第三話
説明回です。
長いんだけど、これでも宇宙人は手加減して話している、というつもりでした。
平成29年4月27日、ルビの間違いを一か所訂正。
平成29年6月2日 記述ミスを一か所訂正。
秋森は高梨新菜の言うことを信じなかった。高梨新菜の肌が銀色で、人間離れして目玉が大きかったり、タコ足を生やしていれば、うっかり真に受けたかもしれない。金髪美女が突然目の前に現れて実は宇宙人だと告白するなど、B級SF映画の中だけの話だ。秋森にわかるのは、自分の恐怖と混乱が本物であることだけだった。
「俺をどうするつもりなんだ」
どうにか秋森はそう言って、恐ろしい想像を次々と頭に走らせた。内臓を抜かれた裏返しの死体になって牧場に捨てられるのか、頭に怪しい機械を埋め込まれて毒電波と妄想に苦しめられるのか。周りの宇宙人にばれないように細心の注意を払い、秋森は鼻で深呼吸をした。
「どうもしないよ、秋森隆一郎。ただ、思い出してほしいと思ってる。私らは、そのためにこの星に来たんだ」
高梨新菜が言った。秋森はつい安心しかけて、あわてて警戒心を呼び戻した。自称宇宙人とはいえ、一見すると普通の人間に見えるのがよくなかった。
「思い出してもらうために、人を気絶させて監禁するのか」
「気絶させてないし、監禁してもいない。どうしてそういう風に取るかな」
高梨新菜が呆れる気配がした。
「トラクタービームの出力が強かったので、気絶したように感じたかもしれませんが、収容してからすぐに話をしています。意識を失ったとしてもわずかな間だったでしょう」
尾崎みすずが言った。背後が夜景なので、メイド服の白いフリルとエプロンが浮き上がっているように見える。
「監禁じゃないなら、帰らせてくれ」
秋森は金髪とメイド服とホストの気配をうかがった。床とドアさえあればすたすたと出ていきたかった。ストレッチャーから降りると下の交差点に落下する気がしてならない。高梨新菜が真顔で口を開いた。
「秋森隆一郎の本当の居場所は、この星じゃない。それを思い出してほしい。君も、私らと同じなんだ」
「意味がわからない。お互い、人間だと言いたいのか?」
「秋森隆一郎はこの星の生物じゃない。私らと同じ宇宙人なんだ」
「俺は、記憶喪失の宇宙人か。できたら、そういうのはやめないか? どうしてもと言うなら、少しくらいは話は聞くよ。そのかわり、後で出口を教えてほしい」
秋森は、こんな状況だというのに疲れを覚えた。言葉が通じたかと思えば、やはり会話が成り立たない。携帯を取り出して警察を呼びたかったが、たぶん、圏外になっている気がした。宇宙人だろうがカルト宗教のサークルだろうが、秋森を拉致監禁するだけの力があることは確かなのだが、そこはあまり考えたくなかった。
「ああ、もう、セインてこんなにうじうじしてたっけ」
高梨新菜が暗黒の夜空に向かってうなった。尾崎みすずが、いつも通りの冷めた調子で言った。
「みなさんの話を聞くかぎりでは、彼は優柔不断かつ大胆不敵な、複雑な性格だったと思います。それはともかく、秋森隆一郎が混乱するのは、ある程度、仕方がないでしょう。今の彼は、この星の原生生物と同程度の認識しかできません。そうすると、この状況は、本人の意思を無視して強引にファーストコンタクトを取っていることになります」
秋森は微妙に傷ついた。
「少し落ち着こう、新菜。秋森隆一郎は全天投影装置も知らないんだ。怖がらせても仕方がないよ」
相原 薫が言った。秋森は恐怖を見抜かれて傷ついた。静電気が弾けたような音がして、札幌の夜景が闇に変わり、そして元の白い部屋に戻った。秋森は、とにかく床が見られて安心した。相原 薫が秋森に微笑んだ。
「いきなりいろんなことを言われて困っていると思うけど、僕たちは君の味方だ。宇宙の全てが君の敵だとしても、僕は君の力になりたいと思っている。だから、話を聞くだけでも聞いてほしい」
「宇宙の全てって、まあ、いいよ。とりあえず、聞くだけは聞くよ」
なんとなく気おされて、秋森は相原 薫に頷いてしまった。刑事ものでよくある、脅し役と宥め役のコンビのやり方にだまされたような気分もある。どのみち、この宇宙人たちが納得するまでは家に帰れそうになかった。
「新菜、秋森隆一郎が話を聞くって」
相原 薫が促したが、高梨新菜は壁を見ていた。
「いいですよ、どうせ私は怖い女ですよ。説明ならみっしーがいいと思いますよ」
あんたもけっこう面倒くさいよ、と秋森は思ったが、何やら自己嫌悪も入っているらしい高梨新菜に追い打ちをかけるのも気が引けて口には出さなかった。決して、高梨新菜が延々と床をつま先で叩いているのが怖かったからではない。
「では、私から話します。雑事全般を処理する契約とはいえ、セインのことを本人に説明するなんて想定外でした。とはいえ、これはこれで面白いですね」
尾崎みすずが秋森の前に歩み寄ってきた。黒髪のフランス人形が息をしているようで、秋森は少し緊張した。
「長い話になります。信じられなければ黙っていてもらえれば充分ですが、わからないところは質問してもらえると助かります」
「わかった。余計な突っ込みは入れない」
秋森が言うのを聞くと、尾崎みすずは軽くおじぎをして、話し始めた。
「あなたは、この星の生物ではなく、私たちと同じ世界の人間でした。その世界では、この星よりもずっと科学技術が進んでいて、この星から見るとSFとしか思えないような技術を実現しています。さきほどの全天投影装置は、この星の価値観で例えれば、時計並みのありふれた道具です。光速を超えて移動する宇宙船や、体の形態を変化させたり、精神を操作するシステムが、ごく当たり前に運用されています」
