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獅子譚  作者: 毛野智人
19/20

(十九)

 モロルコスに森の入り口まで案内され、愈々(いよいよ)ヘラクレスはネメアの森へと足を踏み入れた。

 森は深く、暗い。とても人が立ち入れる雰囲気ではない。もし侵入する者があれば、そのまま呑み込んで逃がすまいとこちらを窺っている。しかし、ヘラクレスは既にその中を進んでいる上に、(あまつさ)え貪欲な森の主を引きずり出して持ち帰ろうとしている。人間の中でそれが可能だと信じている者は恐らくいなかったろう。ただ神々の中には、ヘラクレスが如何(いか)にしてこの難業をやってのけるだろうかと注視する者は少なくなかった。だが当のヘラクレス自身は、そのような神々の期待など知る由もなく、ただ己に課せられた罰を遂行することしか頭にないのだった。


 進めども進めども、一向に人を襲うという獅子の姿は見えない。

「まだ昼間だというのに、何という暗さなんだ…」

 こめかみを伝うのは、冷や汗か。気を抜けば己の命が食らわれる。もはや生きることに執着などないと思っていたが、命の危険に晒されれば身体は反応するのだ。右手でその雫を拭いながらヘラクレスは深い森の中を更に奥へと分け入っていく。

 本当に暗い。

 木の幹の形も、葉のさざめく音も、其処(そこ)此処(かしこ)で同じに感じる。

 この中ではヘラクレスただ一人だけが、異物のようだ。

 ここにあるべきではないと否定される。

 人々が寄りつかない森にさえ、拒絶されるのか。

 ヘラクレス自身ですら消してしまいたい己自身を。

 ――何故、俺は生きている。

 妻と子を失ったあの日から、幾度となく繰り返した問いを再び投げる。

 生きる価値のない男を、神々はよくも生かしたものだ。

 四人の死に対してヘラクレス一人の死では、釣り合いが取れないからか。ゼウスが父親としての情けをかけたか。人の中でも生きられず神にもなれぬ男の一生を(もてあそ)んで嘲笑(あざわら)うためか。

 今でもヘラクレスは、妻子を殺した己自身を憎んでいる。許されるなら、同じ目に遭わせてやりたいが、それは如何にしても不可能な望みだ。人の中にヘラクレスより強い者はおらず、神々はヘラクレスの命など歯牙にもかけない。

 今から対峙せんとしている怪物ならば、息をする限り生きようとするこの身を止められるだろうか。

 ヘラクレスは死に場所を求めて森の中を彷徨(さまよ)った。

 結局その日は獅子を見つけられぬまま日は落ち、そうして幾日かが過ぎ去った。

 これだけ探しても見つからぬとは。向こうも身の危険を察して隠れているのやもしれぬ。

 ヘラクレスは近くの木の根元に腰を下ろした。

「こちらから行っても見つけられないのならば、あちらから姿を現すのを待つとしよう」

 瞼を閉じ、身体だけでも休息させる。ただし、いつ何時(なんどき)襲われても良いように、神経は研ぎ澄まして。

 脳裏に妻と子の顔が蘇る。その度に乱れる心を打ち払う。

 己の心象に過ぎないのに、彼らがどんな表情をしているか直視できない。怨んでいるだろう。あんな(むご)い最期を遂げさせたのだ。妻メガラは、神懸かりの英雄としてではなく、血の繋がりも関係なく、ヘラクレスを一人の男として受け容れた唯一の人だった。ヘラクレスは彼女を愛していた。その笑顔を心に浮かべることも、もうできない。それを悲しむ権利すら、己にはない。

