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獅子譚  作者: 毛野智人
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(五)

 アルケイデスの活躍により、ミニュアス人はオルコメノスへと敗走した。彼らを追撃しない代わりに、アルケイデスは今までテーバイがオルコメノスから課されていた二倍の貢物をテーバイへ送ることを誓わせた。戦績は快勝と言えたが、全く傷手がなかったわけではない。自身が左翼で奮闘している間、右翼を預かっていた父アムピトリュオンが戦死した。決して弱かったのではなく、力の限り戦い抜いて果てたのだ。年齢を忘れてしまいそうなほどの勇猛な戦いぶりは、右翼の兵士達を勢い付けた。更にまた彼の死に恥じぬようにと戦士一人一人を奮い立たせたのだった。

「アルケイデスよ。よくやってくれた」

 アルケイデスが城門の中へ帰還すると、クレオンが喜んで迎え入れてくれた。

「まさに天佑でも得たかの如き働きであった」

「俺は自分に出来ることをしただけです。今回の勝利は俺一人の力で成し遂げたものではなかった。全軍の大半はこの国の兵士達でしたから、労いならば彼らに与えて下さい」

「なんと殊勝なことを申す若者であろうか。のう?」

 窮地のテーバイを勝利へと導いた若き将の姿を一目見ようと集まった群衆に向けて王が問いかければ、一斉に称賛の声が湧き上がった。

 今まで味わったことのない反応にアルケイデスはたじろぐ。他人が自分を褒めてくれた。力を奮っても恐れられ、遠ざけられるしかなかった自分を。

 呆然と立ち尽くすアルケイデスの背中を弟のイピクレスが押す。

「兄上。皆の認める通り()(たび)の勝利は兄上のお陰。弟として私も誇らしゅうございます」

「イピクレス。お前も俺を褒めるのか。父上を死なせたのは俺の差配のせいとも言えるだろうに」

「しかし兄上の差配によって勝ったこともまた事実。亡き父上も今頃は、息子の武功をハデスに誇らしく語っておいでのことでしょう」

 イピクレスが励ますと、アルケイデスは(ようや)(うなず)く。

 外見も能力も性格も双子だというのに全く似ていない兄弟だが、やはり同じ母から生まれたからなのか、互いのことは気に懸けてきた。あまりに強すぎるアルケイデスの腕力のためにどんなに他人が避けようとも、イピクレスはアルケイデスを恐れなかった。どうやらまだ赤子のときにアルケイデスが蛇を退治してイピクレスを救ったという話を聞いて、兄を命の恩人と思って慕ってくれているようだ。父亡き今、ミュケナイ王家を盛り立てるためにも、兄弟二人で益々互いに支え合っていかねばなるまい。

「さて、新たなる英雄アルケイデスよ。早速神々に勝利の報告をせねば」

 クレオンはそう言うとアルケイデスを神殿へと導いた。

 神殿の祭神はアポロン。幼い頃、九年一度開かれるテーバイの祭でアポロン役を任ぜられたのを思い出す。その役にはその土地で力を持つ者の親族の中から、見目の良い若者が選ばれる。アムピトリュオンは叔父にアルゴスの土地を追われて以降、テーバイで亡命生活を送っていた。それはタポス島を取り戻してからも続いており、生活の本拠はテーバイの方にあったから、その祭に参加する資格は持ち合わせていたのだ。当時はアムピトリュオンがアルケイデスを候補に指名してくれた。そのときには父の期待を一身に受けた心地がして、とても誇らしかった。そしていつか父の助けになりたいと望み、弓術や柔術を始めとしてあらゆる術を身に付けた。しかしあるとき、竪琴がなかなか上達せず、苛立ちのあまり力に任せて琴の師であったリノスを殺してしまった。そこで初めて自分の力が他の者にとって脅威になり得ることを知った。

 それからだ。父との関係が変容していったのは。

 ときにアムピトリュオンがアルケイデスに向ける視線に畏怖とも蔑みとも言えぬ色が混じるのに気付いた。その理由は、人を殺めてしまったことを咎めているだけではなかったろう。しかし他に如何なる理由があるかと問われれば、思い至らぬ。ただ、もっと根本的な、本能的な理由から遠ざけられているような気がした。明確な理由を見出せぬまま、他人だけでなく己の父親さえどんどん離れて行ってしまう。そんな自分が自分でも怖くなった。

