第十三話
野幌原始林とは、札幌市の南東に広がる広大な森林を指す。散策路は整備されているが、秋森には、北海道開拓以前の、未開の森がほとんどそのまま残っているように思える。札幌近郊で宇宙船を隠すには、藻岩山よりも適しているかもしれなかった。帝国軍の残党には、午後九時頃に出向くとメッセージを伝えてあった。日が沈む頃に、秋森たちは自宅を出ることにした。
玄関で、秋森はほどけた靴の紐を結んだが、指先の震えを止められなかった。帝国軍の残党との交渉など、やはり秋森には荷が重かった。やめるなら最後のチャンスだという気がしたが、佳奈が、秋森の背中に声をかけてきた。
「ごめん、もう怒ってないよ、秋森。セインも、こういうときは、私の心配は聞いてくれなかったと思う。帝国に反乱を起こすときも、私に心配されるのが嫌で、何も言ってくれなかったもかもしれない。でも、私も、もう自分だけ何も知らないのは嫌だから」
「ありがとう、佳奈」
声までは震わせずに、秋森は言うことができた。これで出発取りやめはできなくなった。めまいと頭痛が酷くなる一方だったが、インフルエンザにかかっていようとも延期はできない。秋森一人で出かけるのであれば、途中で怖気づいて帰ってくることもできたかもしれない。
秋森たちは地下鉄とバスを乗り継ぎ、野幌原始林の散策路入り口まで歩いた。ネットで調べたところでは、やはり昼間は散策に来る人間もいるようで、決行を夜にしたのは正解だった。秋森の目は、闇に沈む木々を見てとっていた。夜の森に巻き添えの心配はなく、視界の問題もない。問題は、秋森の体調と精神状態だった。肝心の交渉内容に考えを巡らす余裕が、秋森にはなかった。
秋森は半分、空中に浮いているような気分で野幌原始林の入り口まで歩き、そのまま雪の踏み跡をたどって森に入った。秋森は藻岩山のときと同じ完全防寒装備で、宇宙人たちも、藻岩山のときと同様の服装と武装を身に着け、森の入り口でコートの類を雪に埋めていた。肩やお腹をさらして歩いている新菜を見て、秋森は、この寒さに対抗して体温を保つのだから、カロリー消費が地球人とは桁違いに多くて、宇宙人に正月太りは無縁なのだろうと、まるで場違いなことを考えたりしていた。恐ろしいほどの緊張が、少なくとも秋森を包んでいた。寒い寒いと言い交わせれば気も紛れたかもしれないが、宇宙人たちは気温は問題ではないらしく、雪を蹴る音も軽快に、楽々と秋森の後ろについてきていた。秋森は寒いのか暑いのかもわからず、ただ、めまいと頭痛に耐えて足を動かしていた。
「秋森、言う必要はないかもしれませんが、あえて言います」
みすずが口を開いた。
「私たちは、最後は自分の判断で動きます。ですので、あなたと自分の身を守るためなら、戦闘もありえると思っていてください」
「先制攻撃をしないでくれるなら、かまわないよ。というより、最後の判断までは俺は強制することじゃない。ただ、宇宙船のエネルギーを手に入れるには、俺は、戦うよりも交渉した方がいいと思っているよ」
「そうですね、向こうが交渉に応じる見込みは薄いですが、戦うにしても同じことが言えます」
新菜が鼻を鳴らした。
「見込みなら、帝国を倒せる見込みなんてなかったじゃない。セインがどう思っていたかは知らないけどね」
緊張のかけらもない声で、秋森は少しだけ気持ちが落ち着いた。佳奈が思い出深そうに喋り出した。
「セインは、言ったことは必ずやったよ。周りの人が忘れても、セインはずっと覚えてて、絶対にやりきっていた。宇宙船の操縦免許を取るとか、子供のときに言ってたことなのに、気がついたら、本当に取っちゃってたよ」
薫が小さく笑った。
「今じゃ、みんな跳ねあがる超空洞じゃなくて、セインと呼ぶしね。なんだか、懐かしいよ。秋森、誰も知らないセインの秘密なんか、ある?」
薫に言われても、残念ながら、秋森には思い当たるふしがなかった。平静な声で返事をする自信がなかったので、秋森は首を横に振ってみせた。会話が途切れた。
木立の向こうに、四つの人影が見えていた。こんな時間に地球人が、野幌原始林の中に突っ立っているはずがなかった。瑞穂の池の前には、開けた雪原が広がっていた。林道から出て雪原の人影に近づくまでの間、秋森はどうやって歩いたのかを覚えていない。
