、大丈夫?」
宮沢佳奈が心配そうに言った。ベージュ色のダッフルコートを着て、毛糸の白い手袋を着けている。つい、ドラマのワンシーンにいるような気分になる。宇宙人なのがもったいないと、秋森はあらためて思った。
「気分は悪い。どうして、あんたたちが俺と一緒にいるんだ」
「帝国軍の残党がセインを探してる。今はセインは記憶喪失で、襲われたら危ないから、みんなで守ることにしたんだよ」
勝手な言い分に聞こえて、秋森は怒るために息を吸い込んだが、宮沢佳奈が心細そうな顔をしていたので、大声を出すのはやめにした。
「帝国軍の残党というのは何なんだ。それに、どうして俺が狙われるんだ」
「海賊なんだ。今も、街を爆撃するし、人を誘拐するし、人質を取っても簡単に殺しちゃう。セインを探しているのは、今は、セインが帝位継承権第一位だからだと思う。帝国の再建が、あの人たちの最後の希望、らしいよ」
宮沢佳奈自身が、帝国軍の残党を怖がっているように見えた。
「佳奈、もういいよ。この話をするのも五回目なんだし、たぶんすぐに六回目をやることになる」
高梨新菜が呆れたように言った。ファーがついた、裾が長い赤いダウンジャケットを着ている。高梨新菜には注射の恨みがある秋森だったが、周りが暗いことを差し引いても、絵になっていることは認めざるを得なかった。
「新菜、その言い方はないよ。秋森隆一郎の具合が悪いのは、あの栄養剤のせいなんだ」
相原 薫が言った。こちらはグレーのトレンチコートに黒い革手袋を着けている。いちいち認めるのも癪だが、この宇宙人も、同じものを秋森が着るよりずっとさまになっている。
「わかってるけどさ、もう四回も謝ってる。気分が腐る」
高梨新菜が肩を落として言った。秋森に怒りをぶつけるのはお門違いだということはわかっているらしい。高梨新菜は、さっぱりしていないものが苦手なようだった。
「話の続きですが、詳しいことは秋森隆一郎の家についてから、あらためて説明することになっています。とりあえず、護衛のために自宅を訪問したいので、同意してください」
尾崎みすずが言った。いつも通りの話し方だが、どこか疲れて投げやりな感じがした。これも五回目なのだろう。彼女の格好が、宇宙人たちの中でもっとも奇妙だった。どこかのスタッフ然とした青いダウンジャケットを着て、黒い毛糸の帽子を被り、肩幅よりも広い巨大なバックパックを背負い、竹刀袋のようなものを肩にかけている。他の三人もボストンバッグやスーツケースを手にしているが、常識的な旅行者の範疇だ。尾崎みすずのダウンジャケットの下で広がるスカートと白いフリルが、はみだしてしまいましたが防寒上の問題はありませんと言っているようで、秋森の目にも残念な美少女に見えた。
「新菜」
相原 薫が高梨新菜を促した。
「はいはい、わかりましたよ。ごめん、秋森隆一郎。さっきは悪かった、謝る。あれはミミクリイチェックじゃなくて栄養剤だったけど、体に害はないから安心して。それと、帝国軍の残党が地球に来ているようだから、今の秋森隆一郎を一人でいさせたくない。しばらく、秋森隆一郎の自宅で護衛したい」
秋森は少しの間、考え込んだ。女三人と男一人の宇宙人がしばらく、秋森の家に寝泊まりすると言う。この宇宙人たちの行動原理を考えると、断るには秋森の気力も体力も足りなかった。
「わかったよ。ただし、さっきの注射のような真似は絶対にやめてくれ」
宇宙人たちはそれぞれ神妙に頷いた。
幸いなことに、秋森は周りの景色に見覚えがあった。秋森にはめまいと頭痛こそあるが、南北線の真駒内駅は歩いて行ける範囲だった。
秋森は宇宙人たちをひきつれて真駒内駅の改札を通った。宇宙人たちは手慣れた様子でkitacaを使っていた。偽造だろうが、宇宙人の超技術による完璧な偽造だろうから、秋森にはかえってありがたかった。宇宙人に切符の買い方を教えたり、切符代を立て替えたりしなくてすむ。捕まえるのは警察の仕事だ。だいぶ宇宙人に毒されていると秋森は思ったが、茶褐色の微小生物を首筋に注入された身としては、生きているだけでも幸運なのかもしれなかった。
終電に近い時刻のせいか、地下鉄の乗客は少なかった。もっとも、尾崎みすず以外は観光客に見えるだろうから、見られてもあまり気にならない。尾崎みすずについては、見た人間の想像力に任せるしかないが、警察に職務質問されるほど不審なわけでもない。
秋森の携帯が鳴り、見ると河合 望からの着信だった。秋森が操作するよりも早く、携帯の画面にアニメライズされた三頭身の河合 望が映った。吹きだしが出て、こんばんは、耳に当ててくださいと書いてあった。秋森は要望の通り携帯を耳に当てた。
