(十六)
エウリュステウスは頭を抱えていた。
無論、文字通り頭を抱えた姿を見せているわけではない。外向きにはいつも通り、酷薄な笑みを浮かべて権力を恣にする君主として君臨している。しかし内心では、これから自分の元にやって来るという罪人のことで悩んでいた。
彼は、自分の妻子を殺した咎で国を離れ、罪の償い方についてデルポイで神託を得たという。それはティリュンスへ住み、王が命ずることを遂行せよ、というものであると聞く。
単なる罪人ならば何も気負う必要などない。気になる理由は唯一つ、己の縁故の者であるからだ。
今は神より賜った名を名乗っているらしいが、かつての名はアルケイデス。エウリュステウスと同じくミュケナイ王家の血筋の者だ。
ミュケナイ王家の始まりは英雄ペルセウスである。
ゼウスが人間に産ませし半神である彼の英雄は、妻アンドロメダとの間に七人の子をもうけた。七人のうち一人はペルシアに残され、五男一女はギリシアで生まれ育った。男子が多いというのは、血統を守るという点から見れば幸いなことだ。しかし、当人達にとっては必ずしも幸福とはいえない。何故なら、王となり得るのは一人であり、順位は違えどペルセウスの血を引く以上は、彼ら全てに王位を継ぐ権利があるからである。順位が上の者は誰かが己を殺して王位を奪うのではないかと危惧し、下の者は己が王位を勝ち獲ることができるのではないかと策略する。建国の英雄がその座を去った後には、血を分けた肉親の間でそのような争いが起こり得る。
そして実際に、エウリュステウスの父ステネロスは、ミュケナイ王の地位をその手で奪い取ったのだ。
ステネロスは、そのとき王であった兄弟の死を利用して、次に王として指名されるべき立場にあった甥に弑逆の罪を被せ、存命中のペルセウスの息子達の中で最も年長者であるということを理由に強引に玉座に着いた。そのような父からエウリュステウスが学んだことといえば、権力とは狡猾さの下に維持されるということである。故に自身も、この王位を害する可能性のある者共は権謀術数をもって排してきた。そうすることで、ミュケナイの統治は安定する。エウリュステウスにとって、玉座にしがみつくのは国のため、国を守るのは己の玉座のためであった。
それなのに、エウリュステウスとは真逆のやり方で権威を手にしたのだ。これからここへやって来るヘラクレスという男は。
ヘラクレスはエウリュステウスの父が追放したアムピトリュオンの長子である。アムピトリュオンはステネロスの前のミュケナイ王エレクトリュオンの娘婿で、先王アルカイオスの息子であった。エレクトリュオンから己の後継に指名されようとしていたアムピトリュオンであったが、ほとんど事故ともいえる状況でエレクトリュオンを死なせてしまう。エレクトリュオン殺害の咎でアルゴス全土を追われたアムピトリュオンはテーバイへ逃れ、そこでヘラクレスは生まれ育った。生まれたのはエウリュステウスが生まれた時間とそう変わらないらしい。父からそのような縁者がいると聞かされていたエウリュステウスは、いつか彼が王位を奪い取りに来るのではないかと恐れていた。元々は彼が手にする筈だったものだ。取り返そうとしたって何らおかしな話ではない。しかし、己が既に享受しているものを易々と明け渡してしまえるほど、エウリュステウスは諦めの良い人物ではなかった。故に、彼がアルゴスの地を踏む前にそれを阻止するために、エウリュステウスはテーバイでのヘラクレスの動向に注意していた。
初めの頃は武勇に優れ、彼らの祖の英雄も斯くやという傑物ぶりであったが、歳が十を超えてしばらく経った頃、竪琴の師を殺してしまったらしく、そのためか人里で姿を見かけることもなくなってしまった。ヘラクレスの噂が聞こえてこなくなり、エウリュステウスは内心で安堵していた。それからは、己を脅かす影に怯えなくて済んだ。
エウリュステウスがティリュンスの堅固な城壁の内で自由を謳歌していた頃、彼は再び、唐突に現れた。
王家の跡目争いで疲弊したところに隣国からの圧力をかけられ弱体化しきっていたテーバイを、ヘラクレスが勝利に導いたという報せが届いたのだ。
エウリュステウスは焦った。すっかりなりを潜めていたヘラクレスが戻ってきた。しかも、ペルセウスの後裔に相応しい武勲を立てて。その上テーバイではその功績を讃えられて、王の娘を娶ったという。常人には遂げられぬ偉業でもって人心を集め、権威を得たのだ。対してエウリュステウス自身はどうだ。何の成果もなく、宮殿で安穏と過ごしているだけだった。奴とて同じだろうと思っていたのに、いつの間にか影の方が大きくなっていた。
愈々ヘラクレスがミュケナイへ攻めてくるのでは、とエウリュステウスは恐れた。