 自分は生まれてきてはいけなかったのではないか。

 もし生まれた意味があるのなら、何をせよと言うのか。

 誰にも求められぬこの己に、誰かの役に立つことができようか。

 アムピトリュオンに牛飼いを任せられてからは人と触れ合うことも少なくなった。草の匂いを嗅ぎ、青く高い天を仰ぎ見て、自分自身の命の意味を問うてみたりもした。人知れず悩む日々を過ごしていたある夜、牛飼い場の小屋で眠っていたアルケイデスは牛の悲痛な鳴き声で目を覚ました。すぐに飛び起きて外に出ると、一頭の獅子が飼っていた牛を(むさぼ)っている。アルケイデスに気付くと獅子は素早く身を翻して姿を消してしまった。夜陰に紛れ込んだ敵を見つけることは不可能だ。アルケイデスは追いかけはせず、寝ずの番をして朝を迎えた。そしてアムピトリュオンに昨夜のことを報告すると、父曰く、キタイロン山に棲む人食い獅子の仕業だろうという話であった。また同じ被害を出すべきではないと考え、アルケイデスはアムピトリュオンに獅子退治を申し出た。父は引き留めず、「好きにせよ」とだけ命じた。

 キタイロン山に入るに当たり、まずテーバイの隣国で丘陵地にあるテスピアイへ寄らねばならなかった。そこでテスピアイ王の飼う牛も同じ目に遭っているという話を聞いた。どうやら目当ての獅子は家畜荒らしに味を占めたと見える。一刻も早く退治するのが近隣の者達のためになろう。テスピアイからキタイロン山の中へ入ったアルケイデスは、獣の足跡を頼りに獅子の棲処(すみか)を探した。恐怖はなかった。アルケイデスは生まれてから一度も恐怖というものを感じたことがない。自分よりも強いものに会ったことがないのだから当然だ。故に人食い獅子を相手にするとしても、向こうが自分に勝るという想像が出来ないので恐れることがない。自分が獅子を倒すということしか思い描けない。心身共に、まさしく無敵であった。

 三日ほど山中を探索し、やっと獅子が根城としている洞穴を見つけた。アルケイデスは草木の陰に隠れて少しずつ眠る獅子との距離を詰めていった。温和(おとな)しく眠っているだけならば、猫を殺すように容易かろう。しかし、相手は野性の感覚に優れた獣だ。一定の距離まで近付くと、獅子はアルケイデスが縄張りに侵入したのに気付いた。獰猛な目が若者を睨む。臨戦態勢に入った。獅子が自分を殺しにかかるその瞬間に仕留めねばならない。アルケイデスの本能がそう告げた。鋭い牙を剥き出しにして威嚇する獅子を前に、アルケイデスは大きく一歩踏み込んだ。それを合図とばかりに獅子が跳び掛かってくる。それを見越して素早く弓に矢を(つが)え、獅子の喉の奥へ的を定めて引き絞る。矢は若者を食い千切ろうと開かれた凶暴な牙の間を真っ直ぐに走り抜け、唸る喉を貫いた。突然の痛みに獅子は(たてがみ)を乱して仰け反り、地に身を打ち付ける。アルケイデスは倒れた獅子に慎重に近付いた。まだ息がある。

「我らの糧を横取りするとは、獣の王に相応しからぬ所業。今ここで俺はお前を殺すが、それは恨むに値しないことだ。お前の行いに対する報いなのだから」

 獅子は浅い呼吸を繰り返している。語る若者を見上げる黄金の瞳には既に反撃を望む覇気はなく、諦めたように全身を投げ出していた。

「お前を討ち取ったことを示すため、その身体はもらい受ける。悪く思うな」

 獅子からは(いら)えなどなかったが、己に勝る強者に逆らえぬことは悟っているようだ。

 アルケイデスは剣を抜くと、鬣に覆われた獅子の喉に突き立てた。最後の一啼きが空しく響く。辛うじて残っていた命が遂に絶たれた。アルケイデスは獅子から首を獲り皮を剥ぎ、それを担いでテスピアイへと持ち帰った。

 テスピアイ王に狩った獅子の毛皮を見せると、王は大層喜び、アルケイデスを歓待した。褒美に獅子の皮を職人の手で加工させた。頭は兜として、毛皮は外套として纏えるようにして渡された。その他にも王は自身の娘を遣わせてアルケイデスをもてなした。そのときにアルケイデスは初めて母親以外の女の身体に触れたのだが、特に感慨は湧かなかった。テスピアイ王の厚意はあまりにぎらついていて、好きになれなかった。

 その後、テスピアイを立ってテーバイへ帰る道中でオルコメノスの使者に会ったのだ。数十頭もの牛を引き連れている集団など珍しい。しかもよく手間をかけて育てられた牝牛だ。牛飼いをしているアルケイデスにはすぐに解った。

「道を遮るとは無礼な」

 無礼な、と言われてもこの道を通らねば父の元へは帰れない。道を譲るべき相手なのかどうか確かめようと、アルケイデスは尋ねた。

「貴方たちは一体如何なる方々か」

「我らはオルコメノス王エルギノス様の命を受けた使者である」

 オルコメノスはテーバイとは敵対していた筈だ。その国の使者が往来(ゆきき)するとはどういうわけか。

「その牛はどうされた?」

「これらはテーバイ人からエルギノス様への貢物」

「何故テーバイ人がミニュアス人に貢がねばならぬのか?」

「先の戦いで負けたが故に」

「負けた?」

 確かにミニュアス人がテーバイに攻めてきたことはあった。テーバイ人に多くの死人が出たことも知っている。しかし、負けたとは聞いていない。あれはあくまで休戦だった筈だ。

