(二)
ボイオティアの地にその名の聞こえしテーバイ。この国には数知れぬ運命の波跡が残る。
カドモスが竜の歯を蒔いたときから、王家にも、この地に住まう人々にも、禍が絶えない。ここ数年の最も新しい不幸といえば、テーバイの北西、コパイスの湖よりも向こうにあるオルコメノスに貢ぎ物をせねばならないということだった。オルコメノスはミニュアス人の治める土地で、水と肥沃な大地に恵まれた豊かな国である。テーバイとはボイオティアにおける覇権を相争う仲であった。
あるとき、とあるテーバイ人が神殿でオルコメノスの王を傷つけた。その傷は王の命を奪うほどのもので、彼が国に帰る頃にはまさに死に際にあった。王は息子のエルギノスを側に呼ぶと、テーバイへの復讐を命じて息絶えた。父の死後、エルギノスはその遺言に従ってテーバイへ進軍した。二国の名誉を巡る争いのためにテーバイ人が流した血は広がるばかり。それ故これ以上の被害を増やさないために、テーバイが二十年に渡って毎年百頭の牝牛をオルコメノスへ貢ぐという条件を呑んで休戦となった。
この屈辱にときのテーバイ王クレオンは頭を悩ませていた。テーバイは度重なる不幸により疲弊しきっており、とても反撃に打って出ることなど出来そうにない。かといって二十年もの間敵に貢ぎ物をするのは、自国の力を益々殺ぐことになる上に、テーバイはオルコメノスに屈したものと他国に思われかねない。クレオンとしては現状はあくまでも『休戦』であり、機が熟せばいつでも戦を仕掛けて勝ちに行くつもりであった。
そのような折、悩める王の耳に報せが入った。
王はその内容にまずは我が耳を疑った。次にその報せをもたらした家来を疑った。
曰く、オルコメノス王エルギノスがテーバイへ軍を率いて向かっていると。
何故そのような事態に至ったのか、クレオンには全く見当がつかない。休戦の条件はきちんと守っている筈だ。つい先日も、オルコメノスからの使者に貢ぎ物を引き渡したばかりで、既にエルギノスの元へ到着しているものと思われた。まさか貢ぎ物の中身が欠けていたのだろうか。否、他国へ渡すものの確認は念入りにしている。使者へ渡したときには確かに全て揃っていた。
クレオンが突然の開戦の理由を見出せずにいるところに、更なる報せが入った。
曰く、窮地のテーバイ王に謁見を求める者がいると。
このようなときに何者かと苛立ち追い返そうとしたクレオンだったが、その者が戦の理由を知っているらしいと聞いて兎に角会ってみようと考えを改めた。
王の指示に従って家来が一人の若者を連れてきた。
現れた若者の異様さにクレオンは息を呑む。
六尺はあろうかという長身に筋骨は逞しく、一挙手一投足に無駄がない。それは鍛え上げられた肉体と天性の身体能力の高さによるものと思われた。加えて何より際立って異様なのは、彼の装いであった。上衣に纏っているのは獣の毛皮。しかもそれはよく見る獣のものではない。その正体は恐らく、彼の頭上に兜として冠された動物――獅子だ。
遠くから一歩ずつ近付いてくる若者に、クレオンはたじろいだ。若者は真っ直ぐに玉座の王に目を合わせている。その眼には純粋さと自信とが火花を散らして煌めいている。
愈々クレオンと若者とが言葉を交わせる距離で対峙した。
クレオンは必死に心を落ち着けて問う。
「名は?」
「アルケイデス」
若者の名がその場に響き渡る。返答の声はその身体に似つかわしく芯の通った剛胆な音色をしていた。
「随分と面白い格好をしているようだが、その毛皮はどこで手に入れた?」
「キタイロンの山中で」
確か近頃キタイロン山麓には獅子が出没して家畜を襲っていると聞く。
「まさか、そなた自身の手で退治したと申すのか」
「仰る通り」
若者は臆せず即答した。
「何故にそのような危険に挑んだ?」
「俺が父から預かっている牛どもを殺されたので。また、テスピアイの王も同じ被害に遭ったと聞き、他にも困る人がいるなら狩るべきだろうと思ったので」
若者が述べた理由は単純明快である。しかし、そう考えて実行できる人間はそういない。あえて我が身を危険に晒すことになるのだ。肉体の強靱さは勿論だが、それだけでは足りない。並外れた勇気がなければ不可能だろう。外見だけでなく、思考も、行動も、常人離れしている。この若者は一体何者なのだ。
クレオンは訝りながら最も訊きたいことへと話を移す。
「今、オルコメノス王エルギノスの軍勢が我がテーバイに向かっている。それが何故だかそなたは知っておるのか?」
「俺からの贈り物が気に入らなかったのでしょう」
「…どういうことだ?」
平然と答えるこの若者の言葉の意味を掴みかねて、王は更に尋ねた。
「獅子退治から帰る途中、面白い集団に会いました。やたらと上等な牝牛を何十頭も連れているので、その牛はどうしたのかと訊いたらば、テーバイ王からオルコメノス王への献上品だと言う。何故テーバイがオルコメノスに牛を捧げねばならぬのかと訊いたらば、テーバイ人がミニュアス人に負けたからだと言う。俺の記憶ではテーバイは何処の属国にもなっていない筈。だのにそんな出鱈目を言うとは、テーバイに対する酷い侮辱だ」
「それでそなた…其奴らに何かしたのか…?」