「ありがとうございました! 秋森隆一郎さんはナノデバイスを使用していないので、今後、私との連絡はこうして取ることになります。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
秋森は携帯にぼそぼそと囁いた。今後、宇宙船の操船補助コンピュータに用事があるとも思えなかったが、秋森はめまいがひどく、窓に頭を預けているような有様で、礼儀通りにするのが結局は一番楽だった。
「連絡先に私の番号を追加しておきましたので、用があるときは気軽にかけてください。他の人たちは、通信機器を使わなくても私と会話できるので、誰かを通して言ってもらっても大丈夫です! おやすみなさい!」
河合 望との通話が切れた。秋森は、スマホがもはや半分しか自分のものではないように感じた。
いつもならさっぽろ駅から電車に乗り換える方が早いが、今の体調では階段の上り下りもおっくうで、大通で東西線に乗り換える方がまだ楽だった。地下鉄に乗っている間の宇宙人たちはおとなしかった。宮沢佳奈がちらちらと視線をよこすものの、そのたびに秋森の体調を慮って話しかけるのをやめているようだった。秋森も、地下鉄でセイン呼ばわりはされたくなかったので、ちょうどよかった。実際のところ、秋森は地下鉄の中で眠りかけていた。
宇宙人たちは改札の出口も危なげなく通り、秋森たちは地上に出た。地下鉄で眠ったおかげなのか、秋森の頭はわずかに清明になっていた。
「そういえば、俺のことを調べたんなら、家の場所もわかってるんじゃないか?」
「知っているよ。でも、招かれる方が先に歩いて行ったらおかしいと思う」
相原 薫が答えた。
「招く招かざるってほどたいした人間でもないんだけどな」
「そんなことはないよ」
相原 薫の返事には微妙に力がこもっていた。そうかもな、と秋森はあいまいに口中で呟いた。
「帝国とか連盟とかにとっては、地球は相当の田舎なのか?」
秋森の質問に、今は不審人物寸前の尾崎みすずが冷笑を浮かべた。
「田舎どころか、地図にも載ってない小島といったところです」
「帝国に狙われないのはありがたいことだったんだろうね。俺にとっては大事な星だ」
尾崎みすずには、地球を蔑視しているつもりはないのだった。秋森も彼女の話し方に慣れてきていて、腹は立たなかった。
「この星は、帝国にとってはないも同然でした。正直に言うと、宇宙に進出もできていない種族は、帝国では人間扱いされません。この程度の文明では、搾取しようにも絞るものがなさすぎて、征服するのは非効率というか、考える方が頭おかしいレベルです。言ってみれば、何の役にも立たない雑草一本を手に入れるために装備と人員を調達して遠征隊を送るようなものです。確かに、あなたの言うとおり、地球は幸せな星です」
さすがに、秋森は地球人代表として文句の一つも言いたくなったが、尾崎みすずの顔に陰があったので気がそがれた。なにしろ、彼女はたぶん、生きるために帝国と戦わざるを得なかった。文明が未発達ゆえの幸福というものは、彼女自身にとって重い皮肉だ。秋森は慰めを言う気はなかった。
「セインは、一人暮らしなんだよね」
宮沢佳奈が少し硬い声で言った。
「そうだけど、俺の個人情報は全部調べたんじゃないか?」
「結婚してないのは知ってるけど、付き合いのある人までは知らない」
宮沢佳奈の言い方はまわりくどく、秋森は面倒くさくなった。付き合いのある人間と言ったって、この場合、諸沢のことを知りたいわけではないだろう。秋森は、今は彼女もいないと正直に答えてもかまわない。だが、宮沢佳奈が気にしているのはセインの交際関係であって、秋森隆一郎の交際関係ではなかった。そして、宮沢佳奈の歯切れが悪いのは、セインの目を気にしているからだった。
「俺は、セインと同一人物かもしれない。でも、俺はセインの記憶はない。その辺りは、宮沢さんはどう思ってる?」
「検査の結果は知ってるし、見た目はセインだけど、あんまり似てないと思う。二重人格みたいな気がするんだけど、セインはどんな感じなの?」
「セインという人は知らない。そんな感じだよ。だから、聞かれても答えられない」
宮沢佳奈が走って秋森の前に回り込んだ。
「あの、そういうつもりじゃなかったんです」
「いいよ、俺はセインに見えるんだろうし、俺は、自分がどう見えるかまで考えてなかった。ただ、俺は本当にセインのことは何もわからないんだ」
秋森はいくらかの自己嫌悪を覚えていた。
「そうですよね。私、おっちょこちょいだから、いつもみっしーとかに助けてもらってて」