()(よう)。穢れた王家の国など滅ぶのが必定である」

「軽々しく王家も国も侮辱すべきではない」

「我々は真実を述べているのだ。この国に運命に抗う力などもう残ってはいまい。このまま我らミニュアス人の土地となる日も遠くはなかろう」

 使者は下品に背を反らせて笑った。そうしたところで六尺のアルケイデスを見下ろすことは出来ないのに、心の中では自分が一番高いところに居るつもりなのだろう。醜い。

「お前もテーバイ人なら、早めにオルコメノスに屈することを認めた方が良い。そうすれば、奴隷の中でもましな役目に就けてやる」

 人間に疎い純粋な若者は、使者が浮かべる薄ら笑いに耐えられなかった。アルケイデスはアルゴスのミュケナイ王家の一員ではあるが、生まれも育ちもテーバイだ。それに、父アムピトリュオンがテーバイ王家から受けた恩情もよく知っている。他国の人間にこの国について勝手なことを言われて()(くび)られるのは我慢ならない。

 アルケイデスは(にわか)に抜剣し、使者の耳を切り落とした。

「己の汚い言葉も聞こえぬのなら必要ないだろう」

 次いで、鼻を削いだ。

「己がどんなに汚れているか嗅ぎ分けられぬのなら必要ないだろう」

 そして、手を切り取った。

「己の行いの汚さに気付かぬのならもう必要ないだろう」

 全ての動作が光速だったために、使者の誰一人として我が身に降りかかった不幸に即座に気付くことが出来なかった。気付いたときには既に阿鼻叫喚の渦の中だ。

 アルケイデスは使者が牛を()いていた縄を手に取ると、それでもって切った耳と鼻と手を使者の頸に括り付けてやった。

「それがテーバイからミニュアス人への貢物だ。帰って王にしかと見せるが良い」

 アルケイデスに恐れを成して使者は逃げ去った。

 獣よりも人間の方がよほど醜悪だ。獣は空腹から他の者の命を脅かす。生きるための理に則っての行動だ。しかし人間は、生きるためではなく己の欲を満たすために他者を脅かす。侮辱し、屈服させ、増長し、優位に立とうとする。アルケイデスが退治した獅子は真っ直ぐにアルケイデスに立ち向かい、その最期は実に落ち着いていた。弱者が強者の牙にかかるという自然の摂理に逆らわず、自らの死を受け入れた。対してオルコメノスの使者らはどうか。敵対する相手を無理に下に置き、自分が強いと思い込んで思慮に欠けた言葉を吐く。確かにそうするのは心地良いのかもしれない。しかしそれは、弱さや死から逃れているだけの快楽であって、アルケイデスには少しも良いと思えなかった。そう考えられるのは、彼自身が強いから、つまり、本当に強ければ他者を貶める必要などないと知っているからだということを彼に教えてくれる人があったなら、アルケイデスはもう少し人間らしくなっていただろう。

 人間相手に手を挙げたのはリノスを殺して以来だ。久方ぶりに怒りを抑えられなかった。恐らくあの姿で帰った使者を目にすれば、オルコメノスの王は間違いなくテーバイへ攻めてくる。一刻も早くテーバイ王に事の次第を伝えなければなるまい。そして勿論、自分で蒔いた種は自分で刈り取らねば。そう決心して、父の元へ帰る前にテーバイ王への謁見を済ませることにしたのだ。テーバイ王は初めは不安を露わにしていたが、アルケイデスの説得を呑んで挙兵に応じた。

 その後全てはアルケイデスの想定通りに進み、結果はこの通り称賛の嵐である。

 こんなにも大勢から手放しで褒め讃えられることなどかつてなかった。人は寄りつかず、恐れる対象としてしか見られなかった。何故、自分が讃えられているのか、よく解らない。

アルケイデスは成すべきこと、やって当然のことをしただけなのだが、それでここまで人は歓喜するものなのか。人間というものが益々解らなくなった。

 祭壇で戦勝を報告する祭儀を終えると、神官が側へやって来てアルケイデスを呼び止めた。

「巫女が、神殿の奥へ貴方様をお連れするようにと申しております」

 アルケイデスは首を傾げる。

「俺だけ、ですか」

 神官は肯いた。

「行くが良い。神の思し召しがあるのやもしれぬ」

 困惑するアルケイデスをテーバイ王クレオンが促した。

 神とは人間の全てを見通しているものだ、と父アムピトリュオンはよく言っていた。それが本当なら、アルケイデスの命の意味について何か知っているのだろうか。何か一つでも自分自身について明らかに出来ればという期待に押されて、アルケイデスは神官の案内を受け容れた。

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