(十八)
ネメアの森には恐ろしい人食い獅子が棲んでいる。森の中に獲物がいないときには、人里に現れて狩りをしていく。いつ自分が食われるかも知れないと、ネメアに隣接するクレオーナイの人々は、戦々恐々とした日々を過ごしていた。
日雇い人のモロルコスは、今日の仕事を終えて帰途につくところであった。大して面白くもない仕事を終え、自分を待つ人もいない家に帰る。惰性で過ごすつまらない日々にもようやく慣れてきた。
モロルコスの妻子は人食い獅子の犠牲となっていた。モロルコスが仕事に出ている間に、人里へ降りてきた獅子の爪牙にかかったのだ。
誰もいない家へ向かう途中、異様な姿の男が行く手を阻んでいるのに気付く。
獅子の兜に獅子の鎧。まさか人食い獅子はついに人の姿を借りて市井に現れたのだろうか。ぎょっとして身動きがとれないでいるモロルコスに向かって、その男は近付いてきた。近付くほどに露わになるその姿は益々異形で、特に火花が散るが如きその眼光からは目を逸らせない。棒立ちでいるモロルコスを見下ろし、男は言葉を発した。
「ネメアの森へ案内してはくれまいか」
己の巣に帰ろうとでも言うのだろうか。モロルコスは怯えた様子で、何故、と問い返す。
「そこにいるという人食い獅子を退治せねばならぬからだ」
モロルコスは己の耳を疑った。男はそれをさも当然のことであるかのように言った。あれを退治する? 何人にも成し遂げられなかった難業だ。あれの恐ろしさを知らない余所者だからそのようなことが簡単に口にできるのだ。
「無理だ。やめた方がいい」
「しかし俺にはそれをしないという選択肢は存在しない」
モロルコスは眉を顰め、再度目の前の男を見上げた。
泰然として揺るぎない。その炯眼は、決して夢幻を見てはいない。この男は、本当にやってのける気でいるのだ。それが叶うとはモロルコスには思えなかったが、男の意気は信じてやることにした。
「――解った。案内はしてやるが、今日はもう遅い。行くなら明日の朝にした方が良い」
そう言ってモロルコスは男を一晩自分の家へ泊めてやることにした。
男は口数が少なく、モロルコスもあまり会話が得意な方ではなかったから、道中も家に着いてからも沈黙が続いていた。見るからに訳がありそうな男のことをわざわざ詮索しようと思えるほど、モロルコスもおめでたい頭の持ち主ではなかったし、自分のことをぺらぺらと喋る質でもなかったので、丁度良かった。
一応相手は客人だし、明日は生きて帰れるかも解らぬ荒事に挑むのだ。できるだけのもてなしはしてやろうと思い、モロルコスは羊を一頭屠ろうとした。
「待ってくれ」
背後から静止の声がかかり、モロルコスは何事かと振り返る。
「貴重な家畜を俺などに振る舞う必要はない」
「しかしあんた…あの森に行くんだろう? 行く前にこんなことを言っちゃ悪いが、あそこへ獅子退治へ行って生きて帰ってきた奴はいない。正直俺も、あんたがあの化け物を討ち取れるとは思っちゃいない。死にに行く前に、旨いもの食わせてやりたいと思っただけだ」
「元より自ら生きることを望めるような身の上ではない」
「なら、大人しくもてなされたらどうなんだい」
半ば苛立ちながらモロルコスが言い返すと、男は頭を振った。
「家畜も獅子に食い荒らされて減っているはず。そのように貴重なものは俺ではなく、神々へ捧げるが良い」
「神々にだって? 一体神が何をしてくれるって言うんだ?」
「俺をここに遣わしたのは神だ。俺は罪人だ。神の命に背くことはできぬ。故に、ネメアの獅子は必ず仕留める」
モロルコスには男の言葉の意味が理解できなかった。
神が遣わした? だから獅子に打ち勝てるだと? 妄言にしか聞こえない。
「あんた神と仲が良いのか? だったら訊いてきてくれよ。何故、今まで何もしてくれなかった? 俺の妻と子があの化け物に食い殺されるより前に、どうして助けてくれなかった?」
これまで静かに、悲しみを押し殺して生活してきた。感情に流されれば、妻子がいない現実を痛いほど思い知るから。だが、その悲しみを知らぬ余所者に勝手なことを言われたら、抑えていた悲愴が怒りとなって暴発した。
勢いに任せて思いを吐き出し、落ち着きを取り戻してきた頃に男を見遣ると、何故だか男も自身の中の悲愴と向き合っているような表情をしている。まさかこの男も、モロルコスと同じような傷を抱えているのか。
「三十日待って欲しい」
痛みを噛みしめた表情のまま、男はそう言った。
「どんなに長くとも三十日で獅子を仕留めてこよう。そのときに、俺を遣わしたゼウスにその羊は捧げてくれ。もし三十日経っても俺が帰らなければ、死んだものと思ってくれて構わない。そのときには、死者である俺にその羊を供えてくれ」
男は相変わらず真剣だった。嘘偽りや上辺だけの美辞を唱えているわけではなさそうだ。しかしモロルコスには、あの獅子を退治できる者がいるとは到底信じられなかった。だから、三十日後に死者へ供えるつもりで家畜小屋を後にした。




