(十五)
「やあ。また会うたな」
真実を照らす太陽神に見えるのはアルケイデスにとって二度目である。向こうもそのことは承知しているらしく、その証拠に「また」と口にした。
「貴方が俺をヘラクレスと呼んでいると聞きました」
「ああ。それは確かにそなたの名だ」
「いつそのような名前を戴いたのか、覚えがありません」
「では、今このときよりヘラクレスと名乗るがよい」
「そのように大層な御名、俺には不相応です」
アルケイデスが固辞するのも無理はない。何しろ、ヘラクレスとはゼウスの妻である女神ヘラの栄光を意味するからである。罪人である己が名乗る筋のない立派な名前だ。
アポロンは不敵に笑んだ。
「それはそなたがそなた自身を知らぬからそう言うのだ。まあ言うても解らぬかな。では、私は予言としてこの名をお前に授けよう」
「予言?」
「然様。ヘラにより苦難の運命を与えられた男が、自らの力により栄光を勝ち獲るのだ」
アポロンの言葉は真理である。今の自分には到底理解できない言葉だが、アルケイデスはひとまず心に留めておくことにした。
「貴方の仰せの通りにしましょう。俺は何者にも逆らえる立場にはないのですから」
アポロンは満足げに頷くと、新たな道を示した。
「さて、そなたをここへ連れてきたのは私が会いたいからではないのだ。そなたに会いたいという方のたっての願いでな」
「一体誰が俺などに会いたいと?」
「そなたの父さ」
己の父。それが育ての父のことでないとヘラクレスはすぐに解った。
「会って詫びたいのか裁きたいのか知らないが、父親の情というものはあるらしい。お前も父親であったのだから、解るかな?」
父親、と言われてヘラクレスの思考は停止する。
愛する我が子はもう死者の国へ行ってしまった。他ならぬ己の手によって、呼ばれもしない冥府へと健気な命を投げ遣った。今再び、彼らに会えるとしたら。
テリマコス。クレオンティアデス。デイコーン。
末期の我が子らはどんな顔をしていたろう。
正気を失っていたヘラクレスは思い出そうとしても思い出せない。己が手にかけたというのに、何一つ思い出せない。思い出せずに焦る度、己自身が憎くなる。まるで我が子を殺した自分と失った自分とは別人であるかのようだ。己の心の中で狂気と理性が乖離していく。その両極が開いた穴にどんどんと落ちていく。
理性が勝る今は、愛する家族の命を奪った罪人を憎む気持ちの方が強い。しかし、その罪人が自分自身であるということが、己のこととして受け止め切れていない。何せその瞬間の記憶がないのだ。目撃者がいるから事実だと理解してはいるものの、本当に己がやったのか? 実は自分は潔白なのではないか? そう思う気が全くないと言えば嘘になる。どこかで己の罪は夢であって欲しいと願いながら、あの無惨な亡骸を思い出し、やはり己がやったのだろうと認めざるを得ない。そんな堂々巡りを繰り返す。
ヘラクレスの瞳が翳ったのを見て取ると、アポロンは憐れな罪人の身体に縄をかけた。
「今のそなたには似合いの装いだろう」
目映いばかりの光を纏う太陽神は、愉しんでいるようにも嘲笑っているようにも見える。
どうせ神にとってみればその程度の身の上だ。ヘラクレスは項垂れ、目を閉じた。
「ヘラクレス」
名を呼ばれ、面を上げる。
いつの間にか、また知らない場所に来ていた。眼前には威厳をそのまま形にしたような壮年の男がいて、ヘラクレスを見下ろしている。
見知らぬ男だ。沈痛な面持ちでいるのは何故だろう。
「我が妻ヘラのしたことは詫びても詫び切れぬ。つまらぬ嫉妬に駆られ、お前に最も深い悲しみと苦しみを負わせてしまった。儂も一人の父親だ。妻子を失う苦しみは痛いほどよく解る。お前がこの世の誰よりも強く己の罪を悔いていることもな」
