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獅子譚  作者: 毛野智人
8/20

(八)

「王と英雄の凱旋だ!」

 祝勝の歌声が町のあちこちから聞こえる。

 宮殿の中では主を迎え入れるため、家来達が忙しなく動き回っていた。

 愈々(いよいよ)だ。この目で初めて英雄を捉えるその瞬間を前に、メガラの胸は躍った。

 宮殿前の広場には既に民衆が群れを成していた。皆アルケイデスを一目見ようと目を輝かせている。彼らを分かつように、王と戦いを終えた諸将が入場してくる。

「クレオン王、ご帰還にございます」

 王女としてメガラも宮殿の入口に控えていた。

 目に真っ先に飛び込んできたのは、父の隣を歩く若者。しかもその姿は、昨晩会ったあの男と同じとは思えない。アポロンの如き黄金の輝きを身に纏った勇壮な獅子。

 ――なんて美しいの。

 メガラはただその姿に見蕩(みと)れた。

「テーバイよ。我々は遂にミニュアス人に勝利した! これでこの地は我らのもの。この地の恵みも我らのものである。今こそ戦に怯える日々から解き放たれ、これからは我らの国のために命を肥やすことを考えようではないか」

 広場には賛同の声が(こだま)する。それは輪唱のように連なり、やがて一つの声になる。暗雲垂れ込めるテーバイにやっと晴れ間が見えてきたことを誰もが歓迎していた。そして暗雲を切り裂いてくれた英雄の誕生も。

「我々を勝利へ導いた英雄のことを忘れてはならぬ。ここなる若き戦士。ミュケナイの始祖ペルセウスの曽孫に当たるアルケイデス」

 クレオンがアルケイデスを示すと、一同の視線が光輝く若者に注がれる。

「彼はテーバイで生まれ、育った。そして彼の父をかつてテーバイは助けたことがあった。その故に我らのために力を貸してくれたのだ。さて、私は彼に恩を返さねばならないと考えるが、皆はどう思うか?」

 クレオンの問いかけに、民の声は揃って是と答えた。

「では私はアルケイデスにテーバイにおける居所を約束しよう。また、今回ミニュアス人に渡さずに済んだ牝牛百頭も彼のものとする。そして我が娘メガラを妻として贈ろう」

 場が(どよ)めく。あまりに唐突な宣言であった。今ここに集った人間の中で最もその衝撃を受けたのは、メガラに違いなかったろう。茫然とする当事者を気にも留めず、群衆は祝福を送り始める。

 メガラは急に決まった結婚相手に視線を向けた。思いがけず彼と視線がぶつかった。予期せずして目が合ってしまい、メガラは身を固くする。アルケイデスもこちらを見ていた。宮殿の柱の影に隠れるように立っていたのに、どうしてあの大勢の中でメガラの居場所に気付けたのだろう。不思議に思いながらも、目を逸らせない。アルケイデスの眼にはメガラに視線を外すことを禁じるような強さがあったからだ。しかし、不意にそれが(かげ)ったかと思われた。その次の瞬間には彼は別の方を向いており、メガラの身体の緊張も解けていた。


 その夜、メガラはアルケイデスの寝所へ通された。父に将来の夫の武勲を労えと言われた故に渋々従ったまでのことだったが、何故だか胸は妙に高鳴っていた。

「失礼致します」

 メガラが入室したとき、アルケイデスは窓辺に佇んでいた。いつもの獅子を冠した甲冑姿ではなく、夜着に身を包んだ姿はどこかあどけない。

「ああ、貴方か」

 相変わらず淡泊な反応だ。

「父が勝手を申しまして…ご迷惑だったでしょう。突然に好きでもない女と夫婦(めおと)になれなどと」

 メガラが苦笑交じりに言っても、アルケイデスは無言のままだ。メガラを一瞥したきり目も合わせない。これから妻になろうという者にその仕打ちは如何(いかが)なものか。その態度に苛立ち始めたところで、やっと声が聞こえた。

