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獅子譚  作者: 毛野智人
10/20

(十)

 イピクレスにとってアルケイデスは自慢の兄だ。

 武芸に秀で、虚飾のない性格は男として尊敬する。

 赤子の頃には蛇に襲われたところをその(たぐ)(まれ)な剛毅によって救われた。勿論、赤子の時分の記憶などないから、乳母に聞いて知った話ではあるのだが、それが本当だろうが作り話だろうが、他人の口からそのような逸話を漏れさせる兄の天賦の性を羨ましく思った。

 己とは似つかない兄。厳密に言えば、父であるアムピトリュオンに似つかぬ兄。周囲からは父親は別人なのではないかと噂されていた。だが、イピクレスにとってはそんなことは瑣末なことだった。父親が誰であろうが、同じ母親から生まれた双子であることに変わりはない。アルケイデスの凜々しい目元と髪の癖は紛れもなく母アルクメネ譲りのものだし、母を透かして見ればイピクレスとも似ている。

 アルケイデスは確かに自分の兄だ。しかも己よりもずっと優れている。そんな男を兄に持てるなど、何と誇らしいのだろう。

 しかしイピクレスにとっての英雄は、程なくして遠くへ行ってしまった。

 アルケイデスがその怪力に任せて人を殺してしまうという事件が起きたからだ。父は遂にアルケイデスの力を(おそ)れ、他の人間に危害を加えぬようアルケイデスに牛飼い番を命じた。

 父がアルケイデスを側から遠ざけて牛飼い場へ追いやってから、イピクレスは兄と会う機会がなく寂しさを抱えていた。父のやり方は非道すぎる。法の上では無罪となったのに、独りぼっちで牛の世話をさせるなんて。しかもそのまま幾年かが過ぎていた。あの人はそんな役目で一生を終えるような男ではないのに。

 だがイピクレスが父への不満を募らせていた頃、突然に兄は帰還した。しかもその姿を獅子に変えて。否、実際には退治した獅子の皮で仕立てた鎧を纏っていただけだ。単身で人食い獅子退治をやってのけてきたという。様変わりした兄に対して館中の人間が畏怖の眼差しを向けた。しかしイピクレスは畏怖するどころか見蕩れていた。その姿があまりに似合いに思えたのだ。人間離れした兄の天性の美しさを引き出していると、そう思った。

 獅子の化身となった兄は父であるアムピトリュオンに驚くべきことを申し出た。自分のせいでオルコメノス軍がテーバイに攻めてくるので、テーバイ軍を助けなければならないのだ、と。オルコメノスとテーバイを比べれば明らかにテーバイの方が劣勢だ。誰が聞いても無謀な話だと思った筈だが、アルケイデスの語る言葉は断定的で、頑として動く気配がなかったので、家臣の中に異を唱えられる者は誰もいなかった。それ故、家長であるアムピトリュオンが冷静かつ客観的にアルケイデスを諭してくれることをその場の誰もが期待した。しかし更に驚くべきことに、父アムピトリュオンは黙ってその決断を容認したのである。イピクレス自身も驚きのあまり父の顔を凝視した。全てを悟ったような表情。そのとき、大事なことを思い出した。――この人にもミュケナイ王の血が流れていたのだ。

 アルケイデスの宣言通り、テーバイはオルコメノス軍と会戦した。結果、父は戦死を遂げたものの、アルケイデスが将として率いたテーバイ軍は勝利した。勝利の祝福を受ける兄の姿を見たとき、イピクレスは幼い頃から憧れていた己だけの英雄が真に英雄になったのだと思った。ただ、当人の表情は晴れやかではない。恐らく、人間の反応に慣れぬからだろう。人と触れ合わず、牛の世話だけしてきたような人だ。突然群衆に囲まれて、褒めそやされてもどうすれば良いか解らぬのだろう。しかしイピクレスにとってはアルケイデスはずっと英雄だった。アルケイデスの価値にやっと人々が気付き始めただけのこと。堂々とその(ほま)れを受けて(しか)るべき人なのだ。曇り顔の兄をイピクレスは満面の笑みで励ました。

「兄上。皆の認める通り()(たび)の勝利は兄上のお陰。弟として私も誇らしゅうございます」

「イピクレス。お前も俺を褒めるのか。父上を死なせたのは俺の差配のせいとも言えるだろうに」

「しかし兄上の差配によって勝ったこともまた事実。亡き父上も今頃は、息子の武功をハデスに誇らしく語っておいでのことでしょう」

 そう。あの人は既に死を覚悟していたのだから。アルケイデスがテーバイへの援軍を申し出たときに、戦勝による英雄の誕生を予期し、王に相応しい男を見定めた。ミュケナイ王家の一員として、自らから奪われた王位の復権を次の代に託したのだ。

