(六)
神殿の奥は暗く、松明の灯りが揺らめく。
嗅いだことのない匂いで満ちている。
「お待ちしておりました。新たな英雄よ」
薄暗い室内で巫女がアルケイデスを迎えた。
「さあ、こちらへおいで下さいまし。我が君がお呼びです」
我が君――光り輝けるアポロンか。
アルケイデスは恐る恐る巫女の側近くへと歩み寄る。
「今から私が我が君と貴方との媒介を致します。貴方は身体の力を抜き、全てを私に委ねて下さい。良いですね?」
巫女は半ば強引にアルケイデスの手を取ると、目を閉じ、何か聞き取れない言葉を呟き始めた。アルケイデスは緊張する身体をどうにかしようと、息を深く吐き出す。吐き切ってから吸うのを繰り返すうちに自然と呼吸が深くなる。筋からも節からも無駄な力みが抜けていく。徐々に身体が弛緩すると共に昂ぶっていた感覚が治まってくる。意識と身体との結び付きまでも緩んでいく。身体の外を包むもの――巫女が口走る音や部屋中に満ちた香りとの境が曖昧になる。立派な肉体に閉じ込められていた魂が今にも何処かへ放たれそうだ。経験したことのない感覚に襲われてアルケイデスは己を手放すまいとする。
己は誰だ。アルケイデス。ペルセウスの血脈に名を連ねたるミュケナイ王家の一人。母はアルクメネ。父はアムピトリュオン。人の間で生きられぬ憐れな子。真実を知らぬ愚かな子。母はアルクメネ。父はゼウス。人間に成し得ぬことをやってのける半神。
――馬鹿な!
強烈な破裂音がしたかのようだった。内と外が混じり合い、一つになり、自分を見失うかと思われたところで、突如として自我が甦った。
「会えて嬉しいぞ。我が兄弟よ」
突然の覚醒の後にアルケイデスが放り出されたのは、目映い光に満ちたところだった。そして目の前には、更に目映い妙なる方が佇んでいる。
「貴方が…アポロンか」
「如何にも」
若々しく生気に満ち溢れ、それでいて理性の支配を受けた賢者のごとき声が返ってきた。
オリュンポスの十二の神の一人、無二の美しさを誇る太陽神。
混濁する意識の中でアルケイデスが自分を保とうと思いを巡らせていたら、何者かの声が混じってきた。成る程、どうやらあれはこの方のものであったらしい。しかしその声はおかしなことを告げていた。アルケイデスの父親が誰だと?
「先ほどの声は貴方のものですね」
「そうだよ。そなたを私の側へ呼び寄せるために、そなたの心の内に入り込んだのさ」
「何故、俺が貴方の兄弟だなどとお呼びになるのですか?」
「そりゃあ私とそなたの父親が同じ男だからに決まっている」
やはり、おかしなことを言う。アポロンの父と言えば一人しかいない。天空の主ゼウスその方を置いて他には。
「俺の父はアムピトリュオンといってミュケナイ王の甥に当たる人です。貴方様の父とはなり得ません」
「本当に何も気付いておらぬのだな。愚かなアルケイデス。そなたとその父とがどれほど似ていようか。そなたの弟とその父とは似ているのに、己とは少しも似ていないと思ったことはないのか」
「それは…」
思ったことはある。弟とは全くと言って良いほど似ていない。対して弟は父に似ている。それは誰の目にも明らかであった。しかし、二人は生まれるのに一夜の差しか挟んでいない双子なのだ。難産であったと母を労う者がありこそすれ、母の不義を疑う者はなかった。故にアルケイデスもアムピトリュオンを父と信じて疑わなかった。
「それに、そなたのその怪力は誰の血の成せる業なのだ? アムピトリュオンは力自慢の男であったか」
「いいえ」
優れた戦士ではあったが、アルケイデスほどの身体的な強さはない。誰もが恐れ、平伏す。人間の中に比する者のないくらい、アルケイデスの能力は突出していた。
「解らぬのなら教えてやろう。ゼウスこそ、そなたの本物の父なのだよ」
今度は面と向かって言われた。予言を司る神でもあるアポロンが言ったのだ。人間に真実の言葉をお与えになる神の言ったことを、どうして否定することが出来ようか。
「最も、そなたが父と慕うアムピトリュオンは全て知っていたがな。勘の良い男だ。早々にそなたの正体を疑い、予言者テイレシアスに真実を聞きおった。それでもなお、そなたを立派に育てようとした心がけは褒めて良い」
「父は…知っていたのですか」