背広姿の男が四人立っていた。うち、三人は藻岩山で見た銀色の拳銃を持っている。三人に囲まれるように立っている一人だけが、明らかに雰囲気が違っていた。短く刈り込んだ頭髪の下に太い眉と大きな目があり、横幅のある鼻が顔の中央に鎮座している。唇も厚い。髪にはわずかに白いものが混じり、年齢は四十台後半から五十代前半に見えたが、着ている背広が、筋肉の形に型崩れを起こしていた。宇宙人には素人の秋森にも、この男が指揮者であることは感じとることができた。帝国の身分制度は装備の質と連動しているというから、この中で最強の人物になるのだろう。
「お待ちしておりました、殿下」
中年の宇宙人が、頭も下げずに言った。見た目以上に重低音の声だった。
「お初にお目にかかります。私は、疲れ果てた散開星団、疲れ果てた散開星団散開星団と申します。帝国第三百一艦隊二千五十一分遣隊の指揮官を務めております。身分は、この内乱が始まって以降のことではありますが、帝国男爵に叙せられております。殿下に相対するには卑賤な身ではありますが、以後お見知りいただきたい」
疲れ果てた散開星団という名は、本人にもこの場面にも、まるで似合っていなかった。一応、敬語を使われたが、秋森は威圧感ばかりを覚えた。疲れ果てた散開星団は、帝国の皇子を敬う意思はあっても、秋森の意思を尊重する意思はないと、早くも秋森は予感していた。
「長いあいさつはいらない。こちらの要求には応えてくれるのか」
秋森は気力を振り絞って言った。
「では、仰せのとおりに本題に入ります。第一の件、この星の原生生物の生命財産に危害を加えないというご要望ですが、これは言われずともそのつもりです。我々は帝国軍の兵士であり、動物虐待の愛好者ではありません。一部の者が、反逆者への挑発目的で原生生物の巣に火をつけたようですが、これは帝国軍の品位を汚すものと心得ています。すでに部下には、無用の挑発は慎むよう指示してあります」
無用でなければ放火は辞さないと、秋森は受け取った。少しだけは安心することができた。宇宙人にとっても、放火がよくないことは常識として通じるようだった。
「堅苦しい話し方はしなくてもいい。もう一つの件は?」
「宇宙船のエネルギー譲渡でしたな。その必要を認めません。殿下には、我々の船に移乗していただければ、ことはすむものと考えます」
「それではだめだ。こちらには宇宙船のエネルギーの必要がある」
「どういう必要があるのですか。殿下の船は我々が提供できるのです」
秋森は腹をくくった。
「俺はセインとしての記憶がない。セインのことは、後ろの彼女たちに聞いて知った」
疲れ果てた散開星団の眉が動いた。秋森は話を続けた。
「俺は彼女たちに恩がある。自分のことを教えてくれたのもそうだし、あんたの部下に殺されかけたときに、命も救われている。今、彼女たちは、宇宙船のエネルギーが不足して困っている。このままでは、自分の星に帰ることもできない状態だ。俺は、彼女たちに感謝を伝えたい。言葉ではなく、現実に役に立つものを贈りたい」
交渉である以上、手の内を見せなければ最低限の信頼も得られないだろう。ただ、秋森には、自由に使えるカードがなかった。宇宙帝国最後の帝位継承者である自分の考えに、目の前の帝国軍人が納得してくれるのを願うしかなかった。
疲れ果てた散開星団の目が動き、佳奈たちを見渡したようだった。
「わかりました。しかし、記憶がないということであれば、私としても、あなたが跳ねあがる超空洞殿下であるという保証をいただきたい」
「彼女たちが俺の遺伝子を調べた。同期に失敗している可能性はないそうだ。俺の記憶がないのは、擬態の追加設定で記憶を上書きしているせいらしい」
「外見が殿下と一致することは確認しておりますが、私としては、あらためて御身をあらためさせていただきたい」
「こっちの要求を受け入れるなら、俺も検査は受ける」
疲れ果てた散開星団が顎に手を当てた。
「そちらがそう出るのであれば、私も、あなたが殿下ではないという可能性を考慮しなくてはなりません」
「好きなだけ考慮してくれ。俺としても、自分が宇宙帝国の皇子だという自覚はあまりない」
疲れ果てた散開星団が沈黙した。秋森は倒れないように足を踏ん張っていた。これまでの人生で覚えがないほど緊張しているのに、めまいと頭痛が、しつこく秋森の頭を苛んでいた。
