(十三)
柱に縄で括り付けられ、英雄は眠っている。
その周りには、アテナにより鎮められた狂乱の残骸が散らばっていた。
四人の骸だけは、別室に移して並んで横たえてある。
目が覚めて、これを見たら、彼は何と言うだろう。
温和しく眠る英雄を見下ろしながら、イオラオスはアルケイデスがこの先向き合わねばならない運命を思い、心を痛めた。
小さく呻き声がしたかと思うと、アルケイデスが身動いだ。
「伯父上、お気付きですか」
「イオラオス? これは一体どうしたことだ? どうして私は縛られているのか?」
「やむを得ず、このようなことをさせて頂きました」
「やむを得ず? 如何なる事情の故だというのだ?」
ああ、やはりこの人は何も覚えていないのだ。今はイオラオスの言葉が届いている。先程までの狂気の支配から解放され、理性を取り戻している。しかし、だからこそ、真実を告げるのは辛い。
「伯父上ご自身のご乱心の故にございます」
イオラオスの言葉にアルケイデスは怪訝そうな表情をし、次いで己の身体についた汚れを見て青ざめた。
「この血は誰のものだ? 私は傷を負っていない。私がエウリュステウスの使者を殺めたときにも返り血は然程浴びなかった筈だ」
伯父の問いにイオラオスは答えることを躊躇う。しかし今更伝え方を考えたところで、事実は変わりはせぬ。ならば真実を告げることが生き残った自分の果たすべき務めだろう。
「貴方のご子息達、そして貴方の奥方様の血です」
アルケイデスは絶句した。
まるでメドゥーサに睨まれて石と化した人のように、アルケイデスは絶望を露わにしたまま固まってしまった。かける言葉もなく、イオラオスもその場に立ち尽くした。二人の間に沈黙だけが残っている。そのまま幾何の時が経ったのか、俄にアルケイデスが口を開いた。
「亡骸は何処に?」
「あちらの奥の間に」
アルケイデスが扉を壊して中に隠れていた妻子を射貫いた部屋だが、流石にそこまでを教える必要はなかろう。
「縄を解いてはもらえないか。私が恐ろしいと言うなら、両手は縛ってくれて構わない」
今のアルケイデスに暴力性は感じられない。解き放ったところで、誰かに危害を加えることはないだろう。家族の姿を確かめたいという意図を汲んで、イオラオスは伯父を自由にしてやる。
アルケイデスは立ち上がると、扉のなくなった部屋へ直行した。
イオラオスはその背を目で追うに留める。アルケイデスの妻子は自分にとっても肉親だ。肉親の無惨な死に様を何度も目の当たりにする気にはなれなかった。
部屋の入り口に差し掛かり、アルケイデスは嗚咽を漏らし頽れた。その声にイオラオスの目頭も熱くなる。
何故このような酷いことが起きてしまったのか。
己の力では止められなかったのか。
他に何か手立てはなかったのか。
出てくるのは後悔と自責と悲嘆ばかりだ。
伯父の背中を見ているのが辛くて目を逸らそうとしたところで、イオラオスは別の者が同じ部屋にいることに気付く。
「クレオン王…」
アルケイデスが手にかけた家族のもう一人の血縁。テーバイの統治者であり、メガラの父親であるクレオンが立っていた。
「報せが来たときには到底信じられなんだが、どうやら本当だったようだな」
娘の死と孫の死。恐ろしくも逃れられない事実を伝えようと、アルケイデスが眠るとすぐに、イオラオスが王宮に伝令を遣わしたのだ。この国を救った英雄が犯した罪は、まずこの国の長に報せるべきだと判断した。そして同時に、肉親の死を報せねばならないとも考えたからだ。
「やはり、我が王家の呪いは解けてはいなかったか」
クレオンは一人呟くとアルケイデスの傍らまで行き、悲しみに震える肩へ声をかけた。
「アルケイデス。今は嘆くだけ嘆くが良い。己の罪の深さはそなた自身が一番よく解っていよう」
「義父上…私は一体どうしたら良いのでしょうか?」
「そなたは己の妻子を殺した罪人として裁かれる。ただし、裁くのは私ではない。神々だ」
「神々?」
アルケイデスは瞠目した。
「そなたの狂乱を止めたのは女神アテナだと聞く。ならば神々が此度の原因について何かご存知であろう」
「この期に及んで神々に頼らねばならぬのですか」
「致し方あるまい。そなたの身体に流れる血の半分は神のもの。人間の手によってのみ裁くことは恐れ多くてできぬ」
「…ご存知だったのですね」
「そなたの父上から聞かされていた。イピクレスは自身の子だが、アルケイデスはゼウスの子だと」
イオラオスは漏れ聞こえてきた二人の会話に耳を疑った。伯父がゼウスの子だと。そのようなことがあり得るのか。しかし彼の常人離れした能力を思えば、合点がいく。
「己の運命を受け容れよ。かつて我が娘がそなたのことをこう言っていた。如何なる真実であっても恐れないで受け容れ、立ち向かう男だ、と」
クレオンの言葉にアルケイデスは再び涙した。一頻り泣いて、すくと立ち上がる。
「妻と子の弔いをお願いします。私には彼らに土をかけてやる資格がありませんので」
「相解った」
「それで、どちらへ参れば神々の裁きを受けることができましょうか」
「デルポイへ。かつて私の甥も己の運命と向き合った地だ」
アルケイデスは無言で頷くと、すぐに支度をして出立した。