しかし、ヘラクレスはやって来ないまま、幾年かが過ぎた。その間に父は死に、エウリュステウスが王位を継いだ。無論、何の努力もなく、先王ステネロスの長子であり王となるにおかしくない年齢であるというだけの理由で、その座を得た。故に、エウリュステウスは如何にして自身が王の位に在り続けるかということに注力した。苛政を敷いて宮中の権力者達を抑え付け、何か一つでも非があれば処罰し、己に従わぬ場合には粛清した。誰もエウリュステウスに逆らう者はいなくなった。
王としてエウリュステウスの統治も安定してきた頃、テーバイからミュケナイ王家の者だという客がやってきた。
ヘラクレスにばかり気を取られていて忘れていたが、アムピトリュオンの息子は双子であった。一人はヘラクレスことアルケイデス。もう一人はイピクレスといった。弟のイピクレスが遙々ティリュンスへやってきたのだ。
何の用かと訝りながら相手をしてみると、自分達兄弟のミュケナイ王家への復権を要求してきた。エウリュステウスの下で王家のために奉公したいとイピクレスは言ったが、その本心は別のところにあるとエウリュステウスは直感した。この弟は兄を絶対的に信奉し、崇拝している。兄のことを語るその眼差しを見れば、如何に表情を抑えていようと明らかだ。宮中の者共の腹芸を見慣れてきたエウリュステウスの目は誤魔化せない。つまるところ、イピクレスは兄をミュケナイ王にするつもりでいるのだろう。そうなれば、エウリュステウスは王でなくなってしまう。王でなくなった自身など、エウリュステウスにとっては何の価値もない。己が王であることを脅かすものは須く排除する。宮殿の中で続けてきたやり方をここでも貫くだけだ。
テーバイで戦果を上げてから今まで何の動きもなかったことから察するに、兄の方にはエウリュステウスから玉座を奪い取る気はないのだろう。あくまでもこの弟の方が、己の英雄を王に仕立てたいのだ。ならば兄と弟を離れさせておけば良い。エウリュステウスはイピクレスのみをミュケナイ王家の一員として認め、重臣として手元に置くことにした。
あのときは、それで済むと思っていた。
例えヘラクレスが弟を取り返しに来たとしても、イピクレスは捕虜として扱われているわけではないのだから、私怨でテーバイの兵力を動かすことは出来ぬだろうし、いくら武勇に優れているとはいえ、単騎で強大なミュケナイ一国の兵力に太刀打ち出来るとは思えぬ。弟との再会は泣き寝入りするか、無謀に攻め入って自滅するかのどちらかしかなかろうという目算だった。
しかし実際には、エウリュステウスの目算のどちらでもない結果が待っていた。
ヘラクレスは狂気に襲われ、己の妻子を殺し、テーバイを追われた。そしてデルポイで神託を得て、罪人として罪を償うためにミュケナイへやって来る。しかも償いの方法はエウリュステウスが与えるという。
攻めてくるのでなければ、打ち払うことも出来ない。神によってエウリュステウスの下で償うよう定められているならば、黙って殺すことも出来ない。
ついにヘラクレスがミュケナイの土を踏んでしまう。
幼い頃から恐れたあの男が、己の前に現れようとしている。
やっとこのティリュンスの宮殿の中で、自分だけの居所を得たというのに、この期に及んで己が怯え続けた影と対峙せねばならないのか。
自分が神に愛されているとは思わないが、こうなると呪われているのではないかと疑ってしまう。
「陛下。お呼びでしょうか」
思案していたところにかけられた声に、エウリュステウスは顔を上げる。
そこには、呼び出していた新参者の廷臣がいた。
「おお、イピクレスよ。そなたに良い報せじゃ」
エウリュステウスは口の端を歪めてイピクレスを手招いた。
かつて兄のことを語っていたときの目の輝きはすっかり失せて、今はエウリュステウスへの畏怖のみが映る。完全に自分の支配下に落ちた様を見ていると、沈んでいた気分が高揚してくる。
「そなたの兄が間もなくここへやって来るぞ」
イピクレスは瞠目し、固まった。
「あの男が何をしたかそなたも知っておろう? その罪の償いを監督する役を余が大神ゼウスから仰せつかったのだ」
「誠に――ございますか」
「一体如何にすればそなたの兄の罪を雪いでやれるかのう? 何せ妻と子を殺したのだからな。並大抵の罰では足りぬであろう?」
「どうか寛大なご処置をお願い申し上げます…」
「ならぬ!」
エウリュステウスは一喝してイピクレスの願いを切り捨てた。
「神により与えられたお役目ぞ? 手抜きなどすれば我が国に災いが降ってくるやもしれぬ」
イピクレスは何も言わず俯いた。
「そなたの兄は並外れた能力を備えた人物だと申しておったのう? ならば、常人には遂げられぬ難業を課さねば到底償いにはなり得まい」
そうだ。真に英雄だというのなら、どこまで出来るか見せてもらおうではないか。途中で命を落とせばそれまでだし、完遂すれば神々の望む通り罪人でなくなるだけのことだ。この椅子は決して渡してやるものか。
エウリュステウスは嬉々としてヘラクレスの到着を待った。