「怖い話だ」
秋森は適当に相槌を打った。これまでの流れから察して、宇宙人の科学技術が軽く地球を超越しているのは自然なことだった。尾崎みすずは秋森の相槌を完璧に無視した。
「この姿も、尾崎みすずという名前も、私の本来のものではありません。擬態装置、ミミクリイシステムを使用して、この姿を取っています。この星の技術で私を調べても、本物の日本人と区別はつきません。この地域、日本の公的記録も改竄していますので、尾崎みすずは、記録上にも完全に存在しています」
高梨新菜が言っていたことを秋森は思い出した。戸籍や個人番号がある。見た通り、人間としての実体もある。それはもう宇宙人ではなく普通の人間ではないかと秋森は思った。しかし、尾崎みすずの整った顔立ちに間近から無視されるのは、思っていたよりも辛かった。秋森は学習していた。
「役所とかをハッキングしたということか」
今度の秋森の言葉には、尾崎みすずは反応した。
「ええ、はっきり言ってザルでしたね。記録の改竄を行ったのは望ですが、私が手を貸す必要もありませんでした」
「ノゾミというと、さっきのセーラー服の子か。ドジっぽい感じもしたが、頭はよさそうな気もしたな」
「ある意味では、あなたや私よりも有能です。ただ、操船補助AIにあっさりだまされる文明もどうかと思います」
「ロボットなのか?」
「人に似せた体はありません。あなたが見た望は網膜に投影した映像です。声は、自然に聞こえるように加工したものです。私たちは体内に受信装置を入れているので、この船の外でも望と会えますが、あなたと望が外で話すときは通信機器を使う必要があります」
凝った設定だと秋森は思いたかったが、素直に人工知能説を信じてしまった方が楽な気がしてきた。河合 望が人工知能でないとしたら、彼女が気配もなく現れたり、変に硬い喋り方をしていた理由を、秋森が自分で用意しなければならない。全ては発狂した秋森の見た幻覚だったとか、実は瀕死で妄想を見ているとかならば簡単に思いつくが、採用はしたくない。結局、秋森は尾崎みすずに話を合わせた。
「宇宙人の人工知能に比べたら、パソコンなんて玩具みたいなもんか。役所のセキュリティなら、テレビでもたまに問題にされているけど、宇宙人の超技術に対抗しろというのは言いすぎだと思う」
「いえ、そういうことではなく、システム使用者側の問題です。この星の原生生物に擬態している異種知性体の可能性を考慮していない。例えば、百年くらいかけてこっそり異種知性体がこの星にまぎれこんだら、かなりの地域の統治者の地位に、合法的に就けます。それこそ、擬態と外宇宙航行くらいしか取り柄のない知性体が、その気もないのにうっかり侵略完了できるくらい無防備です」
尾崎みすずの口ぶりからして、宇宙というのは、地球人が思っているほど治安がよくないようだった。
「無防備なのはそうだろうが、せめて、原生生物じゃなくて地球人と言ってくれないか」
秋森が言うと、尾崎みすずは目を見開き、そして頭を下げた。
「すみません、私の不注意でした。秋森隆一郎を、いえ、地球人を侮辱するつもりはありません。許してください」
尾崎みすずの声に悔悟がにじんでいた。秋森はうろたえた。
「いや、いいよ、そこまで気にしてない。今の地球に、宇宙人に注意しろというのも、無茶な話だと思っただけだよ。地球の技術じゃ、宇宙人と地球人の区別がつかないんだろうし、それにこれまで地球に宇宙人が来たこともない。巨大隕石の衝突みたいなもんだ。まだ起きていなくて、防ぎようもないものなんか気にしていたら、地球人は寝られもしない」
秋森の気のせいかもしれないが、頭を上げた尾崎みすずの表情が、少し柔らかくなったようだった。
「他の星の知性体に出会ったことがないから警戒心がない。ありがとうございます、その辺の感覚のずれを、私たちはつい忘れがちです。あなたが、自分や私たちを、宇宙人だと認めないのも、本物の宇宙人を見たことがないからですか?」
尾崎みすずの顔は、秋森の顔から六十センチの近さにある。瞳がやや浮いているのが、やぶにらみの印象を与えるものの、それがかえって目元にかすかな色気を添えている。宇宙人だろうがなんだろうが美少女と言うしかない。秋森は、ここで茶々を入れるのは大人げない気がして、正直な疑問を口にした。
「もっと違った見た目だったら、宇宙人だと思ったかもしれない。人間に見た目を似せていると言っていたが、どうしてそんなことをしてるんだ?」
「安全のためです」
尾崎みすずの答えは、秋森にとって意外なものだった。
「地球人を驚かせたり、攻撃されたりしないようにとか、そういうことか?」
秋森の頭に浮かんだのは、ちょっとしたすれ違いのために宇宙人と戦争になってしまうというSFだった。
「擬態を行う理由は、地球に無用の混乱を起こさないため、ということもありますが、それ以上に、私たち自身の安全のためです。宇宙服のようなものだと思っていてください。私たちが、この星で本来の姿を取ることは、私たち自身にとって危険なのです」
地球人が他の星に出かけることを考えると、宇宙服の例えは秋森にも理解できた。生まれ故郷と気温や大気構成が同じ星など、ほとんどありはしないだろう。
「そこで生きている生物になってしまえば、生命維持装置を担いで歩く必要もないわけだ。究極の宇宙服といえば、そうなるか」