「よろしいでしょう」
疲れ果てた散開星団が言った。秋森は息を吐いた。
「しかし、殿下、これはあくまで話し合いのはずです。背後の者たちの武装は解除していただきたい」
「そっちの武装は解除しないのか」
「私は、あなたが殿下ではないという危惧を棚上げにしたのです。今度は、そちらの者たちが誠意を示すべきと考えます」
戦うという選択肢は、秋森にはなかった。新菜たちは不満かもしれないが、ここを戦って切りぬけたとしても、それだけでは意味がない。今は同期のためのエネルギーが最優先だということは、新菜も納得してくれるだろうと、秋森は思った。
「武器を捨ててくれ、頼む」
秋森は、首だけを背後に振りむかせて言った。佳奈が光剣の柄を、新菜が拳銃を、みすずが日本刀を、薫が黒い革手袋を、ゆっくりと雪の上に落とした。
疲れ果てた散開星団が片手を挙げ、周りにいた男たちが、銀色の拳銃を佳奈たちに向けて構えた。
「何をする!」
秋森は叫んだ。
「殿下、この者たちは、帝国に弓を引いた大逆人どもです。この場で処刑します」
疲れ果てた散開星団が無表情に言った。秋森は両手を広げて佳奈たちの前に立ちふさがった。疲れ果てた散開星団は、秋森だけは撃たないはずだった。そう考えていても足が震えた。
「やめろ! 話し合いだと言ったな、卑怯だとは思わないのか!」
秋森は、一縷の望みをかけて疲れ果てた散開星団をにらみつけた。疲れ果てた散開星団は、十五の断崖とは違うはずだった。短いやりとりの中でも、理屈は通じる相手に思えた。
「殿下、おやめください」
疲れ果てた散開星団が冷静に言った。秋森は、できるかぎりの大声を出した。
「やめるのはそっちの方だ! 彼女たちに指一本でも触れたら、俺はあんたらを絶対に信用しない。もし帝国を再興できたとしても、そのときはお前らを死刑にしてやる!」
「殿下、どうかお心を鎮めください。今の殿下は正常な状態ではありません」
「異常なのはそちらだろう。なぜ武装を解除させておいて銃を向ける。理由があるなら言ってみろ!」
「では、少しだけお話しましょう。その者たちは、我々の停船指示に従わず逃走しております。帝国法に則るならば、これだけでも十分に犯罪者と言えましょう。それには目をつむるとしても、帝国の兵士を殺傷しております。帝国軍人として、また、部下を殺された指揮官として、私はこれを見過ごすことはできません。武器を持って帝国に挑んだ者どもを許すことができるのは、この宇宙に皇帝陛下ただ一人です。よって、現状としては、その者たちを見逃すことこそが、私の卑劣となるのです」
「話し合いだと言ったのは嘘だったのか」
「いいえ、単純に、殿下の同行者については、いかなるご要望もなかったというだけのことです」
「詭弁を使うな! 俺が連れてきた時点で、俺の味方だということはわかったはずだ」
「私の部下を殺した時点で、私が下手人を見逃すはずがないということも、理解いただけたことと思います。また、民間からの徴発に頼る、海賊じみた立場に身をやつしても、我々は戦い続けてきました。その我々が、帝国の叛徒を受け入れることができないということも、本来の殿下であれば、当然、理解いただけたと思います」
「初めから、こうするつもりだったな」
秋森は呻き、自分の甘さを後悔した。
「はい、そのつもりでした」
疲れ果てた散開星団は、口調だけは丁重に言った。銀色の拳銃を持った男たちが、秋森を囲むように歩き始めた。誰か一人なら、秋森が覆いかぶさってかばうこともできるが、佳奈たち全員を、三人の男の射線から遮るのは不可能だった。秋森は背後に声をかけた。
「すまない」
「気にしないよ。どのみち手詰まりだったんだ」
新菜が言った。気のせいならばよかったが、秋森は不穏な予感を覚えた。目を閉じなくても見えた。新菜が素早く自分の拳銃を拾いあげ、三人の男と疲れ果てた散開星団を撃つ。新菜の思惑とは別に、秋森には、新菜が拳銃に手をかけた時点で、彼女が三人の男から銃撃を浴びて、雪の上にくずおれる姿を見た。妄想にしてはいやに鮮やかな光景が、秋森の脳裏に広がっていた。現実の視界と新菜の死体が二重写しになり、秋森は不快感に耐え切れずにしゃがみこんだ。うずくまっている場合ではなかった。全秋森は全世界を破壊したい気分になった。男たちの銃撃がかすめたのか、左肩に灼熱の感覚が弾けた。
