9. 前日前夜の既視感
あれから二十日が経った。……巣立ち、旅立ちとやらはどこへ行ったのだろうか。
ちなみに、思う存分破壊された玄関は、等身大デッサン人形の力でいとも簡単に復旧された。盛大に魔法が行使されたそれは、……最早、“修復”ではなかった。
あの親子喧嘩から二日後――水戸は絶対に認めないが――やっと機嫌を直した水戸にミレーナは新しい知識を与え始めた。
それは『冒険者』の知識。ギルドに属し、魔物の狩りや傭兵、従魔の散歩まで、ありとあらゆる仕事を請け負う、『依頼制の何でも屋』と言っても良い職業の、その心得だった。
水戸は、ランク制は勿論の事、規則に載っていない一般的なしきたりや、各職種の立ち位置、その場限りのパーティーでの立ち回りまで、事細かに学ぶ事となった。
以下、簡単な規則になる。
・ランクは下から順番に、J~A、AA、AAA、S、SS、SSSまである。――細かい。
・仕事はそのランクの上下1つまでのものが受けられる。――聞いた事がある。
・低いランクの内は一定期間内の達成回数のノルマが多い。――聞いた事がある。
・冒険者同士の問題は、年間契約で警察力の行使を許可された冒険者が対処する。――成程、と思った。
と、こんな感じだ。
魔法の訓練を挟みながらであったが、その基礎知識の類に二日、しきたりや立ち回りの勉強にもう二日を費やした。……随分とゆっくりしていると言われれば、水戸は反論しようがない。
さて、それから約二週間、水戸は何を教わっていたのかというと、それは――たった今、顔面に迫っている脚線美を見れば明らかだった。
「っと」
「――流石ね」
ブリッジを決め込むが如く、水戸は反り上げた体でミレーナの蹴りを回避した。
そう、水戸が教わっていたのは体術だった。
魔物やミレーナとの喧嘩も然る事ながら、水戸の身体能力は人間のそれを大きく凌駕している。
あの神殿で捕えられた時にはそれを露ほども知らず、それどころかその感想を敵に持っていた水戸。しかし、今は自分が人外の力を持つ立場だ。あの雪辱を晴らせる可能性に、水戸の訓練は捗った。
(まぁ、自分から復讐しに行こうとは思わな)「――っと」
神殿での出来事を思い出す中、ミレーナが地面を蹴って突っ込んでくる。低い姿勢から弾丸の様に滑り跳んだ彼女は、一瞬で水戸の眼前に迫ると顎に向けて掌底を放ってきた。
ところが、それは何気ない動作で避けられてしまう。何やら考え込んでいたところを急襲した筈が、「お、攻撃か?」と言わんばかりの余裕を以って。
ミレーナは言う。
「訓練中に考え事とは感心しないわ」
「すまない。少し、嫌なことを思い出していた」
しかしミレーナは、「それは理由にならないわよ」と呟き、その言葉の直後、地面を蹴りあげて水戸との間に土の爆発を起こした。
一気に不鮮明となった戦場。当然、彼女はその中を縫って飛び込んで来た。
水戸は、彼女の位置と体勢を精確に判断できず、それ故次の攻撃を予想できない。
その間にも彼女はあと一歩のところまで迫る。蹴った土片と同じ時間に到達したという事は、そこも考えて放った蹴りだったのだろう。
その瞬間。ミレーナは『もらったわ』とは決して思わず、最後まで驕りの無い所作で水戸を狙う。
だがそこは水戸。仕上げとばかりに繰り出された彼女の魔法を、裏拳で彼女ごと吹き飛ばしたのだった。
結果、ミレーナは衝撃に空中で仰け反り、それでも最後には足で着地する。
しかし、顔には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「よく、反応できたわね」
「直前の動作で魔力を僅かに感じた。――魔力、でいいんだよな?」
すごい事をしている。普通ならそんな事できない。
悔しさも程々に、その事を賞賛しようとしたミレーナだったが、後に続くそんな抜けた言葉に表情を崩す。
ともあれ、確かに魔法を発動させる前は魔力を体の内側から持ってくる必要がある。しかし、ミレーナはその早さに優れていると自認しているし、それを感知するなんて事は一介の冒険者どころか、国に仕える魔導士・騎士さえも不可能だ。――水戸は知らぬが。
そんなノーモーション攻撃をいとも容易く防ぐ青年。裏拳で術者ごと吹き飛ばし、涼しい顔をしている青年。