「俺は、人を好くとか好かないとかいう気が解らない」

 あまりに率直な告白にメガラは目を丸くする。

「今まで誰かを好きになったことはありませんの?」

「好きというのは何だ。俺は父も母も弟も好きだ。憎い人はいない。だが恐らく貴方の言っているのは、そういうことではないのだろう?」

 メガラは困惑した。人を恋う心そのものを問われても、答える術が自分にはない。人が誰かを恋い慕うのは当たり前のことらしい、という程度の認識しかない。メガラにとって恋というのはどこか他人事で、自分のこととして真剣に考えたこともなかった。王家の娘は例え誰かに恋をしたとて、叶うとは限らない。(いくさ)の後に戦利品として敵将に奪われることだって珍しくない。だから、少女が恋に目覚める歳頃になったときには既に、望まない婚姻に対する覚悟は少なからず持ち合わせていた。それと同時に、恋に対する期待は失ってしまった。

「私も、よく解りませんけれど。もし、私を妻とすることを受け容れて下さるなら、貴方のご家族と同じくらいこのメガラを好きになって頂ければ、それで十分ですわ」

 メガラとアルケイデスとは恋心の下に結婚するわけではない。恋を知らないアルケイデスにメガラに恋せよと言うのは無理な話だ。ならば、初めから家族の情愛を育むことを目指して関係を築けば良い。

「貴方と夫婦になるということは、俺は父親になるということか…?」

「勿論、その可能性は高いでしょう」

 自然の摂理に従うなら、夫婦の間に子が出来ても何らおかしくはない。

「――俺は、父親になる自信がない」

「それは、どうしてです?」

「俺の父は…ずっと父と慕っていた人は実の父ではなかったのだ。偽の父に育てられた俺が、父親の何たるかを知っている筈がない」

 アルケイデスの父といえば、アムピトリュオンのことだろう。昨晩の宴で姿を見たときには、確かにアルケイデスとは似ていないと思った。弟のイピクレスの方が確かにアムピトリュオンの面影を残している。

「父は俺を恐れていた。自分とは似ても似つかぬ子を御しきれず、いつか人々にとって害悪になってしまうことを恐れて俺を遠ざけた」

「けれど、アムピトリュオン殿は貴方の父君として此度(こたび)の戦に参じて下さいました。貴方がテーバイの手助けをするということに同意して参加なさった。それは、父として息子の決断を尊重した故ではありませんか」

「父は元々テーバイに恩義を感じていた。それが偶々(たまたま)俺と利害が一致しただけかもしれぬ。もしくは、俺が言い出したことを退けるのが怖かったのかもしれぬ」

 昼間の覇気はどこへ行ったのだろう。今、メガラの目の前にいる男は、本当にテーバイを勝利へ導いたあのアルケイデスと同じ人物だろうか。勇ましく気高い獅子の気配はどこにもない。悩める一人の男がいるだけだ。相手がただの男なら、こちらもただの女でいても良いだろう。メガラは自分の心に(もた)げたことを率直に口にしてみることにした。

「偽の父、と仰いましたけれど…血の繋がりだけをもって父親の価値を決めるのは違うような気がします」

「貴方もアムピュトリオンはゼウスの子を我が子と変わらず育てようとしたから十分だと言うのか」

 アルケイデスの目は恨めしさを訴えている。ゼウスの子、という言葉に一瞬耳を疑ったが、それは彼の悩みの本筋ではないだろう。

「俺が実の父と慕っていた一方で、あの人は俺を自分の子ではないと知っていて、それでも仮初めの親子を演じていた。俺は騙されていたということではないか」

 自分の拠り所を奪われてしまった、と嘆いているのか。自分が誰だか解らない不安に押しつぶされそうでいる。自分の親が誰だとか、その身に流れる血の濃さは、確かに己を決める一因ではあるのだろう。しかし、それだけで決められるものか。

「果たしてそうでしょうか。血の繋がった親子であっても、憎み合うこともあります。親子とは思えない非情な関係しか築けない人達だっています」

 メガラの知る肉親は、血の繋がりの故に不幸になった者ばかりだ。

「私の父が何故この国の王となったかご存じでしょうか?」

「王位を継ぐ権利をお持ちだったからだろう」

「勿論、そうです。しかし当初は決して王位に近くはなかった。王となるべき方々が次々にお亡くなりになったから、父が王になるしかなかったのです」

 テーバイが呪われ、(けが)れていると言われる理由は(まさ)にそこにある。

「カドモスからラブダコスへと続き、その子ライオスへ受け継がれる我が王家の恥をお聞きになれば、血に縛られることが如何に愚かなことかお解りになる筈。オイディプスという名をお聞きになったことは?」

