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獅子譚  作者: 毛野智人
12/20

(十二)

 伯父の元に預けられてから、イオラオスは幼い従弟(いとこ)達に慕われる日々を過ごしていた。

 父であるイピクレスが兄よりも早く結婚していたので、イオラオスが生まれたのはアルケイデスが子を成す前のことだった。丁度、アルケイデスがオルコメノス軍を撃退した頃だったと聞く。幼い頃から伯父の武勇を聞かされ、イオラオスは自ずとアルケイデスを尊敬し、憧憬していた。

 側近くで接していると、益々憧れは強くなる。

 心は大きな体躯と同じくらい大きく、子供達には特に優しい。甥であるイオラオスのことも実の子と同じくらいに愛でてくれる。

 自分もこんな男になりたい。そう思わせてくれる初めての大人だった。

 実の父親を差し置いて伯父に憧れるというのも()()しな話かとも思うが、父なら納得してくれるような気がする。イオラオスの目には、英雄アルケイデスの一番の信奉者は父イピクレスであるように映っていたから。兄のことを語るときの表情は、誰より誇らしげだった。だから、イオラオスがアルケイデスのようになりたいのだと告白したとしても、憤慨などせずに認めてくれるに違いない。

「もし」

 イオラオスが館の庭を歩いていると、声をかける者があった。振り返れば、壮健な男が居る。彼の土埃に汚れた足から、長い道程を経てここへ辿り着いたのだろうと思われた。

「何でしょう?」

「アルケイデス殿はおいでになるか」

「失礼ですが、貴方様は…?」

「ティリュンスのエウリュステウス陛下よりご伝言を預かって参りました」

 ティリュンスといえば、父イピクレスが向かった先である。王家への復権を願い出るべく出立したが、その成果が出たのか。

「伯父上の許へお連れしましょう。どうぞこちらへ」

 イオラオスはティリュンスからの使者を伴って館の中へと急いだ。

「伯父上! 伯父上はいらっしゃいますか!」

 忙しない足音を響かせて廊下を進む。

「何事だ、イオラオス」

「伯父上、エウリュステウス王から伝令が!」

 イオラオスは目を輝かせてアルケイデスに客人を取り次ぐ。しかしアルケイデスの表情は曇った。

「何故イピクレス本人が戻ってこないでわざわざ伝令を寄越すのだ」

 イオラオスは伯父の言葉にはっとして伝令の男を振り返る。

「イピクレス殿は我が主に従うと仰せになりました。それ故、今後はミュケナイ王家の一員として、エウリュステウス陛下のお側にお仕えすることと(あい)なり申した」

「私の許にはもう戻らないと、イピクレスが自らそう選んだというのか?」

()(よう)にございます」

「嘘だ。イピクレスが私の側を離れることなどあり得ぬ」

「兄弟揃ってミュケナイ王家のために尽力したいと仰ったので、まずはご自身がそのご意思を示さんとしてティリュンスに留まることを選ばれたのです。故に、あとは貴方様がティリュンスのエウリュステウス陛下の許へ赴き、忠誠を誓って頂ければ、イピクレス殿の切願は叶いましょう」

「つまりは人質ということだな」

「受け取り方は()()(よう)にも」

 イオラオスはすぐに父の成功を期待した自身の軽率さを恥じた。確かに、何の問題もなければ今頃父自身が成果を報告しに戻ってくる筈だ。それがないのは何か事情があるのだ。そして今回の実情は、伯父が言うように父がティリュンスに囚われていると考えるのが妥当だった。

「私は王位には興味がない。王の資質というのもよく解らぬ。不正なく正統に継承された王位ならば認められて当然だと思っている。しかし今回ばかりは、エウリュステウス陛下が王であって良いものかと疑わざるを得ない。私を(ひざまず)かせるために、単身訪れた親族を餌にしようなどと、一国の――しかもミュケナイのような強大な国の王が考えるにしてはあまりに卑しい」

「王を侮辱なさるか」

「侮辱? 私はただ(まこと)のことを言っているだけだ。お前達の王は敬服に(あたい)せず」

「では帰って陛下にお伝えしましょう。咎人アムピトリュオンの息子達のうち、兄君には臣従の意思なし、と」

「遠路遙々ご苦労だったが、残念ながらお前が主人に報せを持ち帰ることはない」

 アルケイデスは緩慢な動作で席から立ち上がり、側に備えていた剣を抜いた。

 ティリュンスから来た伝令は微動だにせず、その様を見つめていた。恐らくそれは、彼自身の能動的な選択からではなく、恐怖が一切の動作を禁じていたからだろう。イオラオスもまた、恐怖によってその場から逃げ出すことができなかった。それほどまでに、アルケイデスが全身から放つ殺気と威圧感は凄まじかった。

