(十七)
「遠路遙々ご苦労であった」
エウリュステウスは彼の咎人に対して居丈高に声をかける。
大きな身体を縮こまらせて跪伏する様はなかなかに滑稽で、エウリュステウスの嗜虐心を満たしてくれる。しかし彼の纏う獅子皮の甲冑には眉を顰めずにはいられない。獣の王を身に着けるとは、何たる豪胆。宮殿から出ずに一国の権力を掌握している己が嘲弄されているようにすら感じられた。
「今はヘラクレス、と呼ばれているのだったな。我らが一族の者の命をこうして助ける役を授かることができ、余は嬉しいぞ」
ヘラクレスは頭を垂れたまま、一言も発しない。罪と絶望に塗れた英雄の面を早く見たくて、エウリュステウスは一言煽ってやる。
「ここなる我が忠臣もそなたとの再会を喜んでおろう」
エウリュステウスの言葉を不審に思ったのか、ヘラクレスがようやっと顔を上げた。視線が旧知の人物を捉えると、その眼は大きく開かれた。
「――イピクレス」
まさか無事でいるとは思わなかったのだろう。むしろ、宮殿のどこかに囚われて酷い仕打ちを受けているとでも思っていたかもしれぬ。それでは温い、というのがエウリュステウスの信条だ。対抗する相手を懐柔し、屈服させねば。心の中の芯を折ってやらねば、真に支配したとは言えぬのだから。心の奥に忠誠心を持ち続ける者は、いずれ反旗を翻す。そんな気を起こさせぬように、あえて地位を与え、己の下から逃れられなくさせるのだ。ヘラクレスの弟イピクレスも、エウリュステウスの手管に見事に落ちてくれた。
「お前…よく、息災で」
イピクレスは微かに唇を戦慄かせた後、ぐっと唇を噛みしめた。言いたいことが山ほどあるだろうに、エウリュステウスを気にして自制する様は何ともいじらしい。
「エウリュステウス陛下にご厚情を賜り、今はミュケナイ王家にお仕えしております」
震える声で絞り出した言葉を、兄はどのように解釈したろうか。芝居の行方を気にするような心地でエウリュステウスは玉座から二人のやり取りを眺める。
しかし、期待に反して兄弟の感動の再会を飾り立てる言葉はいずれからも出て来ない。ヘラクレスはイピクレスを見つめたまま何も言わず、イピクレスはヘラクレスと目を合わせることもできないまま何も言わないでいた。しばらくそうしているうちに、ヘラクレスは静かに、何もかもを押し殺した表情で、そうか、とだけ呟いた。そしてエウリュステウスの方へ居直り、改めて深く礼をする。
「我が弟を陛下の側近くに取り立てて下さったこと、誠に感謝申し上げます」
存外につまらない男だ。それがエウリュステウスが持ったヘラクレスへの第一の印象だった。
「イピクレスは実に有能な男じゃ。余も良き臣下を得ることができて心強いぞ」
「ええ。弟は俺などよりも余程できた男です。俺のような愚鈍な男の下ではその能力を存分に発揮することができませんでした。きっと陛下のお側にいる方が幸せでしょう」
本当にそう思っているのか。単なる建前か。
「ですから、どうか、陛下。我が弟を呉々もよくお使いください」
垂れた頭からヘラクレスの両眼が真っ直ぐにエウリュステウスを見返してくる。途端に、ひやりとした感覚が背筋を駆けた。
獲物を狙う、獅子の目だ。
弟の身を危険に晒すようなことがあれば容赦はしない、いつでも牙を突き立ててやる。そう語っている。
は、と己の喉から得体の知れない笑声が漏れ出たのをエウリュステウスは聞いた。
面白い。それがエウリュステウスが持ったヘラクレスへの第二の印象だった。
「ああ、勿論だ。大事にさせてもらおう」
唇は残忍に弧を描く。
「それ故、そなたは余計なことは考えず、償いに励むがよい」
妻殺し、子殺しの贖罪に価する罰となれば、並大抵のことでは足りぬだろう。命をも差し出すような、恐ろしい難業でなくては。
「ときに、その身に纏う珍奇な甲冑は、そなた自身の手で仕留めた獅子の皮でできていると聞くが、それは真か?」
「如何にも」
「これは心強い」
エウリュステウスは手を叩く。
「実は我らも獅子の害に苦しんでおるのだ。ネメアの森に獰猛で強靱な人食い獅子が棲んでおってな、旅人の往来の妨げとなっている。人里に現れて近くに住む者達を襲っているとも聞く。退治をしようと勇気ある若者が何人か森へ入っていったが、彼らのうち帰還した者は一人もいない。手を出せずに泣き寝入りしている状態なのだ」
ヘラクレスは神妙な面持ちでエウリュステウスを窺っている。
「名にし負う獅子狩りの英雄ヘラクレス。我がミュケナイの民のため、そなたにその獅子を討ち取ってきてもらいたい。無論、生け捕りではなくその息の根を止めよ。そしてその成果として、皮を剥いで持ち帰るのじゃ」
十分な大義名分だろう。しかし成すべきことは危険極まりない。ネメアの獅子は怪物テュポンから生まれたという噂もある。失敗して命を落とすことになっても、何ら不思議はない。
怖じ気づいて逃げ出すか? 否、この男はその程度のものではない。もっといたぶり甲斐のある男だ。エウリュステウスは快い返事を期待した。
「謹んで、お受け致します」
そして期待通り、ヘラクレスは抵抗の言葉などは一切漏らさず、粛々と己の運命を受け容れた。