 アルケイデスは(かぶり)を振った。

「オイディプスは我が父が王となるより前にこの国の王であった男の名です。テーバイはこの名の呪いにかけられています。他国に出たことのある貴方なら、この国が穢れていると聞いたこともあるでしょう。(すす)いでも決して落とすことのできぬ穢れが、あの方が生まれたときからこの国に生じたのです」

 血の繋がりが招く悲劇の連鎖を口に出すのは、それを断ち切りたいと願うからだろうか。

「かつてテーバイ王であったライオスは、己の子に殺されるであろうとの予言を受けておりました。その予言を恐れ、ライオスは妻イオカステとの間に生まれた男児をキタイロン山に捨てるようお命じになった。しかしその子は牛飼いの手により命を拾われ、オイディプスと名付けられてコリントス王の許で立派な若者に成長しました。己が育ての親と血が繋がっていないということを知らずに育ったオイディプスは、両親に似ていない自分が何者かを探るため、デルフォイへ神託を求めに行きました」

 出自に悩むアルケイデスにとっては他人事には聞こえないだろう。あまりに自分と似通った境遇を、どう受け止めるだろうか。

「神が彼に告げたのは、己の父を殺し母と交わるであろうから故郷に帰るな、ということでしたが、コリントスを故郷と信じて育ったオイディプスはその託宣を恐れてコリントスに帰らず、別の道を選びました。当てなどなくただ故郷から逃れるためだけの道中、彼の行く手を塞ぐ者がありました。戦車に乗った壮年の男とその従者と思しき男数人。オイディプスは彼らに道を譲るようにと迫られましたが、理不尽な要求だと考え従いませんでした。すると彼らはオイディプスを無礼者と見下し、彼の馬を殺したのです。再びの理不尽に怒ったオイディプスは彼らを殺してしまいました。戦車に乗っていたその人こそ、我が子をキタイロン山に捨てさせたオイディプスの実の父、ライオス王だったのです」

 アルケイデスの顔が青ざめている。予言の絶対的な正しさの前には何人も抗えない。それが如何に酷たらしい結果を導くことであっても。

「王を亡くした国には、災厄が巡ってくるもの。テーバイは怪物スフィンクスの謎に苦しめられました。ライオス王が殺されてから、いつの間にかピキオン山に居座ったスフィンクスが旅人に謎をかけ、解けなければ食い殺す、という残忍な働きを繰り返していたのです。多くの者が謎を解こうとしましたがそれは叶わず、不正解の数だけ命は失われていきました。そのとき王代理として政務に当たっていた宰相の我が父クレオンは、膨らむ被害の数を案じ一つの触れを出しました。スフィンクスの謎を解き、これを退治した者にテーバイの国と王妃を妻として与えようというものでした」

 嫌な予感がしているのだろう。アルケイデスの顔から滲み出る悲愴感といったら。いつもの頑丈さはすっかり何処かへ消えてしまった。つつけば崩れてしまいそうだ。

「デルフォイからテーバイへ至ったオイディプスはスフィンクスの悪事を聞くと、見事にその謎を解いてテーバイを救いました。テーバイ中が彼を英雄として歓迎しました。そして約束通り王となり、ライオスの死後未亡人となっていた王妃イオカステを(めと)ったのです」

「しかし、それでは――」

 狼狽するアルケイデスの危惧をメガラは肯定してやる。

「そうです。神の言葉は正しい。結局、オイディプスは父を殺し母と交わることになった。自分自身そうと気付かずに。しかし気付かぬとはいえ、獣にも劣る行いをしたことに変わりはありません。救国の英雄として誕生した王によってこのテーバイは穢れてしまった。一代では終わらぬ、深い呪いを残してしまった」

