(七)
メガラは空を眺めるのが好きだった。
流れる雲の形に同じものは決してなく、空の蒼は一色に留まらず薄紅から墨色まで移ろう。日々刻々と姿を変えるその様は、王の娘という身の上にとっては細やかな慰めとなった。
父であるクレオンが王位に就くことになったが故に王女などという肩書きを負うことになったが、それは初めは別の者のものだった。彼女はメガラにとって従姉妹であり、義姉であった。いつも寂しそうな目をしていた。
女の身で、それも王の娘であれば、いずれ誰か力ある男の妻になる。誰に嫁ぐかでその後の運命も決まる。血と富と名声を備えた男達は権力争いを始め、誰に従うべきかは定まらない。女は世の移り変わりの中で、逆らうことを許されず、只管に流されるしかない。自分の思う通りには生きていられない。そうしたいなら、死を覚悟しなければならない。先王の娘である従姉妹の死は、まだ幼かったメガラにそう教えてくれた。
そしてメガラはいつからか、この命は己の力ではどうにも出来ないのだと諦めた。王宮から見える空はそんな心に寄り添ってくれているようだった。
不意に何やら騒がしい声がして、メガラは空から王宮の中へ視線を転じた。
衛兵達が廊下を行ったり来たりしている。
「何かあったの?」
侍女に尋ねたものの、不安げな顔を向けるばかりで答えを知る由もない。どうせまた女は男の騒ぎから爪弾きにされるのだろう。知らされるのはいつも結果だけ。
「またお父様が無理をしなきゃ良いけれど…」
それから数日経って、メガラは父クレオンから呼び出された。
「我らはミニュアス人どもと戦をすることとなった」
戦を? このテーバイに戦をして勝てるだけの力があるのだろうか。既にミニュアス人達の治めるオルコメノスには勝てずに重い貢物を課されている。それより前にはテーバイの王権を巡ってアルゴスも巻き込んでの内乱があった。その結果、王家は多くの親族を失った。どう考えてもこの国は疲弊しきっている。国だけではない。王である父自身も、戦に臨めるような精神状態ではないだろう。
「テーバイからの兵力は僅かしか出せぬ。残りは、ミュケナイから出してもらう」
「ミュケナイ?」
「ミュケナイ王家の若者が我らを勝たせると言ってきた」
戦勝を約束しただと? その言葉が確実であるわけがない。人間の分際で、軽々しく勝利を信じてどうなるか。それも異国の人間が何故?
「私とて戦などしたくはなかった。しかしもうミニュアス人は我らに向かって進軍しておるのだ。何もせねばテーバイは滅びる。救いの手があれば縋るしかない」
いくら非難の目を向けても、結論は変わらない。メガラは父に従うしかない。
「それで、お父様は私にどうせよと仰るの?」
戦に負けた後に人質としてオルコメノスに送ろうというのか、はたまた辱めを受ける前に神殿に巫女として預けてしまおうというのか。
「今宵、ミュケナイの客人をもてなす。その中に此度の戦の指揮を執る若者がいる。まずはその者の歓待役を引き受けて欲しい。本当に信頼出来る男なのかどうか、自信がないのだ。賢いお前の目で見極めて欲しい」
先王が斃れて起きた内乱の後、父はよくメガラを頼るようになった。恐らく自分の息子と妻が相次いで死んだせいだろう。それも自身の判断が原因となって自殺させたのだ。他に頼れる人もいない。今やクレオンに残された肉親はメガラと妹の二人だけだ。孤独で臆病な王の頼みを聞いてやれるのは自分だけだとメガラは自覚していた。
「解りました」
メガラは静かに肯き、その役を引き受けた。
父は客人の中でも一番年嵩でありミュケナイ王の甥であるアムピトリュオンの隣で宴の主人としての役目を果たした。アムピトリュオンの息子は二人おり、一人はアムピトリュオンの面影がある素直そうな若者だったが、もう一人を見てメガラは思わずぎょっとした。
兜は鬣靡く獅子の頭。甲冑は鞣した獅子の革。上衣は大きな獅子の背の毛皮。
一言で形容するならば、異形。全身に獅子を纏った者などかつて見たことがなかった。そもそも獅子の皮など手に入るものではない。一体如何なる御仁なのか。更にメガラが驚いたのは、その者が終始平然としていたことだ。そのような珍奇な恰好をしてくるなど、よっぽど他人と己とが違うのだということをひけらかしたいのかと思った。しかしその面持ちからはそんな見苦しい考えはちっとも窺えず、その堂々たる居住まいには将に獅子を纏うに相応しい人物であると納得させるだけの力がある。
この男が父に勝利を確約したというのか。
緊張を隠してメガラは異形の若者に微笑みかけた。
「メガラと申します。父の命により、僭越ながら今宵の酌を務めさせて頂きます」
「クレオン王の娘か。忝い」