「現地の環境から身を守ることにもなりますが、それはどちらかといえば副次的な効果です。危険というのは別にあります。私たちは、生まれた星から長距離を航行するときは、定期的な同期処置、同期を行う必要があります。擬態をアプライしない場合、同期の失敗や遅延が死に直結します。本来の体に合った環境、生体として生存できる環境を全て整えていたとしても、同期に失敗した場合は生存できません。擬態を行っていても死を回避できるわけではありませんが、この場合は即死はしませんし、苦痛は相当な程度やわらげられます。とりあえず、私たちにとっては、擬態と同期が必須だと覚えていてください」
擬態を行うことを適用すると言い、同期をシンクと言うらしい。普段の秋森なら鼻で笑うところだが、尾崎みすずは、中二病には縁がなさそうだった。同期処理という単語からは、情報生命体が連想されるが、具体的な説明をしてもらったところで、宇宙人の超技術や超概念は秋森には理解できないだろう。それにしても、擬態という究極の宇宙服を着ていても、宇宙に出るには危険がつきものだ、ということになる。
「擬態か、そんなことまでして、おまけに危険を冒して宇宙に出かけるというのが、俺にはよくわからない。どうして宇宙に出なければならないんだ? この星、地球にも、ロボットを使って月や小惑星の資源を採掘させたり、それを地球で売って儲けたり、そういうことを計画しているやつはいると思う。月を掘ったって、小惑星を掘ったって、取れたものは地球で使うんだ。もし、地球人が宇宙船や擬態を使えたとしても、宇宙に行く人間はいないと思う。学者とか軍人は行くかもしれないけど、それはロボットに月を掘らせるのと同じことだ。ただの宇宙は価値がない。逆にいえば、地球人は地球の中で満足している。なんというか、宇宙人は、擬態とか同期とかしてまで、宇宙の何がほしいんだ?」
「いきなり、ですね。ちょっと、待ってください。それは、私たちの文明や価値観に対する問いかけです。私は、いろいろなものを学んだつもりです。だから、生きるためにどうしたらいいかはわかります。この船を操縦できるし、壊れてもある程度は直せます。何のために船に飛ばしているかなんて、急に聞かれても、考えたことがありません」
尾崎みすずの髪が揺れた。秋森の視線に耐えられずに身じろぎしたようだった。表情には出ていないし、秋森も自分の勘違いかと思ったが、尾崎みすずは動揺していた。
「みっしー、私に振られても困るぞ。セインは言ってることが、たまに、というかちょくちょく意味不明だったよ。ガンバ!」
高梨新菜が楽しそうに言った。さきほどの自己嫌悪からは立ち直ったらしい。相原 薫が、尾崎みすずの隣に寄って声をかけた。
「文明や価値観を、よその文明の人間にわかるように説明するなんて、できなくて当たり前だよ。秋森隆一郎は僕たちとは初対面だけど、セインなら自分と違う価値観は認める。難しく考えないで、みっしーの常識を言えばいいと思う」
「それなら、薫さんが代わりに答えてくれると助かるのですが」
尾崎みすずは目が泳がせた。
「みっしーが困ってる顔は可愛いからね」
相原 薫が、知性派ホストらしく囁いた。尾崎みすずが挑むように秋森に顔を向け直した。表情はあまり変わらないのだが、なんとなく秋森には、尾崎みすずの気持ちがわかるような気がした。全部秋森が悪い。たぶん、そんなところだ。
「なぜ宇宙に出るか、ですか。宇宙船があるからです。あなただって、自分の足で歩ける範囲だけで生活しませんよね。車とか、電車とかそういうものを使うでしょう。同じです。いまさら宇宙に出ない生活なんて考えられません。どうですか」
「うん、わかった」
秋森は首を縦に二回振った。話題を変えたかった。
「尾崎みすずというのは本名じゃないんだよな」
「何か文句がありますか」
尾崎みすずは淡々と秋森に突っかかってくる。相原 薫の気持ちが少しわかった秋森だったが、そう言ったら尾崎みすずは怒るだろう。
「本当はどんな名前なのかと思った」
「さっき言いました。短縮した上に相当な意訳ですが、三十五の海嘯、三十五の海嘯です」
秋森には中二病に聞こえたが、そう言ったら尾崎みすずは怒るだろう。誰でも、自分の名前を馬鹿にされるのは嫌なものだ。
「やっぱり、さっきのはわかってなかったか。私は七十九の段丘、七十九の段丘」
高梨新菜が言った。
「すると、相原 薫さんが二十二の隕鉄、二十二の隕鉄で、宮沢佳奈さんはこぼれおちる小惑星帯、こぼれおちる 小惑星帯か」
秋森が後を続けると、相原 薫は頷いた。
「そっちからしたら、秋森隆一郎とかの方がおかしい名前なんだろうな」
秋森は、宇宙人たちと話すのが苦痛ではなくなっていた。カルト宗教のサークルよりは言葉が通じていると思う。
「いえ、三十五の海嘯の方がおかしいと思いますよ。三十五の海嘯とか意味不明で、中二病もいいところです」
尾崎みすずが、そこはかとなく苦々しげに言った。秋森が思っていた以上に、宇宙人たちは地球のセンスを理解していた。かえって秋森は困惑した。
「いや、そっちにはそれが普通じゃないのか」
「擬態を適用する前なら普通です。擬態は精神や知識も擬態するので、今の私は日本人とかなり近い常識を持っています。さっきは擬態を宇宙服に例えましたが、実際は、ほとんど装着したという感覚もないんです」
「精神も擬態するって、それは大丈夫なのか」
秋森は、自分がタコ型宇宙人になったら鏡を見る自信がなかった。精神までタコ型宇宙人になったら、正気でいられる自信もない。
「あなたは自分が発狂していると思いますか?」
「いや、それはない」