「はい。耳と鼻と手を切って頸に括り付けてやりました。そしてそれをミニュアス人へ贈るようにと言って帰してやったのです」
クレオンは顔面から血の気が退いていくのを感じた。王の代理たる使者がそのような目に遭って帰ってくれば、王は怒り狂うだろう。しかも、テーバイ人ではなく余所者の手によって傷付けられたとは知る由もないのだ。テーバイへ兵を向けるのは当然だ。
「何故そのような惨いことをしてくれたのだ…!」
「テーバイには恩があります。だから不当な仕打ちからお助けしたいと思っただけです」
「恩だと?」
初めて会うこの男とテーバイとに何の関わりがあるというのか。
「我が父アムピトリュオンが不遇のときに多大なる援助を頂きました」
「アムピトリュオン?」
その名はよく知っている。数十年前、自身の叔父であったミュケナイ王を殺した罪で祖国を追われ、テーバイに亡命してきた男だ。
当時のミュケナイは創建者であるペルセウスが既にこの世を去って久しく、ペルセウスの息子の一人であったエレクトリュオンが王位を継いでいた。ただ、王家は安泰ではなく、ペルセウスの子孫達が父祖の残した土地を巡って争っていた。特にタポス島の人々との争いは混迷を極めた。ミュケナイとタポス双方の王家に多数の死者が出たが決着は着かず、エレクトリュオンは追撃の機会を狙っていた。そんな折、不慮の事故によりエレクトリュオンは命を落としてしまう。その原因は間違いなくアムピトリュオンにあったが、故意によるものではなかった。これを好機とばかりに台頭する者があった。しかも敵ではなく味方の内にである。ペルセウスの息子の一人でエレクトリュオンの兄弟のステネロスだ。甥であるアムピトリュオンを王殺しの罪でアルゴス全土から追放し、自身がミュケナイ王を称したのである。エレクトリュオンの子息の殆どはタポス人との戦いで命を落とし、残ったのはまだ幼い息子と娘のアルクメネだけだった。故に、次の王位に最も近いのは、王を側近くで支えてきたアムピトリュオンであったわけだ。叔父の一人に陥れられたアムピトリュオンは亡き王の忘れ形見の二人を連れて、アルゴスを離れボイオティアの地へ、古くから王家が続くテーバイを頼って来た。
「父はこの国で罪を清められ、母との婚姻と祖国のために戦うことを許される身の上となりました」
テーバイ王は自身の記憶とアルケイデスの言葉を重ね合わせる。
「ああ、憶えているぞ。そして私にタポス遠征の助力を求めたのだ」
「そうです。そればかりでなく、貴方は我が母アルクメネを父の帰還まで保護して下さいました。その後、タポスの島々をミュケナイのものとして父がテーバイに戻ってから二人は晴れて夫婦となることができた。つまり、貴方と貴方の国は、俺がこの世に生まれ出でる契機さえ与えて下さったのです」
クレオンは深く息を吐いた。どこの馬の骨かと思ったが、ミュケナイ王家の血を引く者であったのか。この堂々たる佇まいはその血のなせる業か。
「しかしいくらそなたが恩義を感じていたとしても、今回の行いは我がテーバイに仇となった。如何にして始末をつけてくれるというのだ?」
「お待ち下さい。恩返しはまだ始まったばかりです」
「何だと?」
「俺の贈り物を受け取り、ミニュアス人は怒りに任せて兵を挙げたことでしょう。戦略なく戦を始めることの愚かさも知らず、ただ感情のままに攻めてくる筈です。奴らに対して我らは戦略をもって迎え撃てば良い。そうすればもう二度と奴らに貢ぎ物をするなどという屈辱に耐えなくて済みます」
「まさか、開戦を招くためにあえてそうしたと言うのか?」
若者は頷いた。彼の剛毅に対して、クレオンは不安を募らせる。
「しかし今の我らにはオルコメノスと戦う力はないのだ…」
「ご安心を。テーバイからは可能な限りの兵力を貸してもらえれば良いのです。残りは俺が何とかします」
「そなたがテーバイのために戦うと言うのか?」
「はい。俺が恩返しのために始めたことなのですから、戦場にいないのは無責任に過ぎます。欲を言えば、俺を全軍の将にして下さると有り難いのですが」
クレオンは困惑した。それこそこちらが無責任ではないか。よく知らぬ他国の人間に自国の兵を預けるなどと。それで負けたら王として民に何と伝えたら良いのか。
狼狽える王を若者は煌めく瞳で射貫く。
「俺を信じて下さい。そうすれば必ず、アテナが勝利をもたらして下さいます」
「しかし、見ず知らずの者にそこまでしてもらうのは気が引ける」
「祖国を守る手助けをして頂いた仲です。父もきっとテーバイ王の助けになることを望んでいます。テーバイの名誉を取り戻す良い機会です。共にミニュアス人どもにテーバイの力を思い知らせてやりましょう」
アルケイデスと名乗ったこの若者。不可思議な男だ。クレオンが抱く虞れをどこまでも打ち砕く。不可能と可能とを天秤にかけず、己の心に愚直に動く。その様は英雄と呼ばれるに相応しい器を感じさせる。
だが反面――怖い。
クレオンは目の前の若者に対して既視感を抱いているのだ。
忌まわしい血の記憶。しかし、と必死に頭を振って追い払う。
あの男とは違う、そう言い聞かせてテーバイ王は彼の申し出を受け入れた。