魔力で体を強化している素振りも見せず、それどころか彼女は彼に、それを教えていない筈だ。
――だから、ミレーナは思う。水戸と初めて会話の時間を持った時、彼がした質問に答えを出す。
(『俺は、使い捨ての方ではなかったのか』、だったかしら。――そうね。それこそ……)
――彼等は、手放すべきではなかったわ。
しかし、その言葉を胸の奥底にしまったミレーナは、何事も無かったかの様に言う。
「そうね。それで正解。でも、相手の魔法発動、直前の魔力を感知できる事は、黙っておいた方が良いわ」
「ま、そうするさ」
随分と素直に言う事を聞く水戸。だが、別段驚く事でもない。
不思議な事に、異世界人である筈の水戸は、この世界のシステムを抵抗なく受け入れていた。説明をしている最中も「そうか」と相槌を打つ始末であり、それからの言動も、実はこの世界の事を知っていたのではないか、と疑いを持つ程だった。
しかし、欠落している知識がある事もまた事実であり、今のところ判断がつかない。それが今のミレーナの考えだった。
「今日はこれくらいにしましょう。お腹も空いてきたでしょう?」
「分かった」
こうして今日の訓練は終了。
相手の魔力感知もそうだが、次々と新しい戦闘技術を開発していく水戸に、最早、どちらが訓練を受けているのか分からなくなってきた今日このごろ。
水戸は水戸で、それが凄い事だという自覚はまるで無く、今日も悠々と帰って行く彼を、ミレーナは溜息一つ吐きながら追った。
――― ――― ――― ――― ――― ――― ――― ―――
「さて、今日までいろんな事を教えてきたわけだけど……悲しい事に品切れよ」
「ん? 結構前から、そうでは――」水戸の頭に、手刀がズドン。
それから二日経った今日。訓練の終わりにこんなやりとりがあった。
わざわざ口にしたそれは、紛れも無く水戸の巣立ちが間近である事を言外に現しているのだが、水戸自身ずっと前からその必要を感じていて、そうだな、といった感じでしかなかった。
まぁ、それはミレーナも同じ事。彼女自身もう少し悲しみがあるかと思っていたのだが、あの親子喧嘩やこれまでの訓練を思うと、どこか――安心してしまうのだった。
水戸の茶化しに、呆れ顔のミレーナは言う。
「そうね。夕食の後、準備を始めましょう」
「分かった」
そう言って、どちらからということもなく屋敷に戻っていく二人。
何の準備かはお互いに分かっている。それも、ずっと前から互いに言い出そうか悩んできたことだ。
ただそれでも、水戸の僅か後を歩くミレーナの背中を、デッサン人形の召使いは、いつもより足取りを重くしながら見てしまうのだったが。
「持ってきたわよ」
夕食の後、ミレーナと執事が水戸の部屋に大きなワゴンを運んでくる。
一人ずつ二台で運んできた荷物は、とてもではないが旅人が一人で持つ様な量ではなく、水戸は疑問視の表情で彼等を迎える。
そんな水戸を差し置いて人型が風呂敷を床に敷くと、そこに二人で次々と道具を並べていった。
そして、それがエベレストの登山隊でも持てない量になった頃――。
「ミト。ここから“これ”に入るだけ選んで頂戴」
風呂敷の上に並ぶ武器、防具。それから日用品や用途の分からない品物。
その横でミレーナは水戸に硬質のリュックを渡した。
それはランドセルより幾分小さく、背中にだけクッションが入っていて、背負い心地は存外悪くない。だが、何しろ“その程度”のサイズである。泊りがけの登山隊が持てない量を、そんな小さいリュックの容量で選べ、などと言われては困ってしまう。しかも、既に入らないサイズの道具は選びようがなく、それこそ、その類は手持ちで一つか二つしか選べない。残りはハーネスでも用意して体に装備していくしかないだろう。
ところが、水戸の考えに反しミレーナは言う。それは終ぞ、水戸が存在を忘れていたもので――。
「それは魔法のリュックよ。見た目以上に物が入るから」
そう、今水戸が背負っているのは、見た目と容量がまるで一致しない、まさに魔法の様なリュックだった。
「重さも、そのリュックに入れれば感じなくなるわ。――そうね。取りあえず何か入れて、それから手を入れてみて頂戴」
驚きも程々に、水戸はミレーナの言葉を迷いなく実行する。何故なら、全て分かっているからだ。
――出典:クラスメート吉沢常幸のファンタジー談義。