「失礼ですが、御名を伺ってもよろしゅうございますか?」
「アルケイデス」
返答は実に淡泊で、メガラのことをあまり気にしていないように見えた。王女に対する最低限の礼儀は弁えようとしているのだろうが、それ以外のことはどうでも良いといった雰囲気だ。
この宮殿で暮らし始めてからというもの、他人から向けられる視線に色が混じらないことはなかった。あらゆる者が『クレオンの娘』としてメガラを見る。先王とその家族を悲劇の淵へと追いやり、肉親の亡骸さえ埋葬することを許さなかった冷酷な男。元々は妃の弟で宰相に過ぎなかった者が終いには己が王に成り上がった。カドモスの正統な血筋ではないくせに、他に継ぐ者が絶えたのを良いことに上手く王位に収まったものだ。その娘もまた然り。前の王女が非業の死を遂げた後に、厚かましくも王女となった。
世間の中傷も致し方ないことだとメガラは諦めている。人心を掴めないのは父が王の器ではないからだ。元々クレオンは宰相であり、王になるつもりなどなかった。それが王の突然の退位の後、王位継承者が次々と亡くなってしまったために仕方なく王になっただけ。宰相時代の能力を生かして法による施政は出来るが、民を鼓舞する術は知らない。そのクレオンの娘もまた同じ穴の狢だと思うのは人間の性だろう。
それなのにこの若者は――テーバイ王家の内紛など知らないのかもしれないが――メガラを単に一国の王の娘としてしか見ていないようだ。
「貴方様が我が父にミニュアス人に対する勝利を申し出たとか」
「ミニュアス人などに負ける筈がない」
「随分と自信がおありですのね」
「負ける道理がない。奴らは敗れていない相手に過ぎる重荷を課し、更にその土地さえ奪おうとして攻めてくる。一方こちらは先祖から代々受け継いだ土地と民を守るために戦うのだ。どちらにアテナが味方をするかは明らかではないか」
「あら。では、勝利は貴方様がもたらしてくれるのではないのですね」
「当然だ。戦の勝敗は神々が決めるもの。俺は神の意志に従って戦うに過ぎぬ」
アルケイデスの答えにメガラは目を瞠る。どう考えても勝てる見込みのないこの国に戦勝を誓うなど、力自慢の男の妄言だとばかり思っていた。見かけによらず随分と信心深い。
「しかし神々はこの国をお見捨てではないでしょうか。目を覆いたくなるような痛ましいことが続いているような国です。呪われていると嘆く民も多くおります」
「神々がどのようにお考えかは俺には解らぬ。だが、倫に悖る行いをお許しにならないのは確かだろう。今回の件はオルコメノスの不正を正すためのものなのだから、我らが勝たねばならない」
何と真っ直ぐな。己の正義を識っている。それに似た姿をメガラは知っている。
――お義姉様。
今も瞼の裏に映る、寂しい目をした気高い王女。盲目となり国を追われた父の手を取り、反逆の罪から葬礼を禁じられた兄の身体に触れて土へ還した。己が身の危険を顧みず、自身が正しいと信ずることをして、死んだ。
正が不正に優るというのなら、神々よ。もう二度と正しい行いをする者をお見捨てにならないで。
「…明日、必ず勝って帰って来て下さいましね」
メガラはアルケイデスの杯に酒を注ぎながら微笑む。
アルケイデスは特に表情も変えず、無愛想に肯いた。
「どうであった? アルケイデスは」
宴が散会となってからメガラの部屋をクレオンが訪ねた。
早速メガラに意見を求める。
「私はあの方を信じてみたくなりましたわ」
「そうか…」
クレオンは顎に手を当てて思案している。
「やはりあの若者は神々に愛されているのやもしれぬ。そうだとすれば、あの男とは違う。今度こそ、テーバイを救ってくれるか…」
恐らくクレオンはアルケイデスと先王とを重ねまいとしている。先王もテーバイに現れたときには、怪物スフィンクスからこの国を救った英雄であった。しかしその功績は隠された真実が暴かれる嚆矢に過ぎず、その真実にテーバイは呪われた。
「オイディプス王とあの方とは違いましょう」
メガラはあえてその名を口にした。途端にクレオンの表情に怯えが走ったが、気に留めず続ける。
「あの方は如何なる真実であっても恐れないで受け容れ、立ち向かうでしょう。己の為すべきことを知っている方です。そのような人が死ぬとすれば、それは神々のためでなく、人間の傲慢の故です」
正しさを受け容れられない人間の傲慢が、正しい人を殺すのだ。
「しかしその傲慢さえ、あの方ならばきっと蹴散らしておしまいになりますわ」
あの瞳の純粋さ。己の中に信じるものを確かに持ち、揺れない強さがある。それに、獅子を纏ったその姿には、彼女にはない強さがある。強靱な肉体に気高い精神が一体となっている。メガラはアルケイデスこそ真の英雄たり得る男だと確信していた。