アルケイデスは愕然とした。幼い頃に親しんだ暖かい掌は、頼りがいのある腕は、厳しくも優しい眼差しは、向ける相手が己の子ではないと知っていたのか。信じていた父の愛は偽物だったのか。
「そう悲観するなよ。アムピトリュオンとて懸命にそなたを我が子と等しく扱おうとしたのだ。ゼウスに妻を寝盗られた上にその子を育てるなど、並の男では出来ぬ。ただ、やはり神の血は人間の手には負えなかったというだけのことだ。御せぬ力に対する畏怖には勝てなかった」
リノスを殺めて後、牛飼いを任せられてからの父のあの目は、既に我が子を見るときのそれではなかったのだ。得体の知れない化け物でも見るような類いのものだったのか。
「俺は――何者なのですか」
人間でもない。神でもない。最も身近な人にさえ忌まれ、避けられる。やはり化け物か。
「半神だよ。それ以外に何と呼べる?」
アポロンは明解にアルケイデスに答えを示した。
「そなたは我らとは違う。死すべき存在だ。神ではない。しかし、人間には到底為し得ないことが出来る。その点では、人間とも言えぬであろう。人間は異なる力を持つ者を恐れもするが、尊びもする。そなたとてもう気付いている筈だ。テーバイの者達がそなたを見る目が変わったことに。人間は弱い。故に強き者に憧れ、縋る。ときにその威を笠に着ることもある。そうして身を守って生きているのさ」
オルコメノスの使者らがそうであったように。
「そなたは人間達に己の強さを見せてしまった。こうなってはもう、人間から離れて生きることは出来ぬよ。彼らはそなた自身の意思などお構いなしに英雄の姿を求め、群がるだろう。そなたはそれに応えねばならない。それこそ、半神の運命だ」
「俺に王にでもなれと仰るのですか?」
「そうだな。それが元通りの筋というものだが」
「元通り?」
首を傾げるアルケイデスにアポロンは不敵な笑みを浮かべた。
「ゼウスはそなたをミュケナイの王にするつもりだったのだよ。アルクメネが産気付いたとき、ゼウスは次に生まれるペルセウスの後胤をミュケナイの王にすると宣した。しかしそれを快く思わぬお方がいらしてな、出産の神に言ってアルクメネの出産を一時的に止めさせ、別の子をそなたより先に生まれさせた」
ミュケナイ王家において、アルケイデスと出生の日が近い者がイピクレスの他にいたろうか。王家の治めるアルゴスの地を離れテーバイで過ごしてきた故に、親類縁者の顔や名さえ覚束ない。
「その子というのが、ペルセウスの子ステネロスの長子エウリュステウスだ」
エウリュステウス。そのような名の者がいたような気はする。それよりもアルケイデスにとって耳に覚えがあるのはその父ステネロスの名だ。確か彼は今のミュケナイ王ではなかったか。となると、正統な王位継承者はエウリュステウスである。ゼウスの宣言の通りアルケイデスより先に生まれた彼が次にミュケナイ王となるのだ。
「それで、ゼウスの邪魔をする方がいなければ俺が先に生まれて、ミュケナイ王となるというのが元来だったということですか?」
だがエウリュステウスが王となるのは王位継承権を順当に受け継いでいるからだ。アルケイデスが先に生まれたとて、そもそもアルゴスから遠くテーバイにいる傍系が王位を継ぐ必然性は皆無だ。ゼウスの言葉が如何に絶対の力を持っていようとも、アルケイデスが王になるなどという考えに筋が通っているとは思えない。
アポロンはアルケイデスの反応を愉しむように話を続けた。
「勿論それもある。しかし更に遡れば、そもそもミュケナイ王になっていたのはステネロスではなくアムピトリュオンだった可能性もあるのだ」
「何ですって?」
アルケイデスは目を瞠る。
「そなたの育ての父が何故アルゴスからテーバイに逃げたのか知っているかね?」
「叔父であったミュケナイ王エレクトリュオンを死なせてしまい、その罪を問われてアルゴスを追放されたからだと」
「そうだ。それで、その罪を糾弾したのは誰だ?」
「誰って――」
王家の人間を国外追放にまで出来るのは、同じく創始者の血を受け継いだ王位に近い人物。しかも、アムピトリュオンよりも地位の高く、その判断に他の者を従わせることの出来る者。
「つまり、ステネロスが自分の王位のために父を追い出したと仰るのですか?」
「そなたは周りの人間が想像するよりずっと賢いな」
アポロンは満足げだ。