男の言葉は音として耳に入るが、それが意味を成すのには時間がかかった。ヘラクレスは彼が語る言葉が真実であることを直感していた。だからこそ、その真実を聞きたくないのだ。
「アルクメネが産みし我が息子ヘラクレスよ。お前には辛い運命を背負わせた。儂がそなたに授けようとしたミュケナイ王の位は我が妻ヘラによってエウリュステウスに与えられた。生まれてからはヘラがお前の寝床に蛇を嗾けて殺そうとした。育つうちに神の血は目立つようになり、御しがたい力のせいで人間達からは避けられた」
自分がゼウスの奥方からそれ程までに憎まれていたなど知らなかった。
その原因も己の父がゼウスだったからだというのか。生まれるそのときから呪われていたのか。
「それでもお前は己の力で人の中に居場所を得た。位こそないが、お前が幸福であれば儂はそれで良いと思っていた。これ以上何も与えようとはするまいと、そっとしておいてやろうと、そう思っていたのだ。だが、やっと救われた孤独すら、我が妻は許すことはなかった」
ヘラは婚姻を司る女神だ。正妻としての立場を蔑ろにされて生まれた子がのうのうと生きているのは我慢ならなくて当然だろう。ヘラクレスはどこか他人事のように、事の経緯を虚ろな眼差しで聞いていた。
「ヘラはお前に人の親として最大の苦しみを味わうよう仕向けた。この上ない絶望と孤独の淵へ追いやろうとした。お前自身にお前自身の幸福を奪わせた」
そう。己の手が、己の大切なものを壊した。
男の言葉を客観的に肯定しようとしたヘラクレスだったが、意に反して身体はがたがたと震えを起こす。
見た覚えのない映像が脳裏に蘇ってくる。
信じられないような残酷な光景だった。戦場でないのに戦場にしかあるべきでないこの有様は何だ。乱れ飛ぶ血飛沫と暴力的に壊されていく室内。逃げ惑う幼子達。そして縛られている両手には、小さな頭蓋を打ち砕いたときの感触までもがまざまざと。
「噫、噫――」
誰がそれをやったかなど、訊くまでもない。
己自身が、一番よく知っている。
今すぐ、耐え難い罪を犯した男を殺さなければ。
ヘラクレスは喚きながら己を縛る縄を引き千切らんと身体を奮わす。
衛士が飛んできてヘラクレスを押さえ付けようとするが、邪魔だとばかりに身を捩って弾き飛ばす。
「あのときお前は正気ではなかったのだ。ヘラがお前を憎んで呪いをかけ、そのために錯乱状態に陥ったお前は――」
「――それでも!」
天空を統べ、全ての真実を知るゼウスをヘラクレスは必死の形相で睨み付けた。
「それでも俺が殺したんだ! 俺の妻と子を!」
誰が我が子を殺したのか、この身をもって思い知った。裁かれるべきこの身を、ヘラクレス自身を、今すぐ縊り殺してやりたい。
「ではお前は自分の罪を認め、罰を甘んじて受けると言うのだな」
「そうです。何の償いもしないまま生き続けるなんてことは、俺には出来ない。償いの道があるなら、教えて下さい」
さもなければすぐにでも己を殺してやる。鬼気迫る表情で訴えるヘラクレスに、ゼウスも憐憫の情を捨て、裁定者の顔で頷いた。
「解った。その覚悟があるのならお前に命じよう。ティリュンスの王、エウリュステウスに仕えるがよい。彼がお前に、お前の罪を雪ぐに相応しい業を与えるだろう」
エウリュステウス。弟イピクレスを人質に取り、ヘラクレスに臣従するよう迫った男。彼に頭を垂れるなど屈辱以外の何物でもないが、今のヘラクレスはそれより深い絶望しか持ち合わせていないのだ。己を恥じるだけの誇りもありはしない。目の前に許された一つの道を往くしかない。
ヘラクレスは額が地を擦るほど深く辞儀をして、己の罰を受け入れた。




