(一)
深い森を往く者があった。
まだ昼間だというのに森の中は暗く、まるで一切の人間の侵入を拒むかのように冷たい。首筋には冷や汗が伝う。腰に剣があることを確かめつつ、左手の弓を握りしめる。背には矢と棍棒。武器は十分に用意してきた。
常人ならばこの森の中に入ることさえ適わぬだろう。例え分不相応に立ち入った者があったとしても、暗闇のざわめきに心が乱され、次の一歩を踏み出すことも躊躇われる。それでもそのまま歩を進めようものなら、己の無謀を後悔するに違いない。初めから逃げ出していれば良かったものを、と。
しかし彼には恐れを抱くことさえ許されぬ。与えられた道は一本しかない。ただこの先に、往かねばならなかった。
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「ヘラクレス」
己の名を呼ばれ、ヘラクレスは項垂れていた頭を上げた。両手には縄を掛けられ、全身をも拘束されている。
ここはオリュンポスの神殿。眼前には天空の主、ゼウスが鎮座していた。
「ヘラクレス、我が息子よ」
ゼウスは重々しく、悔いるような声でヘラクレスに語りかける。
ヘラクレスは未だ醒めやらぬ焦燥感と罪悪感の中にあった。ゼウスの方を見ても瞳がその姿を捉えることはなく、ゼウスの声を聞いても耳にその言葉が伝わることはなかった。その様子を見やりゼウスは苦しげに目を閉じたが、これも仕方のないことだと悟り話を続けた。
「我が妻ヘラのしたことは詫びても詫び切れぬ。つまらぬ嫉妬に駆られ、お前に最も深い悲しみと苦しみを負わせてしまった。儂も一人の父親だ。妻子を失う苦しみは痛いほどよく解る。お前がこの世の誰よりも強く己の罪を悔いていることもな」
ヘラクレスは依然として虚ろなまま。しかし、死人ではない。言葉を解する理性はまだ残っている。ゼウスの言葉はヘラクレスの知覚を通り越し、直接に心の中へ流れ込んだ。一語一語が心底へ浸み込んでいく。ヘラクレスは自分がしたことを思い出した。
血に濡れた剣。
部屋一面を染めた赤。
血の痕を残し壊された館の中。
元の色が解らぬ自身の手と胴と足。
傷口から血飛沫を吹いて大理石の白と化した妻と子。
次々と断片的な光景が脳裏に甦り、ヘラクレスは目を見開く。
「――噫!」
ずっと無気力で神殿に連行されるまで何の抵抗も示さなかったヘラクレスは突然叫び声をあげて暴れ出した。その身を縛る縄さえ引き千切らんばかりの激しさだ。衛兵が押さえにかかるが怪力で名の知れたヘラクレスに適う筈もなく、すぐに飛ばされてしまう。ゼウスは我を失い叫び散らす息子の姿を見て憐れむように声をかける。
「あのときお前は正気ではなかったのだ。ヘラがお前を憎んで呪いをかけ、そのために錯乱状態に陥ったお前は――」
「――それでも!」
ヘラクレスはゼウスを屹と見つめてゼウスの言葉を遮った。
「それでも俺が殺したんだ! 俺の妻と子を!」
ゼウスはヘラクレスの瞳を見て目を伏せる。彼の心のなんと剛にして脆いことか。父として、この若者にこのような運命を与えてしまったことを悔いる。しかし今ゼウスは父ではなく、秩序を守る天上の主である。ゼウスは再びヘラクレスを見た。ゼウスの眼差しは先程までの子を憐れむ父のそれではない。罪人を裁く天主の目だ。
「ではお前は自分の罪を認め、罰を甘んじて受けると言うのだな」
「そうです。何の償いもしないまま生き続けるなんてことは、俺には出来ない。償いの道があるなら、教えて下さい」
ゼウスは深く頷いた。
「解った。その覚悟があるのならお前に命じよう。ティリュンスの王、エウリュステウスに仕えるがよい。彼がお前に、お前の罪を雪ぐに相応しい業を与えるだろう」
一瞬、ヘラクレスの相貌には絶望が浮かんだ。しかしそれ以上の絶望を既に己は知っている。どんな恥辱にも苦惨にも耐えてみせよう。
そしてヘラクレスはエウリュステウスの元へと向かったのだった。