 雑念を断ち切るように、ヘラクレスは目を開けた。

 日はすっかり暮れて、森の中は本物の闇が支配する。

 視覚は通用しない。ヘラクレスは再び目を閉じ、耳を澄ます。

 聞こえるのは風の音。枝を揺らし、葉を揺らす。

 ――ぱき。

 何か。

 ――ぱき。

 また。

 ――ぱき。

 近い。

 ――ぱき。

 来る。

 ヘラクレスは近づいてくる妙な音に向かって目を凝らす。するとそこには、小さく、しかし確かにぎらりと光る双眸があった。

「とうとう姿を見せたか」

 ヘラクレスは相手の目を見据えながらゆっくりと身構える。

 漆黒の闇から前足、(たてがみ)、頭が現れた。奴こそメネアの森の人喰い獅子。その身体は並の獅子の何倍も大きく、口元には血が(したた)っている。

 ヘラクレスは弓に矢を(つが)え、獅子めがけて矢を放つ。

 矢は鋭く風を切る。真っ直ぐに獅子の胴へ飛んでいった。

 間違いなく命中したと確信してヘラクレスは相手の様子を窺う。

 しかし獅子は微動だにしない。視線を下方へ転じてみると、ヘラクレスの矢は獅子の身体に刺さるどころか矢尻は欠け、使い物にならない状態になって地に落ちていた。

「なんて奴だ…」

 矢が駄目なら今度は近距離から刃を突き立てようとヘラクレスは剣を抜く。獅子の首めがけて突進し剣を振り下ろす。だが、通常なら感じるはずの肉を断つ感触が全くない。それどころか、ヘラクレスの身体は跳ね返され、手にしていた筈の刃は折れ、これまた使い物にならない状態になっていた。

「くそっ」

 尻餅をついた状態のヘラクレスを睨みながら、獅子がこちらへのそりと前足を動かす。ヘラクレスは焦った。次の手はあるか。手持ちの武器はあと一つ。ヘラクレスはすかさず左腰の棍棒を手に取る。そして地を蹴って強靱な脚の撥条(ばね)で飛び出すと、目の前の獅子に渾身の力を込めて殴りかかった。

 今度こそやったか。鈍い音と共に手に痺れる感覚があった。獅子の頭が割れたか。

 目を凝らしてみると、獅子は無傷で鋭い眼光のままにヘラクレスの方を向いている。驚いたヘラクレスは自分の手にしている棍棒を見て愕然とする。棍棒の方が割れていたのだ。

「こいつ…!」

 鋼の身体でもしているというのか。武器による攻撃は何一つ効果がない。ならば、打つ手はあと一つしかない。しかもそれで確実に生き残れるという保証はない。それでもやるか。少しでも己が生き残る可能性に縋るか。それとも、諦めて死を選ぶか。

 先ほどの一撃は獅子の気に触れたらしく、低い唸り声が森の中に(こだま)する。

 怒りの牙を剥き出しにして、獅子はヘラクレス目がけて襲いかかってきた。後ろ足が地を蹴ったと思ったら、次の瞬間には巨大な体躯がヘラクレスの上に落ちてくる。

 そのとき、ヘラクレスは覚悟を決めた。

 ヘラクレスはひらりと身をかわすと獅子の後ろへ回り込み、巨体を押さえつける。次いで、若かりし日に鍛えられ、未だ衰えを知らぬその豪腕で獅子の首を絞めにかかる。獅子は必死にもがき、抵抗した。しかしヘラクレスも負けじと渾身の力をこめて獅子の動きを封じる。頭に血が上り顔は沸騰するかの如く熱い。

 他の命を食い荒らして生きてきたこの獅子は、恐らく生まれて初めて死を感じ取ったのだろう。死にたくないという生物の本能を剥き出しにして全身がのたうつ。苦しいだろうに、なかなか諦めない。如何に苦しかろうが、己の生は手放せないのが生ある者の、死すべき者の本能だ。そして今ここで生き残るのは、その本能の強い方だ。獅子の目がぎらりと光りヘラクレスを威嚇する。

 如何に呪われた生であれ、生まれたが故に(われ)は生きる。

 そう、訴えるように。

 ――そうか。

 ヘラクレスは全身全霊の力でもって獅子の首を絞め上げる。

 何故生きるかなどという問いは無意味だ。今この腕に感じる痛みこそ、己の生の全てだ。

 ゼウスとアルクメネの間に生まれ、半神として人より強い力を持ち、ヘラに呪われ、人に避けられ、人に崇拝され、人に愛され、妻子を殺した。そして今、その償いのために獅子と格闘している。生まれ出でたときからの坦々(たんたん)とした事実の連なりが、紛れもない現在のヘラクレス自身を成している。どう足掻こうがその事実を覆すことはできない。その上に新たな事実を重ねることしかできない。それが生きるということだ。

 ならば、妻と子への償いを成し遂げたという事実が欲しい。ここで生きることを諦めるより、新しい事実を手にしてから死にたい。それはきっと苦しいだろう。辛いだろう。しかしどれほどの苦痛を与えられようと、死がこの身を迎えに来るまで、生きる(ほか)ない。それがこの世に生を受けた者の宿命だ。

 ――この生に意味などない。生まれたが故に、俺は生きる。

 ヘラクレスは獅子の太い首に回した腕を一瞬たりとも緩めなかった。

 そのまま三日と三晩が過ぎた頃、ついに獅子は息絶えた。

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