尾崎みすずに即答してから、秋森は、自分も宇宙人扱いされていることを思い出した。
「精神が元のままで、体だけを擬態なんてさせたら、たいていの生物は発狂します。だから、擬態装置は精神も擬態するんです。私たちにとっても、他の宇宙人はみんな自分と同じ姿をしているように見えるくらいです」
「複雑すぎてよくわからなくなってきた」
秋森は弱音を吐いた。
「とりあえず、宇宙人はホモ・サピエンスと同じ姿をしていると考えてもらってもかまいません。精神と体の関係なんて、機械に任せてこだわらない方が便利です。私たちにしても、擬態の状態が人生の大半です。本来の姿になる機会は、そうそうありません。本当の自分とか、難しいことを考えすぎると早く禿げます、秋森隆一郎」
尾崎みすずはだんだんと調子を取り戻したようだった。秋森としても、タコ型宇宙人よりは美少女宇宙人の方が気分はいい。宇宙人はきっと人間と似た姿をしていると、どこかで読んだ覚えもあった。宇宙人自身が、自分たちは地球人と似ていると言っているのだから、これ以上の証拠はない。秋森は、もう、宇宙人は地球人とそっくりだと思うことにした。宇宙人も、機械が壊れたら叩いて直すのであろう。
「実は俺が宇宙人だとしても、違和感なく地球で暮らせるというのはわかった。地球人が擬態とかを使ったとしても、特に自分が変わった気もしないんだろう。そうだとしても、俺には宇宙人の記憶はない」
「どうしてですか?」
尾崎みすずがきょとんとして言った。秋森が二十歳若かったら、そのしぐさだけで思いつめてラブレターを書きかねない。
「聞かれても困る」
秋森は中学生ではないので、平静なつもりで返した。
「冗談です。おそらく擬態装置の追加設定機能、アディションによるものです。適用中の記憶を操作することは、擬態装置の補助機能のひとつです。そんなことをした理由は、擬態を適用する前のあなた、セインにしかわかりません」
「俺は平凡な日本人として生きてきたつもりなんだよ。俺の記憶は擬態装置とやらでいじれるとしても、それだけじゃ説明はできない。コンビニの監視カメラなんかには俺が映っているだろうし、子供の頃の写真もある。俺が宇宙人だとしたら、家族や友人の記憶や、残っている記録はどういうことになるんだ?」
秋森は尋ねながら胸騒ぎを感じた。仮定の話をしているつもりだったが、これまでの尾崎みすずの回答は一応、筋が通っている。
「現時点で断言はできませんが、可能性は二つあります。ひとつは、秋森隆一郎の記憶が擬態装置によって頻繁に上書きされていることです。もうひとつは、私たちが望の手を借りて地球の記録を改竄したように、あなたが別の装置を併用している可能性です。あなたの周囲の人間の記憶や記録を、つじつまが合うように改竄してしまえば、今の地球の技術では看破できません」
「改竄できるのは記録だけじゃないのか?」
「地球人の記憶を改竄することは技術的に可能です。あなたと直接かかわりのある人間の数は、私たちの技術からすると充分に操作できる範囲です。今の私たちはそういったデバイスを持っていませんが、あなたが地球に持ち込んだ可能性はあります」
仮定の話だと、秋森は内心で自分に言い聞かせた。記憶が頻繁に上書きされている方なら、秋森隆一郎には救いがない。これまでの人生は、機械が生み出した妄想になる。周りの人間を含めて記憶と記録が改竄されている方が、まだ悪くない。秋森隆一郎の人生は、少なくとも秋森一人の妄想ではなくなる。
「記憶の上書きと、周りの記録の改竄と、可能性としてはどっちが高い?」
「あえて言えば、記憶の上書きは間違いないと思います。あなたには、同期を行った記憶がないはずです。少なくとも、同期を行ったという記憶は上書きされています。後はどこまで頻繁に記憶を上書きしているかの問題ですが、あまり頻繁に行うと環境との乖離が大きくなって生存上不利です。精神病にも罹患していないことを考えると、憶測ですが頻度は高くないでしょう。記憶の上書きを最小限に見積もると、最初に擬態を適用したときに地球人としての記憶を作成し、後は数年に一度、同期の記憶を上書きしている程度です。公的記録を収拾できましたから、周りの記録、記憶の改竄と併用している可能性が高いですね」
尾崎みすずは澄ました後輩属性の声でよどみなく言い切った。秋森は怒りを覚えたが、言うだけ無駄だと思い、気持ちを抑えた。自分の人生が誇れるものだとは、秋森も思ってはいない。だからと言って、妄想と片づけられたくはない。楽しかったことよりも、痛みや後悔を無視される方が許せないくらいだ。それを宇宙人の尾崎みすずが理解できるとは、秋森は思わなかった。
「可能性と言ったが、その話だと記憶の上書きも記録の改竄も確実じゃないか」
「私たちが知らない、扱えない概念のデバイスを使用した可能性が残ります。セインが使えるデバイスは、私たちよりもはるかに種類が多いんです」
秋森としては、違う可能性を示してほしかった。
「それなら、どうして俺が宇宙人だとわかる。記憶や記録の改竄が簡単にできるなら、地球人はみんな宇宙人であってもおかしくない」
「擬態装置は適用の際に、個人が特定できるように必ず体内に暗号を埋め込みます。擬態装置は私たちにとってもブラックボックスなので、詳細な説明はできませんが、地球人であれば遺伝子を利用するのが手っ取り早いと思います」
「俺の遺伝子を解読したら宇宙人になるのか」
「遺伝子、外見、年齢、公的記録の全てを解析すると、あなたはセインです」