――使用方法:手を入れて魔力のパスなどを繋ぐ。
水戸は風呂敷の上から、目に付いた短剣を一振りリュックに放り込む。
投げ込んだ筈が音一つしない。だが水戸は驚く事もせず、手を突っ込んで感覚を研ぎ澄ませた。
そして――。
(短剣が一本。よし――来い)
すると、リュックから出した手には、無言の宣言通り一振りの短剣が握られていた。当然、それは直前に投げ入れたものであり、水戸はそれをこれ見よがしに振る。
しかし、ミレーナは驚きや意外といった顔はせず、やはり、という表情で水戸を見た。
「流石ね。私の教育が良かったからかしら」
「んー。――否定はできないな」
水戸は柔和な笑みで応える。すると、彼女の方が顔を逸らしてしまった。
それから彼女は淡々と風呂敷に残りの道具を並べていく。水戸は並べ終わるまで終始顔を逸らしていた彼女に何も言わなかった。
道具を並べ終わり、ようやくこちらを見たミレーナは、どうぞ、と風呂敷に手を向ける。
水戸はというと、見た事の無い道具に眼を奪われながらも、まずは重要な品からと――武器と防具の方に目を向けた。
だが早速と、見た目では判別できない事に気付き、水戸はミレーナにヘルプの眼差しを送った。
「ふふっ。さすがに選別は無理よね。分かったわ。重要なものはいくらか私が選ぶから、そこから貴方なりに選んで頂戴」
そう言うと、彼女は武器と防具、それから水戸をチラチラと見ながら考え始めた。
水戸は、それを見るだけでは時間の無駄だと、日用品の小道具の方に手を伸ばすのだった。
それから二十分後――。
「この中から選べば間違いはない筈よ。――日用品の方は良い物を選んだ様ね」
持っていく物を風呂敷の端に寄せた水戸に、ミレーナは言う。水戸は、彼女に軽くお礼を言うと、これも端に寄せられた数点の武器と防具を順々に確かめた。
しかしながら、武器の方は元々数が少なく、この前ミレーナが言っていた通り弓や、跳び道具は存在しなかった。
あるのは短剣、騎士風の剣、ククリナイフ、鎖の付いた鎌。弾かれていたのは大鎌、メリケンサック、爪付きグローブ、爪付きの籠手、巨大なハサミ……つまり、ほとんどがゲテモノだ。
水戸は一つ一つ触れていくことすらするが、実は初めから選ぶ物は決まっていた様で――。
「では短剣を」
水戸の手には黒塗りの短剣。先程、魔法のリュックに投げ入れたものだ。
水戸はそれを風呂敷に置いてあった鞘に納めると、鞘のベルトで左太腿に取り付けた。
尚、この選択は実に単純な理由で、それは“扱い易い”という、ただ一点に集約される。
何故他の要素を考えなかったかと言えば、水戸はこれからの戦闘を基本的には魔法だけで行っていこうと考えていて、本当の所どれを選んでも支障がなかったからだ。
それどころか、短剣という間合いの非常に小さい武器で、魔法攻撃という長距離戦法を隠蔽し、あわよくば敵を欺ければ、とも思っていたりする。
さて、短剣を指で叩いた水戸は次に防具を見る。
そこには、胸部と腿の側面のみを護る金属の軽装、騎士の鎧、重装歩兵の分厚い鎧、邪悪でおどろおどろしい生物チックな鎧、そして、前の世界の特殊部隊の様に、胴と肩および臑を護るプレートの付いた装備があった。
ここで撥ねられていたのは重装歩兵の分厚い鎧だけだった。
しかし、どれが除外されていようが水戸の中では武器同様に選択は決していた。
「特殊部隊で」
「?」
ミレーナが首を傾げる中、水戸はそれを手に取ると素早く着込む。
着た経験など当然のことながら無く、しかも異世界の品であるため着用が難しいと考えていたが、予想に反してそれは着易かった。
胴の防弾チョッキ風の防具は、両脇腹が外れる様になっていて、シャツを着る様に、頭を突っ込んで着る事ができた。
肩の防具は元からチョッキと一体型で、しかも自由度が高く、臑を護る防具も三つのベルトで取り付ける事ができた。
この製作者は着用者の事をよく考えて作ったらしい。それは全て着込んだ上で水戸の心中で呟かれた感想だ。
武器と防具を選び、それを装着した水戸をミレーナは眺め、頷く。
「うん。似合っているわ。大きさもぴったりみたいね」
「着心地も悪くない。――今更だが……。いや」
何から何まで……、と感謝が口をつきそうになった時、水戸は思い留まった自分を賞賛した。