「お前をこのまま帰らせては、イピクレスが無事でいる保証がないからな」

「噂通りの野蛮人だ」

「何とでも言うが良い。実力ではなく権力で人を従わせようとするのは人間だけだ。獣にも劣るそのような行為をせねば同類として認められぬと言うなら、私は人間になどなりたくはない」

 アルケイデスは構えた剣を直截に伝令に向けて振り下ろした。伝令は逃げ惑うことすらできず、鮮血を吹き上げて倒れ込む。アルケイデスは溜息を吐き、壁際で縮こまっていたイオラオスに目を向けた。

「すまない。イオラオス。そなたの伯父はこういう男なのだ。恐ろしいか?」

 イオラオスは何も答えることができない。初めて人が死ぬのを目にした。しかも彼を殺したのは、自分が憧れた男だ。イオラオスはただアルケイデスを仰ぎ見る。震える甥の瞳を怯えと取ったか、アルケイデスは肩を落とし、イオラオスに背を向けた。

「――なんてこと!」

 そのとき、女の悲鳴が客間に響き渡った。

 騒ぎを聞きつけて様子を見に来たのだろう、アルケイデスの妻メガラが部屋の入り口に立ち尽くしている。

「あなた、これは一体どういうことなのです…?」

 アルケイデスは足元に横たわっている男を見遣り、答えた。

「ミュケナイからの伝令だ。見ての通り、俺が殺した」

「どうしてそのようなことを」

「エウリュステウスがイピクレスを捕らえたらしい。目的は俺を屈服させることだ」

「…()の王の卑怯さに我慢がならなかったのですね」

 メガラが確認すると、アルケイデスは頷くと同時に(うな)()れた。

「貴方がそういう方であることは承知していた筈ですのに、平穏な日々の中では忘れてしまいがちですわね。さあ、まずはその御手と館を清めましょう。それから、ミュケナイ王にどのように挑まれるのかお聞かせ下さいませ」

 メガラは覚悟を決めたような表情で部屋を後にした。

 イオラオスは再びアルケイデスに目を向ける。血に染まった剣を拭うこともせず、そのまま茫然と佇んでいる。

「やはり俺は人間ではいられぬか」

 独り()ちたその声は、今まで見た伯父のどんな姿とも相容れない。実に哀れであった。

 英雄と呼ばれ、強く優しい父親、伯父であったアルケイデス。しかし、さながら今は、群れに馴染めぬ獅子のように孤独で、寂しげだ。

 アルケイデスが迷いなく人を殺めたときは確かに恐ろしかった。しかし今、己の所業を悔いるその様は、恐いと感じるどころか同情してしまいそうだ。アルケイデスが伝令を殺めたのは、ミュケナイ王からイピクレスを守ろうという心から出た結果だ。それはまだ年若いイオラオスにも解った。それならば彼がその行為を悔いる必要などないではないか。むしろ甥であるイオラオス自身が、彼に感謝し、彼を肯定すべきではないのか。

 イオラオスは伯父の寂しげな肩に声をかけようと一歩踏み出した。


 そのとき、激しく風が吹き込んできた。


 あまりの風の強さにイオラオスは足を止め、目を固く(つむ)った。

 やっと風が止んだかと思って目を開ける。寸前と変わらず伯父の背があったが、様子が違う。

「伯父上…?」

 わなわなと身を震わせ、息も上がっている。

「今すぐに清めなど必要ない。一度清めたところで、この手はすぐにエウリュステウスの血で穢れてしまうではないか」

 不気味に笑いながらそう呟くと、アルケイデスはちらと視線を背に向けた。目が合ったイオラオスは、瞬時に何かがおかしいと悟った。

「おお、イオラオス! お前の父を救出しに行くぞ。共に裏切りによる王位を継いだエウリュステウスを討ち果たそう」

 視線はイオラオスを向いているものの焦点は定まらず、眼は血走り、口からは興奮のあまり泡が漏れて顎髭を濡らしている。

「伯父上、どうか落ち着いてください」

「弓の準備は良いか。棍棒を持て。今からミュケナイへ行き、奴が居座る城を壊してきてくれる」

 イオラオスの言葉は全く届いていないようだった。先刻の落ち込みようから急変し、まるで狂人の有様だ。

「元はと言えば、我が父アムピトリュオンが座る筈だった玉座を、エウリュステウスめの父親が奸計を巡らせて奪い取った。やはりアポロンの言う通り、奴らは王となる器ではなかったのだ」