尾崎みすずは愛想笑いの一つも浮かべない。秋森が自分の人生を妄想で片付けたくないように、尾崎みすずも、秋森隆一郎がセインであることは譲れないのだろう。
「わかったよ。正直に言うと、俺は自分が宇宙人だとは今も思っていないし、思いたくない。ただ、そっちが俺を宇宙人だと思いたいなら、とりあえずそれでかまわない。それでよければ、話は聞くよ」
「ありがとう」
そう言ったのは相原 薫だった。口こそはさまないが、高梨新菜も話は聞いているようだった。相原 薫は優しげに微笑んでいる。皮肉や言い繕いではなく、まがうことなき感謝の言葉に聞こえた。胡散臭いといえば胡散臭いが、秋森は相原 薫の誠意を疑うことができなかった。場の雰囲気は、話を続ける方向に流れてしまった。
「私たちが、どうやってここにいるかは、おおむねわかってもらえたと思います。ここからは、あなたと私たちが、なぜここにいるか、の話になります」
尾崎みすずが、確かめるように秋森に目を向けた。秋森は無言で頷いた。
「複数の星系を統一して支配する専制国家、宇宙帝国とでも言いますか、私たちはその帝国に生まれました。この帝国が、全ての原因といえるのですが、あなたが帝国を理解するのは難しいと思います。正しくは、私に、帝国を的確に説明する能力がありません。過去にこの星に存在した身分制度や大帝国を想像してもらえれば充分だと思います。ただ、宇宙帝国の支配は、この星の帝国よりも実効的でした。技術の使用権を身分によって制限することによって、皇帝に全権力を集中させ、身分制度を実際的に機能させていたのです」
秋森は、SFというより歴史物語を聞いているような感じがした。実際、星間戦争の名を冠した某SF映画は舞台や道具こそSF的だが、内容は騎士物語だとネットで読んだ覚えがある。古代ローマ帝国のように、共和制から帝政へと変化した実例もある。
「技術というのは、自然に拡散するものだと思っていたんだが、その帝国じゃ違うのか」
「例えて言えば、暗号と暗号解読の関係ですね。どんな暗号も時間さえかければ必ず解読できますが、必要な時間だけ読み取りを阻むことができれば実用上は問題ありません。帝国は、帝国を成り立たせているのが技術だと理解していましたから、不便は承知であらゆるデバイスに身分と連動した認証システムを組み込み、常に新しい認証システムを開発、導入していました。もちろん、認証をかいくぐろうとする行為は重罪です。技術開発の場では、取り扱いが容易な技術はあえて捨てられ、個人が用意できる環境では開発困難な技術が優先されていたそうです。帝国の言い分では、秩序と安全を守るための最低限の処置です。技術の進歩よりも、社会の維持を優先していたんです。日本という国でも、個人が銃器を扱ったり、研究開発することは規制されていますから、考えとしては似たようなものだと思います」
3Dプリンターで拳銃のパーツが作れてしまうという話は、秋森も耳にしたことがある。現代日本に普及したインフラや設備を個人レベルでフル活用できたなら、技術全体の進歩は速くなるのかもしれない。ただし、誰でも爆弾や毒ガスが作れるとなれば、間違いなく治安は悪化するだろう。
「皇帝とか身分制度はピンとこないけど、住んでみれば帝国も案外悪くなかったのかな」
「貴族か、せめて平民に生まれ、常識に安住して怠惰に生きていれば、そう感じたかもしれませんね」
「辛辣だね。身分制度なんて、俺の感覚でも旧時代的だけど、帝国じゃそれが常識だったんだろう。不満があるからといって、世の中をひっくり返したりしたら、それが結局は、平穏無事に生きている大勢にとって迷惑になったりするものじゃないか?」
「そう考える人はたくさんいました。でも、あなたは違った」
尾崎みすずの声に熱がこもったように、秋森は感じた。
「あなたは、帝国のダイサンオウジでした」
秋森は意味を考えた。第三王子だ。皇帝の息子なら、第三皇子かもしれない。
「そうすると、俺は身分を捨てたのかな。もったいない気もするね」
秋森は急に馬鹿馬鹿しくなった。十四歳の秋森だったら、実は宇宙帝国の皇子だと言われれば、なんだかんだ言いつつも、喜んで信じただろう。三十を越えてから聞かされても、安っぽい子供だましにしか聞こえない。尾崎みすずのメイド服も、相原 薫のホスト衣装も、高梨新菜のガーターベルトも、痛いコスプレに見えてくる。宇宙人たちは地球に来るのが遅すぎた。そんな軽口でも飛ばしてやろうとしたが、できなかった。尾崎みすずには、秋森の気分にかまうつもりがなかった。
「あなたの欲しかったものは、帝国では手に入らなかった。諦めることは、死ぬよりも辛かった。あなたはそういう人だったのでしょうね」
尾崎みすずは真顔で言った。
「あなたの身分は、皇帝になること以外は全てを望めるものでした。夢があれば、それが何であれ、帝国がかなえてくれたでしょう。そんな身分に生まれたにも関わらず、あなたは帝国の支配、あるいは皇帝その人の正しさに常に疑念を抱いていました。兄弟からは疎まれ、皇帝からは忘れられていたのが、あなたの少年時代だったと聞いています」
尾崎みすずが話す第三皇子は、秋森が想像していたものとはだいぶ違っていた。14歳の秋森なら不幸をばねにした反逆児に憧れたかもしれないが、第三皇子の生い立ちは、今の秋森には痛々しいものに聞こえる。