秋森は新菜たちと帝国軍の残党たちを見下ろしていた。幽体離脱をしたときに見えるという光景に似ていた。帝国軍の残党が腰を引いて秋森を見ている。佳奈は雪に腰を落とし、新菜は拳銃を手にした格好で固まっている。みすずと薫も、自分の武器に手を伸ばす途中で固着している。秋森には、前後の様子が同時に見えた。夜空が星の光で真っ白に輝いていた。森の中の狐や、リスや野ネズミの息遣いが聞こえた。秋森は何が起きたか確かめようとして、死の恐怖を味わった。
全てが理解できた。理解できすぎた。秋森の左肩を食い破って一本の赤黒い触手が三メートルほど伸びている。触手は高性能なアンテナであり、演算装置だった。紫外線や赤外線はおろか、重力波やタキオンと呼ばれるものさえ受信することができ、その内容を分析して対象を特定することもできたし、波や粒子と名のつくものは、自由な出力で発信することもできた。これまでは秋森の体の中でおとなしくしていたため、せいぜい夜目が利く程度にしかならなかったが、秋森の体という制約を抜け出した今では、人間には感じ取れないものを感じ、思考できないものを思考することができた。新菜が銃を拾おうとして撃たれるという展開は、秋森の錯覚ではなく、触手が未来予測を行ったのだった。圧倒的な情報の奔流に、秋森は自分が流されかけるのを感じた。強制的に注意を秋森隆一郎の体に戻さなかったなら、秋森の意識は消え去っていた。人間が知覚できないものは、人間が知覚してはいけないのだ。今の秋森には、同期に必要なエネルギーを生み出す方法も、帝国軍の残党を説得する方法もわかっていた。もはや、帝国軍の残党とは、戦う理由すらなくなっていた。
「武器を、こちらに向けるな」
秋森は、もどかしい思いをしながら口を動かした。感情まで声に乗せることができず、ゾンビの唸り声のような喋り方になったが、それが秋森の精一杯だった。触手に比べると、人間の体や脳は脆弱で低速すぎた。
「殿下、何をおっしゃりたいのですか」
疲れ果てた散開星団が冷静に聞き返してきて、秋森はいらだちをつのらせた。触手からなだれこんでくる情報は、とうてい制御も受容もできず、情報量を絞るだけが限界だった。この上、飲みこみの悪い相手に、噛んで含めるように説得する労力をかけたくなかった。
「死にたくなかったら、言うことを聞け。武器を捨てろ。絶対に敵対するな」
トロルかオークのような声で秋森は言った。ゾンビよりは聞きとりやすいはずだった。これからどれだけ人間の口で喋らなければならないのかを考えると、秋森は気が遠くなりそうだったが、謎の波動で帝国軍の残党をまとめて瞬間洗脳することは避けたかった。それが一番手軽だったが、それは秋森の脳が耐えきれる処理ではなく、やれば秋森の意識は消し飛ぶ。
恐怖に駆られてか、男たちが秋森と触手にレーザーガンを向けた。正確には、向けようとした。秋森の触手がうねり、そのあまりの速度に大気が裂け、何かが破裂したような音が鳴った。敵意を感じ取った瞬間に、秋森の触手は、男たちの胸を次々と貫いていた。擬態核を的確に破壊する攻撃で、三人は倒れるよりも早く即死していた。秋森は、一人だけ残った疲れ果てた散開星団の反応を待った。超人的な能力を持つ宇宙人でさえ、今の秋森には亀よりも鈍重で、陸に上がったメダカよりもか弱い生き物に見えた。殺すつもりはなかったが、触手は自分に害意を持つ存在を許さない。
「馬鹿野郎が!」
秋森の喉が狼男のように吠えた。疲れ果てた散開星団が、うかつにも秋森を取り押さえようとしたのだ。秋森は防衛本能を抑えることができなかった。秋森の触手が、まだ足の指一本動かしていなかった疲れ果てた散開星団の胸を貫通し、擬態核を砕いていた。
四つ目の死体が、雪の上に倒れた。体の損傷の割に流血が少ないのは、擬態の追加設定のせいだった。秋森は、意識を集中させた。帝国軍の残党が使っていた宇宙船は、思っていた通りに野幌原始林の中にあった。宇宙船のハッキングに成功しても、どうにか秋森の意識は持ちこたえた。同時に河合 望を呼び出した。
「ぎゃあ! 秋森さんですか!? どこ触ってるんですか! はわわ~、そんなに強く引っ張らないでください、手が痛いですう!」