 イピクレスの幼少の頃からの憧憬は、テーバイでの勝利を経て崇敬に昇華した。

 神懸かりの英雄アルケイデス。

 神々から褒美の品々を贈られ、テーバイ王から妻を贈られ、民に祝福された。

 唯一無二の双子の兄。

 彼の弟でいられるなど、この上ない幸福だ。

 ――だが、あの女。

 あの女のせいで、アルケイデスは人間らしくなってしまった。

 イピクレスは歯噛みする。

 アルケイデスはテーバイ王の娘メガラを妻として迎え、今や三人の子供にも恵まれていた。夫婦揃って子供達をたいそう可愛がっており、館中に家族の笑い声が絶えない。

「お父様、もっと高く」

「ぼくも!」

「良いだろう。しっかり掴まっておれ」

 アルケイデスの両腕には小さい影が一人ずつぶら下がっている。父親は息子らの手がしっかりしがみついていることを確認すると、勢いよく腕を上に振り上た。子供達のはしゃいだ悲鳴が響く。

「テリマコス。お前は良いのか?」

 アルケイデスは傍らでもじもじとその様を見ていた子に話しかける。三人の子供達の中では一番身体の大きな子だ。

「わたしは良いのです。もうそんな遊びをする歳ではありません」

「そうか? 私の腕はまだお前の重さに耐えられるぞ?」

「そういう問題ではありません!」

「はは。お前は生真面目な子だな。母に似たか」

 アルケイデスが大きな手で頭をくしゃくしゃと撫でてやると、テリマコスはむくれた。

「兄上。テリマコスも大人になり始めているのですよ」

 家族の団欒を傍観していったイピクレスも、とうとう甥っ子を助けようと姿を現す。それに気付いたアルケイデスは目を輝かせた。

「おお、イピクレス! どうした」

「お久しぶりです。兄上」

 兄弟は久方ぶりの再会に抱擁を交わす。

「旅立ちの前にご挨拶をと思いまして」

「旅? 何処へ行くのだ」

「ティリュンスへ」

 難攻不落の城塞都市ティリュンス。堅固な城壁はミュケナイの統治そのものを表している。強大にして盤石。英雄の偉業の元に建てられた国の人々は、その血に対して従順であった。ペルセウスの血を引くミュケナイ王家を崇める姿勢は数十年に渡り変わっていない。王家へ忠誠を尽くせば己の生活は守られる。そういう信頼が王が変わろうとも揺るがず、何代もかけて人々の生活に浸透している。

 ただ、当代の王にはその安定した統治に(かげ)りが見える。少なくともイピクレスはそう思っていた。

「お前、まさかエウリュステウス王に会おうというのか?」

 イピクレスが頷くとアルケイデスは溜息を()いた。

「俺は王位には興味がないと何度も言っているだろう」

 アルケイデスがテーバイの救国の英雄となってから、イピクレスは幾度か王位を勧めたことがある。その功績をミュケナイへ持ち帰れば、すぐにとは言わぬまでも王位継承者としては十分に認知される筈だ。そして兄の威風を目の当たりにすれば、必ずや人々は彼を王にと望むだろう。しかし今まで本人は全くその意欲を示さなかった。

「勿論兄上のお気持ちは存じております。しかし(たま)に挨拶にでも出向かなければ、我らがミュケナイ王家の一員であることも忘れられてしまいましょう。他国に縁故があればいざというときに役に立ちます。せめてそれくらいは()の王にご理解頂くようお話しておきたいのです」

 父がテーバイに来てからアルケイデスとイピクレスがミュケナイを訪れたことはない。だがミュケナイ王家の血を引く以上、テーバイの人間にもなれない。このままでは中途半端な状態が続くだけだ。ならばいっそ王家の一員としてミュケナイに迎えられることを考えた方が良い。そして願わくば、兄を王に。風の便りに聞くミュケナイ王エウリュステウスは、王の器ではない。対してアルケイデスには、今はすっかり牙を抜かれてはいるものの、王たる資質は十分ある。

 イピクレスの今回の旅はそのための布石だ。アルケイデスを王位に就かせるための。

 たとえ兄自身が望んでいないとしても、そうなるべきなのだ。

「兄上。旅立つ前に一つお願いがあるのですが」

「何だ?」

「私がいない間、我が息子イオラオスを預かってくれますか。まだ若輩故、一人にさせるのは心配なのです」

「ああ、無論良いとも。我が子と同じように面倒を見よう」

「ありがとうございます。安心して出立出来ます」

「今生の別れでもあるまいに、大袈裟(おおげさ)な奴だ」

「本当にそう思っているのですよ。兄上は私にとって世界で一番頼りになる方だ」

「俺にとっても、お前はかけがえのない弟だ。いつだってお前だけは俺を慕ってくれた。お前がいなければ、俺はここに立ってはいないだろう」

 目と言葉で語られた謝意は真っ直ぐにイピクレスの心に刺さる。それはあまりに純粋で真っ直ぐで、イピクレスは二の句を継げない。誰がアルケイデスを畏れようとも、イピクレスはアルケイデスの信奉者であり続けた。それをちゃんと解ってくれていたのか。

 イピクレスと対峙するアルケイデスの瞳に火花が見えた。

 ――ああ、やはりこの人こそが王だ。

 単なる人の子の父親などで終わる人ではない。

「大袈裟なのは兄上の方ではないですか」

 イピクレスは兄よりもずっと大袈裟な野望を微笑みで隠して、ティリュンスへと旅立った。

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