「あるとき、あなたは身分を隠して辺境の星系を放浪しました。それこそ、身分を捨てるつもりだったのかもしれません。そこで、あなたは帝国の支配の裏側を見ました。弱者からの搾取、奴隷化、秘密警察と拷問、悲惨な死といった言葉で想像してもらえれば、イメージとして遠くないと思います。ただ、科学技術が進んでいる分、帝国の支配は、この星で行われてきたどんな悪政よりも苛烈であったことは確かです。人体を道具として使い捨てるために変質させたり、支配者の都合がいいように外科的に洗脳することは、この星では技術的に不可能ですが、帝国には可能でしたし、実際に行っていました。身体だけを擬態させて狂死させるという刑も、帝国時代に実施されていたものです」
尾崎みすずの口調は冷静というよりも平板だった。秋森には、メイド服の裏側に血が染みついているように見えた。彼女は、地獄を見たと言っている。尾崎みすずは感情を殺し、一切の感想を拒否していた。
彼女は、秋森と会ったときに、最初に言っていた。あなたが世界を壊してくれなければ、私は死んでいた。
「あなたは放浪から皇帝のもとに戻り、卑小体保護庁の長官というお飾りの地位につきながら、帝国を倒す反乱の準備を進めました。第三皇子の身分を利用して、帝国の軍事技術を反乱組織に流すこと、反乱組織同士の連携体制を確立することが、特に重要な内容でした。帝国への反乱自体は過去に何度も起こっていたものの、圧倒的な軍事力の差と、短絡的な反乱行動のせいで、常に帝国に鎮圧されてきたのです。あなたの行動によって、反乱側は装備を充実させ、戦略に沿って合理的に活動できるようになりました。帝国の目を盗んで武器を用意し、人を集め、連絡を取り合い、帝国の内部を探ったのです。戦争そのものよりも、その準備の方に多く時間をかけたことは間違いありません。ただ、どれだけ準備を重ね、戦略を練ろうとも、反乱側の戦力は帝国に劣ります。帝国との戦争は過酷な戦いになりました。詳細はここでは話しきれないので省きますが、結果として、莫大な犠牲を払いながらも反乱側は勝利し、帝国は崩壊しました。帝国に代わる統治組織として、反乱軍の主要勢力を中核として銀河連盟が結成されましたが、あなたはそれを知らないと思います」
秋森は全てを理解できたわけではなかった。尾崎みすずが本気であることはわかった。宇宙人たちが秋森を探していたわけも、納得できるかもしれない。宮沢佳奈は言っていた。帝国はなくなった。最近は審査なしで結婚ができる。セインは宮沢佳奈とはたまにしか会わず、会っても何をしているのか教えなかった。セインは帝国を倒すために頑張っていた。帝国を倒したヒーローだった。
「帝国との最後の決戦のとき、あなたの乗艦は撃沈され、あなたは行方不明になりました。反乱軍の誰もが必死に探しましたが、ついに見つかりませんでした。それでも、諦めきれずに、どこかであなたが生きていると信じて、飛び立ってきたのが、私たちです。正確には、私だけは雇われ船員ですが、他の三人は百パーセント個人的な理由です」
尾崎みすずが、話すべきことを話し終えた。
秋森の中で、全てがつながった。高梨新菜は言っていた。ずっとセインを探していた。相原 薫は言っていた。また会えただけでいい。
「まさか、この星で本当に見つかるとは思ってなかったんだけどね」
高梨新菜が片目をつぶって言った。喜んでいることは秋森にもわかるが、本当の彼女の思いは、おしはかることも難しかった。秋森は息をひとつ吐いた。
「そのセインを探すのはわかる。だとしても、俺はセインのつもりはない。記憶も体も違っているんだから、別人格、別の人間と言ってもいいと思う」
「記憶がなくても、君はセインだよ」
相原 薫が言った。
「いや、俺が本当はセインであったとしても、今の俺はセインじゃない。そちらとしては、記憶を取り戻してセインに戻ってほしいんだろうけど、その場合、今の俺は消えるんじゃないか?」
「消えるわけではないよ。今の君の記憶や人格が、セインに加わるだけだと思う。別な言い方をすると、君に元々のセインの記憶や人格が加わるだけだ。新しい経験をして考え方が変わっても、元の自分が消えるわけじゃない。それは、地球人でも宇宙人でも同じで、毎日当たり前にしていることだ。君がセインの記憶を取り戻すのは、経験や考え方の変化が多いだけで、一日を過ごして一日分の経験を積むことと、本質的には変わりがない。記憶を取り戻すことを、怖がる理由はないと思う」
「さすが、薫、いいこと言う」
高梨新菜が胸をそらして腰に手を当てた。秋森としては、突きだされた胸回りに注目せざるをえなかった。
「新菜さん、意味がわかって言ってますか」
尾崎みすずが高梨新菜を横目で見上げた。
「正直、あんまり興味ない。ほら、薫の言うことって、だいたい間違いがないからさ」
「そういうことは、思っていても口にしない方がいいと思います。実際以上に馬鹿に見えます」
「頭とか機械とかを使って生きてるのはみっしーと薫でしょ。私と佳奈は感性で生きてるから、いいんだ。芸術家タイプってやつだ」
「確かに私は芸術にはあまり興味ありませんが、新菜さんだって私といい勝負でしょう。人を電磁波まみれのギーグ女にするのはやめてください」
「いや、みっしーはともかく、薫はあんまり機械機械してないし、そもそもギーグ女とか言ってない。もしかしてギーグって、みっしーの業界じゃ誉め言葉だったりする?」
高梨新菜が尾崎みすずの顔を覗き込んだ。尾崎みすずがうっとうしそうに肩を引いた。
「なんですか」
「こうして地球人として見ると、あらためてみっしーは可愛いなあと思った。髪、さらっさらだな」
「触らないでください。今、擬態を、背を高くして腹筋が割れるように追加設定した方がよかったと思いました。いえ、わざわざ擬態の再適用なんてやりませんよ面倒くさい。何か言いたそうですね、秋森隆一郎」