「エレクトリュオンと同じくペルセウスの血を分けているのだ。ステネロスが王位を望むのは当然だろう。しかもタポス人との戦いにおいてエレクトリュオンの息子達は命を落とし、生き残ったのは幼子と娘だけ。後継に指命されてもおかしくない状況だった。しかし王が頼ったのはそなたの養父さ。息子の弔い合戦へ赴く折にエレクトリュオンは娘のアルクメネをアムピトリュオンに預けた」
王の娘を託されるということは、次の王位を確約されたようなものだ。王位からは遠いと思われた男に突然その機が与えられた。それを目の当たりにして黙っていられない者は必ずいるだろう。
「自分よりもペルセウスから遠い血族が王位に近付くなど、ステネロスは認めたくなかったろう。苦々しく思っているところへ運良くアムピトリュオンが失態を犯してくれた」
タポス人に奪われた牝牛を奪還したアムピトリュオンがそれを王に返納するところで悲劇は起きたという。群れの中から一頭が飛び出したので、アムピトリュオンはそれを止めようとして牝牛目がけて棍棒を投げた。ところが放たれた棍棒は牝牛の角に当たり、弾き返された。そればかりか弾かれた棍棒は側にいたエレクトリュオンの頭に当たってしまったのだ。その一撃がそのまま致命傷となり、事故とはいえアムピトリュオンは王殺しの罪を着ることとなった。
兄の死に乗じて空かさずステネロスは勢力を伸ばし、アムピトリュオンに国外追放を言い渡して自身が王位に就いた。その後、アムピトリュオンはテーバイへ逃れ、クレオン王の助力を得て何とか名前だけはミュケナイ王家への復帰を果たしたが、再び祖国で暮らすことは叶わなかった。
「しかし王になれなかったことが父の犯した罪の故ならば、致し方ないのではないでしょうか。ステネロスが王となることは何もおかしくはないように思えます」
「確かにステネロスが王位を継ぐというのは道理を貫いた結果だ。誰もあえて異を唱えようとはしなかった。だが一つ言えることは、ステネロスは血を重んじたが、エレクトリュオンは人を重んじたのだ。故にアムピトリュオンを買っていたのだろうな」
血よりも人を。その言葉が持つ意味をアルケイデスはまだ理解出来ない。
「果たして王の器とは血で等しく計れるものであろうか――。そなたにはこの問いを授けよう。生涯を通して問い、答えを求め続けるがよい」
アポロンはアルケイデスに微笑みかけた。人間に真実を与える神は、容易く答えを与えはしない。真実に至る道を与えるのだ。
「それと、私からはこれも贈らせてもらうぞ」
手渡されたのは弓と矢だ。
「心が確かであれば、決して獲物を外すことはないだろう。それから、ヘルメスからはこれを」
そう言って差し出されたのは曇りのない一口の剣。
「ヘパイストスはこれを拵えてくれた」
光り輝く黄金の胸当てがアルケイデスの胸上に現れる。
「そしてアテナからはこれを預かった」
アポロンはアルケイデスの肩に純白の長衣を掛けた。
「これらは一体…」
突然の贈り物に困惑するアルケイデスをアポロンは面白がっているようだ。
「そなたの勝利に対する我ら兄弟からの祝いの品だよ」
アポロン。ヘルメス。ヘパイストス。アテナ。いずれも父はゼウスであったか。
「血に囚われる必要はない。だが父を同じくする我らはこれから先もそなたのことを気に懸けている。人の世で孤独に苛まれたときには、天上に味方がいることを思い出して立ち上がれ」
「…ありがとうございます」
急に兄弟と言われても実感など湧かないが、その厚意の暖かさは伝わった。神々から愛されるのは光栄なことだ。今は純粋に、己に注がれるものを受け容れよう。
「さて、私の用は済んだ。そろそろ戻りなさい」
アルケイデスを光が支配する。再び瞼を開いて見えたのは、神殿の薄暗闇だった。その光景のあまりの違いに、全て夢幻の出来事かと思われた。しかし、手には弓矢と剣。身体には黄金の胸当てと長衣。神々しい品々は確かにアルケイデスと共にある。どうやら夢ではないらしい。ならば、先程アポロンが語ったことも真なのだ。自分のことが少しは解った。今まで知らなかったことが次々と判明した。だが知ったところでそこに意味を見出すのは自分自身だ。確たる意味はアルケイデスにはまだ見つからない。それでも以前のように何も手懸かりがないわけではない。アポロンの言葉が暗闇で道を照らしてくれるのだから。