 その後、予言者テイレシアスに自分自身の真実を聞き己の罪に気付いたオイディプスは、真実を直視することを恐れて自らの目を潰して(めしい)となり、テーバイから追放された。盲目の父を憐れんでその手を取って共に歩んだのは二人の娘だけ。息子二人は父親がその地位からも、この土地からも放り出されるのを黙って見ていた。それどころか父親が退いた後の王位を巡って争いを始め、兄は政敵となった弟を国から追い出した。追い出された弟は他国の助けを得て兄から王位を奪おうとテーバイへ攻め込み、結局兄弟は相撃ちにより両者討ち死にする始末。結果、次に王位を継げる者は、オイディプスの母であり同時に妃であったイオカステの弟であるクレオンだった。

「カドモスの直系が絶えたが故に、我が父に順番が回ってきてしまったのです」

 クレオンはオイディプスの父ライオスの頃から宰相として王家に仕えていた身であり、自分自身が王になるなど考えたこともないような男だ。王の器ではないと気付いていながら王位に就いた彼は、己の尺度を持たず民の意思と国の法を重んじた。

 死んだオイディプスの二人の息子のうち、弟はこの国に背き無理矢理に王になろうとした。そのことを(とが)める民の声は大きかった。それに従い、クレオンは彼を埋葬することを禁じる法を定めた。クレオンにとっては甥にも当たる者に対して下すには、あまりに非情な決定だった。その頃、オイディプスの娘アンティゴネは異国の地で父親の死を見届けて故郷へ戻った。兄二人が敵同士となって戦い果てたということは聞き及んでいたが、クレオンの仕打ちは到底承服出来なかった。兄が城門の外に野晒しのまま捨て置かれているのに堪えかねて、周囲の反対を振り切ってその手で埋葬を遂げた。しかし、家族の情愛から禁令に背いただけの姪さえも見逃せないのがクレオンという男だ。法に背いた者には等しく罰を。自分の身に余る王という権威に潰されまいとして、叔父は姪に死刑を命じた。アンティゴネの死は更なる身内の死を招く。クレオンの息子でありメガラの兄のハイモンは、アンティゴネの許婚(いいなずけ)でもあった。ハイモンは最後までアンティゴネを見逃すよう父を説得していたが、終ぞ聞き入れられることはなく、愛する許嫁の死と己の父の非情に絶望して、アンティゴネの遺体の側で自ら命を絶った。クレオンの妻も夫の仕打ちにより我が子までもが死に、哀惜のあまり自害した。とうとうクレオンの家族はメガラだけになってしまった。

「皆、亡くなりました。私の肉親たち。父と子、兄と弟、叔父と姪…血の繋がりなど何の価値があるのかと疑いたくなるような死に様を晒して」

 アルケイデスの顔面は蒼白であったが、メガラから目を逸らしてはいない。

「私の父は宰相上がりの王、クレオンです。とても優れた父親とは言えません。しかしそれが何だと言うのでしょう。クレオンの娘であるというだけで私という人間の全てが決まってしまうというのなら、私はとっくに生きることを辞めています」

 王女という立場以前に、メガラは一人の女だ。意思も感情もある。

「私は自分の出自によって己の生を決めたくなどありません。これは良い機会だと思っています。もう『クレオンの娘』でいなくて済むかもしれない。『アルケイデスの妻』として、テーバイ王家の血から解放され得るかもしれない。…勘違いなさらないで。私が求めるのは貴方自身です。貴方の親が誰かなど関係ない。テーバイを救った英雄アルケイデス。それだけの実力を備えた男である貴方と生きたいのです。だから貴方も、『メガラの夫』として、生きては下さいませんか?」

 出自など関係ない。

 勝利と共に帰ってきたアルケイデスを見たとき、ただ美しいと思った。黄金に輝く獅子の如き若者の姿を、純粋に賛美した。それだけで、メガラにとっては十分だ。

「それは、どうやったらできるのだ?」

「いつも通りの堂々としたお方でいらして下されば。それと、私のことも少し気に懸けて下されば」

 一人の男と一人の女が縁を結ぶだけだ。何も難しいことは必要ない。

「――よろしく頼む」

「こちらこそ」

 メガラとアルケイデスは互いに夫婦となることに同意した。

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