尾崎みすずの目線が秋森の方へ戻ってきた。秋森はやや遅れて高梨新菜の胸から目を離した。秋森の意見としては、宇宙人なのが残念だった。地球人だったら話に加わりたいくらいだったが、秋森が宇宙人と話したいのは尾崎みすずの髪質ではなかった。
「記憶が戻っても、俺の人格が消えるわけじゃないのは、そうだとする。その場合でも、俺は俺として生きるか、セインとして生きるかを選ばなければいけない。はっきり言うと、俺はセインとして生きるつもりはない。それでも、俺はセインの記憶を取り戻さないといけないのか?」
「それは、記憶が戻ってから決めればいいと思う」
相原 薫が言った。秋森は彼に顔を向けた。
「記憶を取り戻したくないと俺が言ったら、どうなる?」
「そこは納得してほしい。秋森隆一郎にとっても、セインのことは他人事じゃない。もし、セインが僕たちに、放っておいてほしいと言ったなら、僕たちは自分の銀河に帰る。少なくとも、僕は安心して帰れる。今みたいに、まったくセインの記憶がないままだと、僕の方が放っておけない。お願いだ。記憶は取り戻してほしい」
相原 薫は眉を寄せていた。涙目のようにも見える。秋森の心臓が変な動きをした。女顔でも男だぞ、と秋森は心臓に無言で呟いた。
「そう言われても、こっちも困る。セインというのはずいぶん濃い人生を送ってきたようだし、いきなりそんな記憶が戻ったら、一生分の経験がいきなり降ってくるようなもんだ。俺は地球人として生きられなくなると思う」
「何もしなくても、君はいつか、きっとセインの記憶を取り戻すよ。擬態装置で、永久に記憶を封印するようなことは、君はしない。だから、記憶が戻る時期が早くなっただけとは考えられないかな」
「いつかは記憶が戻るなら、そのときまでそっとしておきたいんだよ」
相原 薫は悲しそうなまなざしを秋森に向けた。
「僕には、わからない。君のことだから、きっと地球人でいなければいけない理由があるんだろうね。でも、帝国との戦争の後で、君が見たものも、考えたことも、僕たちは知らないんだ」
ちょっと言い方が卑怯ではないかと秋森は感じたが、行方不明の親友に会うために、おそらく数百光年は越えて地球にやってきた宇宙人に、気持ちを抑えて喋れというのも傲慢な言い分だった。秋森は言葉に詰まった。いまさら、地球人をやめて宇宙人になるのが怖いだけだとは言いづらい。
「秋森隆一郎の考えは理解できます。薫さんは思考がときどき勇敢すぎます」
尾崎みすずが、三秒ほどの沈黙を破った。
「地球人になってくださいと言われたら、薫さんだって困るでしょう」
「困らないよ。セインのいる星だ」
相原 薫に即答されて、尾崎みすずの唇が一瞬だけへの字を描いた。
「言い方を間違いました。セインが、今はただの地球人でいたいと言っているわけですから、それをあえて無視することはないでしょう」
意外にも、尾崎みすずは秋森の言いたいことを代弁してくれていた。それにしても、さきほどの彼女は、秋森隆一郎の人生は機械が作り出した妄想だと言っていた。秋森の気持ちが理解できたというより、相原 薫の考えについていけなかっただけだろう。
「そうだね、ごめん、セイン。僕の方が押しつけがましかった」
相原 薫が秋森に頭を下げた。あまりに自然な動作で、セイン呼ばわりに秋森が抗議する隙もなかった。
「とりあえず、ミミクリイチェックだけは受けてほしいんだ」
高梨新菜が秋森に言った。
「検査か何かのことか? 俺のことはもう全部検査してあると思ってたよ」
遺伝子や公的記録は解析したと、秋森は聞いている。
「個人を特定するためだけの検査は、確かにもう済ませました。擬態の身元を特定するのは、スマホでネットを検索する程度の手間ですから、簡単にできます。でも、セインが記憶喪失になっている理由は、それだけではわかりません」
尾崎みすずが言った。
「そのミミクリイチェックをすると、記憶喪失の理由がわかる?」
ミミクリイチェックという単語には、秋森にも聞き覚えがあった。宮沢佳奈が、医務室に取りに行ったのがミミクリイチェックだった。すぐに戻ると宮沢佳奈は言っていたが、彼女が出ていってから、ずいぶん時間がたっている。
「ミミクリイチェックは、擬態の状態の検査や、それに使用するメディカルツールのことです。最初に調べるのは、あなたが使用した擬態装置の種別です。今の時点ではセインが使用した擬態装置についてまったく情報がないので、何度かミミクリイチェックを行って内容を絞っていく必要があります。記憶の上書きについても調べていくうちにわかるかもしれませんが、私たちの第一の目標は、セインが使用した擬態装置と宇宙船を見つけることです。擬態装置や宇宙船には、セインが地球にやってくるまでの記録が残っているはずです。セインの記憶喪失の手掛かりくらいにはなるでしょう。ただ、この船に搭載してある擬態検査キットでどこまで調べられるかは、やってみないとわかりません」
宇宙人たちは、秋森の記憶を無理やり取り戻させる気はないようだった。悪い話ではなかった。調べるだけ調べて、秋森が地球人であれば、宇宙人たちには申し訳ないが、秋森は安心して地球の畳の上で死ねる。秋森が宇宙人だったとしても、記憶を取り戻すのを先延ばしにする分には、この宇宙人たちは、ある程度は待ってくれそうだった。ぼったくりキャバクラであれば、集金待ったなしだろう。
