(十一)
隙間なく積まれた石の壁ががどこまでも伸びている。それだけで、この国の力が解る。
テーバイも古くから栄えた国であるから、宮殿や城壁の規模はなかなかのものであったが、ここはそれを遙かに凌いでいる。建築技術の精巧さが、ティリュンスの栄華を物語っている。
城門をくぐると、庭を抜けて宮殿内へと通された。控えの間でしばらく待つように言われ、やがて次の間へ通された。
「ようこそ我が都ティリュンスへ」
玉座に座っている男は痩せており、眼は暗く落ち窪んでいる。この男が現ミュケナイ王のエウリュステウス。歳はアルケイデスと同じだったと記憶しているが、雰囲気はまるで違う。一国を与る者としての威厳は感じられず、イピクレスはかつて感じたことのない種類の畏怖を覚えた。一歩間違えば、足を掬われて首を掻かれそうな、そんな恐怖を抱かせる。恐らくこの男は、他者からの尊敬によってではなく、他者を貶めることで己の優位を保っているのだ。
「ご面会下さり、恐悦至極に存じます。私はイピクレスと申します」
「して、テーバイよりの客人は何故遙々ボイオティアからアルゴスの地へ参られたのか?」
「我が父アムピトリュオンは元は陛下と同じく、ペルセウスの血を引く王家の一人。私はテーバイで生まれ育ちましたが、父も母も紛れもなくミュケナイ人です。なれば私自身もまた、ミュケナイ人の端くれにございます」
「ああ、アムピトリュオン。その名には聞き覚えがある。父から我が家の恥として聞かされていた。かつて先王より王位を簒奪せんと王殺しを働いた愚か者がいたとか」
「その件は…事故であったと聞き及んでおりますが」
エウリュステウスは声を立てて笑った。
「出来事は確かに一つでも、人はそれを一つにも二つにも語る生き物じゃな。ある者は海を青いと言い、ある者は緑であると言い、ある者は黄金色だと言う。殊に罪人は己が罪を隠したがるもの」
口の端を歪めて己を見下すエウリュステウスに、内心では憎悪を滾らせながら、イピクレスは敢然と進言した。
「確かに父はこの国では王の死を招いた罪人でありましょう。しかし父亡き今、かつての柵を捨て、我ら兄弟二人も王家のために働くべきだと、そう思ったのでございます。いつまでもテーバイに頼るわけには参りません。あるべき場所へ、我らも戻りたいのです」
「あるべき場所だと? お前達がミュケナイにあるべきだと?」
「勿論、すぐに我らを王家の一員として認めて頂こうなどと虫の良いことは思ってはおりませぬ。長くテーバイに居過ぎた身の上なれば、ミュケナイにとっては異国人同然に思われても致し方ないこと。今はただ、繋がりを持っておきたいのです。遠く離れたアルゴスとボイオティアに友好があれば、有事の助けにもなりましょう。陛下の御代を益々平らかなものとするため、有益かと存じます」
「友好と言えば聞こえは良いが、他国の侵入を許す隙にもなろう。それに――そなたの兄なら、テーバイの軍を率いてミュケナイへ攻めることもできような。オルコメノスを破ったように」
空かさず揚げ足を取ろうとするエウリュステウスにイピクレスは微笑みさえ浮かべて応じる。
「滅相もございません。今のテーバイには、カドモスの栄光など忘れてしまうほどの僅かな国力しかありませぬ。また、我が兄に至っては王位にも王家にも関心のまるでない朴念仁でございます。陛下に楯突くことなど到底あり得ませぬ」
エウリュステウスは片眉を上げてイピクレスを値踏みしている。さて、どう出ようか。ここはあえて仕掛けてみるか。
「それにしても、陛下は我が兄の武勲をご存じでしたか。遠いアルゴスの地まで噂が広まっているとは驚きました」
「ああ、そなたの兄のことは伝わっているぞ。獅子の姿をし、人間とは思えぬ怪力を持ち、理性よりも感情が勝る野蛮な男だと」
「偉業を成し遂げた人物には常人離れした特徴があるものです。我々のような平凡な人間はついその性質を羨み、妬み、畏れてしまいがちですが」
「そなた、誰に物を申しておるか解っているのか」
眉根を寄せて不快感を露わにしたエウリュステウスにイピクレスは強気の姿勢を崩さない。
「無論ですとも、陛下。我々の祖であるペルセウスは怪物メドゥーサを倒せし英雄。貴方は正統に王位を継承なさった正真正銘の王。その血こそ正しく英雄の証。しかし血のみによって人心を掴み続けることは難しい。この国を治めているのは人並み外れた性質を備えた人物であるという、何らかの証を示さなければ。それは陛下もご承知のことでございましょう。陛下と同じくペルセウスの血を引く我が兄アルケイデスは、テーバイにおいては救国の英雄です。再び英雄を輩出した王家の栄光を、今こそ翳しては如何でしょうか」
「余に蛮人の威を借れと申すか」
「さすれば、陛下の権威はこれ以上ないほどの輝きを見せましょう」
英雄を従えた王として、逆らう者はいなくなるだろう。そして民は無敵の英雄が味方であることに安堵し、今までよりも一層強く王家への忠誠を誓うのだ。
イピクレスを苦々しげに睨むばかりだったエウリュステウスが、また元通りの侮蔑に満ちた笑みを見せる。何か企みがあるのは明らかだ。
「ふむ。そこまで言うのならそなたの言に乗ってやっても良かろう。ただし、それはお前達が裏切らないという保証を余が得てからじゃ」
「どうすれば信じて頂けましょうか?」
エウリュステウスは口の端をこれ以上ないほど引き上げた。
「イピクレスよ。まずはそなたが余に臣従すると誓え」
何を企んでいるのか解らず、イピクレスは緊張のあまり身体の一部も動かすことが出来ず固まってしまう。それを嘲るようにエウリュステウスは続けた。
「どうした? やはり忠誠は口だけか。真の狙いは父親と同じく王位の簒奪か?」
「そのようなことはございませぬ。私も兄も、陛下の御代の長く続きますことを望んでおります」
「では、余に絶対に服従すると誓えるな?」
「…御意」
イピクレスの返答と同時に、エウリュステウスは哄笑した。
「これよりそなたはミュケナイの人間じゃ。我らと祖を同じくする者として、王家の役に立つが良い」
「ありがたき幸せに存じます。…なればこれよりテーバイへ帰り、兄にこのめでたき報せを伝えねばなりませぬ」
「ならぬ!」
エウリュステウスの怒号にも似た命令にイピクレスはその場に硬直する。
「ミュケナイの人間が何故テーバイへ行く必要がある? 余に尽くすと誓ったのだから、このままこの国で生きるのがそなたの務めじゃろう?」
「…何を、お考えなのですか」
「何を? そなたこそ、何を考えておったのかな?」
王の残忍な笑みにイピクレスは己の浅はかさを後悔した。自分の首はもう取られてしまったのだ。
「このことは余から兄君に伝令を遣わしておくから、安心していなさい。さて、宮殿の中に部屋を用意しよう。王家の者に相応しい部屋で、ゆっくり休むと良い」
――ああ、どうか。兄上、ご無事で。