(十四)
テーバイからデルポイへ至る途中には、テスピアイがある。
この国を訪れるのはアルケイデスにとって二度目である。一度目は、テーバイでオルコメノス軍を撃退する前のことだった。父アムピトリュオンが所有する牛を食い荒らしたキタイロン山の獅子を退治するときに立ち寄った。テスピアイ王の牛も同様の被害に遭っていたので、獅子を退治したアルケイデスはその功績を讃えられ王テスピオスに歓待された。しかし、そのときの印象があまりよくなかったので、アルケイデスは少し沈んだ気分でテスピアイに足を踏み入れた。
なるべく早く通過してしまおうと思っていたが、人々は妙に騒がしい。
獅子の甲冑姿のアルケイデスを見て、テスピアイの人々はすぐにそれがかつて自国を助けた英雄だと気付いたのだ。この世に二つとない獅子の甲冑は、テスピアイ王がアルケイデスの戦果を讃えて拵えさせたものであり、その逸話は未だにテスピアイ人の間で語られていたからである。
足早に先を急ごうとするアルケイデスの前に一人の男が立ちはだかった。
「もし。貴方様はテーバイのアルケイデス様とお見受け致します」
アルケイデスは無表情に頷くだけで返す。
「我が主、テスピアイ王テスピオスが館にお招きしたいと申しております」
アルケイデスは頭を振った。
――ありがたいお申し出なれど、私は先を急いでいる。
「なればこそ、旅の疲れを取って行かれませ」
アルケイデスは尚も首を振る。
――私は罪人だ。もてなして頂くに価しない。
「では我が王が清めを行いましょう。その足で向かわれるとすればデルポイでしょうし、神域に立ち入られるならば、せめて人を殺めた罪は清められた方が賢明です」
どうやらアルケイデスが犯した罪については既に近隣の国まで噂が拡がっているらしい。よく見てみると、遠巻きにひそひそと話している人々の目は、英雄の再訪を喜ぶというより、自国に災いが持ち込まれないか恐れているようだった。
このまま何もせずにテスピアイを去っても、却って人々の不安を煽るだけだろう。大人しく清めを受けた方が良さそうだ。
アルケイデスは観念してテスピオスの館へと連れて行かれた。
「久しいな。アルケイデスよ」
記憶と違わぬ脂ぎった顔とぎらついた目でテスピオスはアルケイデスを出迎えた。
「そなたが罪を犯したことはこのテスピアイまで聞こえておる。確かにそなたの罪はひどく重いものだろうが、儂はそなたの剛毅を大いに評価しているからな、デルポイに行き再起のための導きが得られることを願っているぞ」
呵々と笑ってテスピオスはアルケイデスの肩を叩いた。
アルケイデスは何故この男が笑っているのか理解できぬまま、清めの儀式を受けた。儀式の後、テスピオスに泊まっていくよう勧められたが、テスピオスの恩をこれ以上受けたくなかったのと、休む暇があれば一歩でも先へ進みたかったので、アルケイデスは勧めを固辞した。出立のとき、見送りに出てきたテスピオスの娘達が皆、幼子を連れていたのが目についた。年齢は同じくらいの子ばかりで、不思議とアルケイデスに似ているところが、自らが手にかけた息子達を思い出させる。込み上げる辛苦を振り払い、テスピアイで殺人の罪を清められたアルケイデスは一路デルポイを目指した。
太陽は天高くじりじりと大地を焼き、アルケイデスの肌も焦がす。
汗が滲み玉となって流れていくが、構わない。
喉は渇くが、休む気は起きない。
一刻も早く、断罪して欲しい。
その一心で歩き続けた。
テスピアイを立って一日近く経った頃、アルケイデスの眼前に灰色の山が迫っていた。パルナッソス山だ。あの山を越えれば、デルポイの神殿に着く。
半神にして武勇の誉れ高い英雄といえど、休息せずに身体に鞭打てば障りが生じる。心身共に限界が近付いていたが、連なる稜線を見ると鼓舞される。
最後の力を振り絞ってパルナッソス山の南麓に辿り着く。
既に夜。闇の中に、月明かりに照らされ聳える柱が浮かび上がる。
上を見て歩くことすらできぬ程に疲弊しきっていたアルケイデスは、やっとの思いで顎を上げた。
――嗚呼、やっと。デルポイのアポロン神殿。我が罪を裁き、真実を与え給え。
アルケイデスはその場に膝を着く。息をするので精一杯だ。神殿を前にした安心からか、再び立ち上がることができない。
ふと、草と砂を踏む音がした。頽れるアルケイデスに近付いてくる。
既に瞼を持ち上げる気力すらないアルケイデスには、相手が何者かも判らない。敵か、味方か。人か、獣か。
突然、無防備なアルケイデスは両脇を抱え上げられた。人だ。男が二人、アルケイデスの肩を担ぎ、運んでいる。そのまましばらく進むと、今度は身体が宙に浮いた。かと思うと、盛大な飛沫を上げ、水の中へ放り出される。泉に投げ入れられたようだ。
清らかな水に浸かっていると、全身の乾きが癒やされる。そして何故だか、己の罪を恐れ、荒んでいた心が鎮まっていくようだった。一頻り水中にいて己が清められたのを確かめたアルケイデスは水上へと戻る。自ら岸へ上がることができるほど、体力は回復していた。
男達は泉から這い上がったアルケイデスの身体に真新しい衣を纏わせていく。恐らく彼らはこの神殿の神官なのだろう。
「神殿の中へ。巫女がお待ちです」
アルケイデスは頷くと、松明に照らされた神殿の内部へと導かれた。
仄かな明かりの中を進んだ最奥の部屋に、月桂樹の枝を髪に差した巫女が座す。
嗅ぎ慣れない匂いが充満しており、軽く頭に靄がかかる。
アルケイデスの姿を見るなり、巫女は微笑んだ。
「よく参られました。ヘラクレス」
アルケイデスは眉を顰めた。
「貴方は今、私を呼んだのか?」
「異なことを。この部屋には貴殿と私しか居りませぬ」
「私の名はアルケイデスだ。そのような大層な名をつけられた覚えはない」
「しかし私はつい先程、我が君がそのように貴殿を呼ぶのを聞きました」
アポロンが? アポロンには一度会っている。ならばアルケイデスの名を間違えることなどなかろうに。
「それで、貴殿は何を知りたいのですか?」
「私はこれからどうすれば良いのか。受けられる罰があるなら受けたいと思っている」
「よろしい。では、神託を授けましょう。しかし、貴殿は特別なお方。私が言葉を授けるよりも先に、神々が直接語りかけることもあるかもしれませんね」
巫女は意味深に笑むと、床から煙が吹き出している場所へ移動した。
煙を吹く穴の上には鼎が備え付けられている。その上に巫女は腰掛けた。目を閉じ、深く息を吸い、吐く。それを見守るアルケイデスも自然と巫女の呼吸に同調していた。すると間もなく、巫女の頭が激しく上下に揺れ始めた。口吻から泡を飛ばしながら、意味の読み取れない言葉を唱えている。不規則に強弱のついたその節回しに乗せられて、アルケイデスの意識は混濁していく。
己は誰だ。アルケイデス。テーバイに名を馳せし英雄。母はアルクメネ。父はアムピトリュオン。妻と子を殺した哀れな男。真実を知らぬ愚かな男。母はアルクメネ。父はゼウス。苦行を成し遂げ不死となるべき半神。
――そなたこそ、ヘラの栄光。