「俺も悪かった、普通に喋ってほしい。みっしーは言葉は丁寧だけど、言ってることはだいたい優しくない」
「そういえばそうです、そうだね」
宮沢佳奈が吹きだした。アイドル顔のせいか、笑うと周りまで明るくなったように秋森には見える。
「みっしー、言われてるぞ」
高梨新菜が言った。
「毒舌なのは自覚してます。いまさらどうとも思いません。だいたい、秋森隆一郎だってけっこうなものです。寒いので、そろそろ進んでください」
尾崎みすずは顔も上げなかった。背負っている荷物の重さは感じていないようだった。
「俺がセインに見えるというのは、どうしてなんだ?」
再び歩き出しながら、秋森は聞いた。
「擬態のおかげだよ。お互い誰が誰だかわからなくなると困る。だから、擬態した後の姿でも見分けがつくようになってる」
高梨新菜が答えた。
「じゃあ、好きに姿を決められるわけじゃないのか」
「地球人としては別人になるくらいはできるけどね。よくできてる機械だよ」
話しながら、秋森は宇宙人たちが、雪の踏み跡の外側を妙に広がった隊列で歩いていることに気がついた。護衛だと言っていた。この宇宙人たちはもしかすると、壮大な人違いをやらかしているのかもしれないが、伊達や酔狂で地球に来ているわけではなかった。街灯の光が届かない暗がりが不気味に見えてきて、秋森は黙り込んだ。
秋森の家は、心配していたほど雪が積もってはいなかった。実家があった家に引っ越すときには、雪かきを考えて怖気づいたものだが、家賃には代えられなかった。車を処分したのは正解だったと、秋森は今でも思っている。もっとも、秋森が生まれた辺りから北海道の景気は沈下を続けていて、北海道新幹線が開通も期待されていたほどの経済効果は上げず、札幌の周辺部はどこも小じんまりした街になり、秋森の家の付近では、家賃も駐車料金も下がり続けている。
秋森は鍵を開けて、宇宙人たちを家に請じいれた。宇宙人たちは礼儀正しく靴を揃えている。秋森は先に冷え切った居間に入り、明かりをつけてストーブに火を入れた。ソファに積み上がっている洗濯物と、背もたれに張り付いている洗濯していないものを集めて隅の方へ固めた。次に秋森は万年床とパソコン、テレビ、物干し、本の山を置いてある和室のふすまを閉めた。一軒家が自由に使えると言っても、秋森には、和室の他は台所とトイレくらいしか用事がなかった。
「入って」
秋森が声をかけると、宇宙人たちが居間に入ってきた。宮沢佳奈が目を丸くし、高梨新菜が口を開け、尾崎みすずの眼光が鋭くなった。相原 薫は微笑んでいる。
宇宙人たちが見たものは、秋森が歩いた跡がけもの道のように見える床と、部屋の隅に固まった埃の厚さだった。応接テーブルの上の爪切りや、耳かきや、ひっくり返った居間のテレビのリモコンや、秋森にも存在理由がわからないロウソクだったかもしれない。失敗したかなと秋森は考えたが、疲れていたし、どのみち短時間では改善の余地もなかった。
「秋森隆一郎、ひとつ聞きたいことがあります」
「なんですか」
秋森はつい尾崎みすずに敬語を使っていた。
「掃除をしてもかまいませんか。今日とは言いません。明日、時間があるときにです」
「はい、物を捨てなければいいです。あのふすまの向こう側は放っておいてください」
風紀委員に持物をチェックされた気分になった秋森だった。秋森の通っていた学校に風紀委員などはなかったが、尾崎みすずの声色には秩序の乱れに対する闘志が感じられた。秋森は宇宙人たちに風呂とトイレの場所を教えて、二階に案内した。
「下で適当に寝てもいいけど、こっちなら四人が布団で寝られると思う。押し入れに客用の布団が入っているから使って」
秋森は数年ぶりに二階のストーブに火を入れながら言った。
「うん、後は自分たちでやるから、セインは早く休んで」
宮沢佳奈が言った。
「そうするよ。和室にいるから、用があったら呼んで」
秋森は用心深く階段を下りて和室に引っ込み、万年床にもぐりこんだ。宮沢佳奈が気にした通り、秋森は再びめまいと吐き気に襲われていた。母が死んでから五年、父が死んでから七年になる。父が死んだときに、母が相当に物を処分したので、秋森が好き勝手に荒らしても、家には人を泊める空間があった。家を相続したときは、友人を呼んで泊めようと思ったりしたものだが、母の葬儀の後でこの家に上がったのは、結局、宇宙人たちが第一号になった。人生、何があるかわからないと言うが、秋森としては、想定の斜め上はそろそろ打ち止めにしてほしかった。
しかし、その後の顛末から考えると、平凡に暮らしたいという秋森の願いは、秋森自身が反故にしたのだった。