河合 望の悲鳴が聞こえた。ハッキングの直後だったせいか、少し手荒い呼び出し方になったらしい。秋森は、佳奈たちが乗ってきた宇宙船の名前が蒼い水の星であることを知った。河合 望の本名と言えるかもしれない。そんな具合に、一秒ごとに余計な情報が流れ込んでくるので、秋森は今にも窒息しそうな気分を味わっていた。だが、やるべきことは全てこなすことができた。
秋森は、左肩から伸びている触手を自切させた。触手は地面に落ちるよりも早く白い砂に変わり、砂は風に溶けて消滅した。秋森はふらつく足元を踏みなおした。体が重い。その重さが愛しかった。秋森は、まだ人間でいられたのだった。
秋森は佳奈たちの方へ振り向いた。
「帝国軍の残党の宇宙船と、蒼い水の星をここに呼び出してある。エネルギーの受け渡しに問題はないと思う。それと、今のところ、地球にいる帝国軍の残党はさっきの四人で最後だったよ。これで、全部、終わった」
流通センターの三人の被害者に、秋森が直接できることは何もない。これは、敵を討ったことにはなるのだろうか。
佳奈が立ち上がり、ふらふらと秋森の方へ歩いてきた。表情が変にまじめくさっている。勢いよく秋森に抱きついてきた。秋森は倒れる寸前で踏みとどまった。佳奈が秋森の胸元に顔を埋めている。秋森は困惑していた。
「どうしたんだ?」
佳奈が鼻声で唸った。可愛らしい声だが意味不明だ。佳奈の手が、上着が破けて素肌をさらしている秋森の左肩に触れた。
「秋森!」
浮かれた声とともに、新菜が秋森の左腕にしがみついた。今度は秋森は耐えきれず、佳奈と新菜にくっつかれたまま、仰向けにひっくり返った。新菜が楽しそうに悲鳴を上げた。秋森の上に乗った佳奈が、上気した頬を秋森の顔に寄せてきた。
「ねえ、セイン、擬態、解除してもいい?」
「いや、それはまずいと思う」
秋森が言うと、左腕に柔らかいものが押しつけられた。新菜が秋森の腕を抱えこんでいる。
「硬いなあ。擬態解除くらい、いいじゃない。それとも、セインはこっちの体の方が好き?」
新菜が酔っぱらったように笑っている。
秋森は嫌な汗を背中に感じた。佳奈と新菜の状態が普通ではない。まるでマタタビを食った猫だ。さっき左肩から触手が生えていたとき、それが宇宙人たちにどう見えるかを、秋森は考えていなかった。どんな粒子を垂れ流していたのかも、全てを把握してはいなかった。つまり、その気もないのに、宇宙人女性向けのフェロモンを発していた可能性があった。それも、宇宙法で所持が禁じられるくらい強力なやつかもしれない。
秋森の足に痛みが走った。みすずが、顔を真っ赤にして秋森の足を踏みつけていた。
「破廉恥です。変態です。いきなりあんなものを見せつけるとか、何を考えてるんですか? そういう趣味があったなんて知りませんでした。軽蔑します。最低です。謝ってください。絶対に許しません」
みすずは呪いの文句のように途切れなくぶつぶつと呟きながら、秋森の足を踏みつけてくる。秋森は体をねじってみすずの足を避けながら、助けを求めて薫に目を向けた。
「まずい、なんとかしてくれ、薫!」
「うん、かっこよかったよ、セイン」
薫は顎に手を当てていた。目が潤み、口元が緩んでいる。言葉があまり通じない。秋森に接触してこないだけましだが、他の三人と同じ状態に見えた。
「いや、何でお前までそうなるんだよ」
「何かおかしい?」
「男だろ!」
「酷い。ちゃんと擬態の設定はしたよ? 僕、二十三歳、地球人女性」
秋森は唖然として薫の顔を見つめた。謝るべきなのかもしれなかったが、もはや、何を言っていいのかわからなかった。
空から轟々と風の唸る音が聞こえてきた。光学迷彩をまとっているので姿は見えないが、蒼い水の星号と、帝国軍の残党の宇宙船が近づいてきたのだった。秋森は、宇宙船のことは何も心配しなかった。触手が生えていたときに、帝国軍の残党の宇宙船は、全ての制御を河合 望に渡すように処理してあった。秋森は、河合 望に佳奈たちの説得を頼むことを思いつき、ダウンジャケットのポケットに右手を入れ、携帯をまさぐった。
空には、冬の星座が散らばっていた。
クライマックス(のつもり)でした。
第十四話はエピローグです。
平成29年6月2日 記述ミスを一か所訂正。