秋森が口を開こうとしたとき、圧縮空気の音が聞こえ、宮沢佳奈が駆け込んできた。医務室が遠かったのか、道に迷ったのかはわからないが、彼女は長いこと走っていたらしい。赤い頬も乱れた髪も気にせずに、満面の笑みを浮かべて、右手にぶら下げていた救急箱のようなものを差しだした。
「お待たせ、はい、これミミクリイチェック」
「ありがと、佳奈」
高梨新菜が宮沢佳奈の前に回って救急箱のようなものの蓋を開ける間に、尾崎みすずが秋森に耳打ちした。
「ちょっとうっかり昔のことを忘れたつもりでいてください。難しければ、笑って頷いていてください」
尾崎みすずの吐息が耳にかかって驚いた秋森だったが、あくまで彼女は真剣だった。
「あの子が思いつめると大変なことになります」
言って、尾崎みすずは秋森から離れた。
「じゃあ、秋森隆一郎、じっとして」
高梨新菜が右手に注射器を持って言った。不届きにも何かのプレイを錯覚しかけた秋森だったが、目はすぐに注射器に釘づけになった。
注射器の中には茶褐色の糸くずが漂っていた。漂っているだけではなかった。茶褐色の糸くずは、注射器の中で、間欠的に、飛び跳ねるように運動していた。自発的に動いていた。生きている。
「ちょっと待て」
秋森が言うが早いか、尾崎みすずが秋森の両肩を抑え、ストレッチャーに押し倒した。見かけに似合わない力で、肩を抑えられているだけだと言うのに、秋森は腕を上げることができなかった。やみくもにもがこうとして、足も動かないことに秋森は戦慄した。相原 薫が両足をストレッチャーに押さえつけていた。こちらも、秋森の両脚は微動だにしなかった。
「おい、待て、ふざけるな! なんのつもりだ!」
必死に体をよじりながら秋森は怒鳴った。秋森の頭側から、注射器を右手にかざした高梨新菜が、覆いかぶさるように覗き込んできた。
「うん、ミミクリイチェックだよ。協力してくれて、ありがとう」
ミミクリイチェックだけなら悪い話ではないなどと考えていた自分を、秋森は半狂乱になりながら呪った。
「ふざけるな、ふざけるな! やめろ、その注射はやめろ!」
「セイン、大丈夫? 調子悪いの?」
宮沢佳奈が、何か言いたげに高梨新菜に視線を向けた。秋森には、宮沢佳奈が天使に見えた。
「ただのミミクリイチェックだから、心配しないでいいよ、佳奈」
高梨新菜が秋森の首筋を濡れた脱脂綿で拭きながら言った。女悪魔は巨乳が相場らしかった。
「でも、セインが嫌がってる。ミミクリイチェックは後でもいいんじゃない?」
「時間がもったいないからね。秋森隆一郎、私らも手ぶらで帰るつもりはないんだ。一度やれば安心できるよ。痛くもしないから、ちょっとだけ我慢して」
秋森は渾身の力を込めてストレッチャーの上で身悶え、絶叫していた。何の効果もなかった。高梨新菜が、よりによって秋森の首筋に注射器を寄せた。秋森は自分の予感で発狂寸前だった。あの茶褐色の生物を注射されたら、全てが終わる。人間として終わる。
秋森の首筋に小さく痛みが走った。うまい注射のようで、痛みはすぐに消えたが、何の慰めにもならなかった。針が抜かれるときの痛みがあり、その直後、秋森は全身が砕けるような衝撃を感じた。
「ウソ、なんでこんなことになる?」
高梨新菜の声が聞こえた。何かを話し合っているらしい。秋森には会話を聞きとる余裕がなかった。背中がストレッチャーに当たると、一瞬だけ呼吸ができる。おぼろげに、ストレッチャーの上で魚のように痙攣しているのだろうと推測はできた。視界が白濁しているのか、白い天井が目に見えているのか、はっきりと区別がつかない。秋森は、ただ息がしたかった。
「はわわ~、ごめんなさい、それ、タグが間違ってました」
「受け取り前にタグが間違ってたんだから、望のせいじゃないよ」
「栄養剤ですか。それにしても、秋森隆一郎のこの様子はおかしいですね。まるで毒でも打たれたようです」
断片的に、そんな会話が聞こえた。それから視界が赤黒くなり、サイレンが鳴り響いた。秋森には、もう悪夢を見ているとしか思えなかった。
「なに、なんなのこれ!」
「はわわ~、大気圏外からの能動探索波を探知しました! あの、どうしたらいいでしょう」
「この船、自動警戒装置まで生きてたんですか」
「まずい、こんなところで問答無用に能動探索波を使うやつなんて、帝国軍の残党しか考えられない。佳奈もブリッジに上がって!」
秋森が足音を聞いてからしばらくたって、サイレンが鳴りやんだ。秋森は深海魚の赤黒い口の中にいた。針の穴を通すように呼吸ができる。深海魚は諦めが悪い性格らしく、右に左に秋森を振り回すくせに、喉を通らないのか一向に秋森を飲み込もうとしなかった。深海魚などいないことは、うっすらと秋森にもわかっていた。秋森は絶望していた。
秋森の右手が暖かいものに包みこまれた。相原 薫の声が聞こえた。
「前のときは、君が僕の手を握っていてくれたね、セイン。目が覚めるまで、こうしているよ。帝国も連盟も関係ない。僕は、君がいる場所の傍にいる。たとえ君が、全てを忘れてしまって、二度と思い出すことがなくても、君を一人にはしない。いつか、君は必ず帰る場所を見つけるよ。僕は、せめてそれまでは君の近くにいたいんだ」
それは祈りのように聞こえた。今はここにいない、遠い誰かへの告白だった。
握られた右手を通して、秋森の胸に暖かいものが広がった。なくしたはずのセインの記憶が呼びさまされたのか、ただすがりつくように相原 薫を信頼してしまったのか、秋森にはわからなかった。
それから、真駒内で気がつくまでの間、秋森の記憶はない。今度こそ秋森は気絶していた。