「正気にお戻り下さい、伯父上」

「さあ、ティリュンスへ急ごう。エウリュステウスの首とイピクレスの無事を一挙に我が手にしようではないか!」

 アルケイデスはそこに馬車があるかの如く、手摺りを乗り越えるようにして馭者の位置に陣取り、馬を駆らんと(むち)を振るう動作をした。廊下では、騒ぎを聞きつけた使用人達が目を丸くして主人の狂った一人芝居を眺めている。主人は一体どうしてしまったのだと、不安げな表情で遠巻きに事を見守るしかない。眼をぎらつかせ、髪を振り乱して、しばらく二頭立ての馬車を駆る仕草をしていたアルケイデスは、笞を手放して馬車から降りる様子を見せた。

「ティリュンスに着いた! この城壁の中に奴が隠れている。探し出してその不正を正すべき時がきた!」

 アルケイデスは大声でそう宣言すると、館の中を歩き回り始めた。一部屋一部屋を隈なく荒らして暴いて行く。自身の館なのに、今の彼にとってはここはエウリュステウスの居城に見えているのか。

「おのれ、エウリュステウス! 何処に隠れている? 俺の弟とミュケナイ王家の栄光を返せ! ()もなくばお前の息子達から亡き者となるが良いか?」

 アルケイデスが次に猛進した先では、アルケイデスの息子達と妻のメガラが清めの儀式の準備をしていた。

「あなた? 随分騒がしいようですが如何なさったのです――」

「おお! 先ずは奴の息子めが見つかった」

 (いぶか)る妻の姿すら目に入らず、狂気と歓喜に打ち震え、アルケイデスは弓矢を(つが)えて我が子を狙った。

 息子達は悲鳴をあげて散り散りに逃げ惑う。

「何をなさるの! あなた、お気は確かですか?」

「女よ黙っておれ。俺は卑怯者の王エウリュステウスを討ちに来たのだ。奴が姿を現さぬから、先に奴の息子らを血祭りに上げてやるのだ」

「何を仰っているのです? ここはテーバイの貴方の館です。エウリュステウスは何処にも居りません。ここにいるのは貴方の息子達ですよ」

「うるさい! 我が道を(はば)むな。退()け!」

 自分を説得しているのが己の妻だということにも気付かない様子で、アルケイデスはメガラを突き飛ばした。その勢いのまま子供達を追いかけ、一人を柱の前まで追い詰めた。長男のテリマコスだ。テリマコスは絶望の気色を露わにして立ち竦んでいる。ただ、絶望の中にも、経験の浅い幼い瞳の中には捨てきれぬ僅かな希望が垣間見える。アルケイデスが正気に戻って自分を助けてくれることを切望しているようだ。しかし実の父にその願いは届かず、アルケイデスは非情にも我が子へ向けて矢を放った。百戦錬磨の戦士の矢が外れる筈がなく、父の矢により、テリマコスは胸を射貫かれた。アルケイデスの長子の血で館の柱が赤く染まった。

 母親の悲鳴が狂気に満ちた館を(つんざ)いた。

「テリマコス! (いや)よ、やめて! やめて下さい!」

 兄が殺されたのを目の当たりにした弟達は、いち早く狂った父の目から逃れようと身を隠す場所を求めて逃げ回る。一人として逃すまいと鋭い眼光が幼子達を追いかける。次いで、アルケイデスは祭壇の裏に隠れた次男を見つけた。

「もう一人。見つけた」

 目前に迫った父に怯えながらも、彼が己の父であることは変わりないので、次男のクレオンティアデスは逃げることができない。混乱の末、正気を失っている父の膝に(すが)り付き、泣きながら訴えた。

「お父様。ぼくはあなたの子です。エウリュステウスの子ではありません。どうか、どうか殺さないで」

 健気な哀訴も今の父には届かない。理性の光は狂気の雲に覆い隠されている。アルケイデスは至近距離にいる獲物を仕留めるため、棍棒を振り上げ小さな頭目がけて打ち付けた。

 二人の子を(いつ)(ぺん)に亡くした母親の悲痛な叫びと()(えつ)が止め処なく溢れている。だが、アルケイデスは己の妻の悲しみには全く取り合わず、残ったもう一人の息子に向かう。夫の狂態が鎮まらないと悟ったメガラは、素早い身のこなしでアルケイデスより先に末子のデイコーンを抱え上げ、奥の部屋へと逃げ込んだ。扉が閉まり、(かんぬき)のかかる音がした。

「エウリュステウスの(はしため)が余計なことをしてくれる」

 髪を逆立ててアルケイデスは閉ざされた扉を睨み付けると、扉に一拳打ち込んだ。轟音が館中に響き渡り、召使い達はおろおろと逃げ惑う。狂気の主人は同じようにして何度か扉を撃つ。

「さあ、潔く出てきて父親の罪を償うが良い。さもなくば、俺がこの城を壊してしまうぞ」

 アルケイデスの怪力が館中を揺らす。

 柱が壊れた。壁も崩れた。

 狂気の舞踏はまだ続く。

 不気味な拍子で破滅へ向かう。

 己の所業の恐ろしさにも気付かずに。

 幾度も拳を受けてひび割れた扉に手がかかる。

 閂が歪んで軋む音。扉は単なる板と化し、空しく地に投げ捨てられた。

 英雄にこれ以上の罪を重ねさせまいと閉ざされた(とりで)(つい)に破られてしまった。

 奥の部屋には、メガラが我が子を抱え込み、守るようにして(うずくま)っているのが見えた。

「自ら潔く最期を迎えられぬ臆病者よ。死が恐いなら、せめてすぐに死なせてやろう」

 アルケイデスは弓に矢を番えると、小さな息子を抱き締めて震えるメガラの背に狙いを定めた。

「おやめ下さい、伯父上!」

 このままでは取り返しのつかない罪を完遂することになる。イオラオスは堪らず叫んだ。

 しかし、その叫びは届かず放たれた(やじり)は風を切り、母子の身体を無惨に貫いた。

 愕然とするイオラオスを振り返り、アルケイデスは獲物を仕留めた喜びを口にする。

「見たか、イオラオス。これで残るはエウリュステウスただ一人。大事な者を殺されては、もうこれ以上隠れてはいられまいな」

 吹き出した鮮血を浴びて、アルケイデスの全身は赤く汚れている。まるで、不吉な死の神――否、狂気の神(リユツサ)の化身だ。

「伯父上、どうか…どうかよくご覧下さい。貴方の足元に横たわっている者は、紛れもなく貴方自身のご子息達です」

 イオラオスは息も絶え絶えに事実を伝えた。

「何を()()しなことを言っているのだ? ここはティリュンス。我が子らはテーバイに居るではないか」

 大笑しながらアルケイデスは歩き出した。居る筈のないエウリュステウス王を探しに()(まみ)れの部屋を後にする。

 もう誰の手にも負えない。気の触れた英雄を止める術を持つ者は、ここにはいない。

 イオラオスだけでなく、館で働く全ての者が事態の(むご)さに言葉を失い、すべきことが解らず悄然としたまま動くことができなかった。

 アルケイデスが館の中を慌ただしく荒らし回る音がする。

 その度に、誰か彼を止めてくれ、と無責任な願いを抱かずにはいられない。

「エウリュステウスめ! 何処に居る? 隠れていないで出て来い!」

 庭で叫ぶアルケイデスの声が聞こえた。

 イオラオスは絶望のあまり耳を塞ごうとした。

 そのとき、庭に目映い光が差し込んだ。

 何事かと案じ、イオラオスは外へ(まろ)び出る。

 空を仰ぐと、光の先に何者かあった。

 羽の生えた(かぶと)に槍を携えた立ち姿。純白の長衣が眩しい。

 非情に凜々しい佇まいだが、身体の線から窺える柔和な印象が、その者が女であることを示している。

 ――まさか、アテナ。

 この狂乱を止められる者は()(はや)神々の中にしかいない。

 知性に(きら)めく瞳を持つ処女神が平和をもたらしに来て下さったか。

 イオラオスは(かた)()を呑んでアテナの動きを見守った。

 アテナは空の上からアルケイデスを見定めると、光る小石を投げつけた。

 石は見事にアルケイデスの眉間に命中し、不覚の英雄は仰け反って後ろに倒れる。そのまま頭を地に打ち付け、昏倒した。

 何者も止めることの(あた)わなかった頑強な体躯がやっと静止した。

 館中の者達の目から怯えは未だ消えないものの、そこかしこで安堵の息が漏れている。イオラオスも例外ではなかった。

 上空を窺うと、アテナはいつの間にか姿を消していた。

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