前の世界に置き換えてみると、その心は簡単に読み解く事ができる。
そう、――母に、そんな事を言っただろうか、言うだろうか。
余程険悪な親子ならあり得るかもしれない……と思ったが、それこそ感謝など告げない。
貴族とかで、厳格な親と子なら……と考えてみても、そんな関係では、子はもっと平伏する様に、地べたを這う様に感謝するだろう。よって、当てはまらない。
だから、すまない、などと言ってしまった時、――それは他人同士の関係を認める事に他ならないのだ。
知人以上、友人未満。その他どんな度合いの関係でもいいが、それは水戸とミレーナの関係では、決してない。
つまり、水戸がギリギリのところで噛み殺した言葉は、やはり噛み殺されて然るべきものだったのである。
――そんな心中の葛藤を察したのか、ミレーナは話題を変える。
「さて、道具の方は――やっぱり大丈夫そうね」
装備を選ぶ前に集めておいた道具。それは以下の通りだ。
狩用ナイフ(多分)、ライター、ライト、ランタン、ミニグリル(ノートパソコンサイズ)、寝袋、ロープ、ミニまな板、水筒(2リットルサイズ)×3、ミニ机。
水戸はキャンプなどをしたことがないが、完全に知らない訳でもなく、ネットで見た知識程度には生きるための道具を揃えられたと思っている。
それに、前半の道具に至っては、魔力で動作する優れモノだ。
水戸はミレーナが選別中に試していたのだが、その中でもミニグリルの優秀さに舌を巻いた。
それは、魔力を下部の取っ手に流した途端、煙の出ない小さな炎が金網の下で無数に揺らめいた。肉にもよるが仮に室内で調理しても支障ないと思える。
『炭や燃料をくべる手間や、着火に時間もかからない。室内で使用可能』。
つまり、優れに優れた優れモノだ。――前の世界のキャンプ愛好家達からしてみれば、喉から手が出る程欲しいものに違いないのである。
水戸はそれらを魔法のリュックに入れていく。
大きなものは折りたたみ式になっていて簡単に入れる事ができたが、寝袋を入れるのには苦労した。
最終的には、見かねた人型が水戸に畳み方を教えるまでに事態は発展し、改めてキャンプ経験の無い事実を自らに突きつける結果となった。
この時点で、魔法のリュックにはまだ余裕があったのだが、無駄な物は持って行っても無駄だ、という考えから残った物を三人でワゴンに戻す。
そして、二つのワゴンは人型が押して部屋から運び出され、残ったのは水戸とミレーナだけになった。
二人は、殺風景になった床の上に座ったまま話し始める。
「――これで、終わりね」
「ああ。準備は終わったな」
互いに分かっているが、深くは語らない。
水戸からしてみれば、まるで旅行や合宿前日の準備を彷彿とさせるような作業だった。今回は、その期間が問題なのだが――。
しかし、その話題を出す前にミレーナが言う。
「あとは、これ、持って行って」
そう言って水戸の渡した物、それは指輪だった。
ただそれは、親愛の証とするにはどうも違う渡し方で、その理由は水戸が指輪を付ける事で判明する事になった。
「っ、これは……」
「偽装の指輪。つまり、そのままね」
水戸は彼女が渡してきた手鏡を見る。――そこには。金髪、極浅黒の肌、若干のチャラついた風貌の“水戸に極めて似た誰か”が映っていた。
そう、ミレーナの言った通り、指輪の名前そのままの効果が今、目の前に姿を現したのである。
「仮に、フードを被っていたとしても、それだけでは不安でしょ? だから、これを貸してあげる」
「ありがとう。喜んで借りていく」
水戸の返事に満足したミレーナは、ローブは明日でもいいわね、と言って水戸の部屋を後にした。
流石に旅立ちの前夜にずっと部屋にいて欲しいとは思わない。――そんな歳でもないが――それでも、そのあっさりとした退出に水戸は首を傾げながら床に就いた。
――― ――― ――― ――― ――― ――― ――― ―――
「今日まで世話になった。ミレーナ、デッサン執事」
玄関ホールの前。水戸はミレーナと等身大のデッサン人形に見送りを受けていた。
とは言え、二十日ほど前の親子喧嘩や、この屋敷に帰ってこられる事を水戸の強さが担保している事から、涙は不要。それが二人の共通した思いだった。
準備は前日の内に終わり、荷物は予め魔法のリュックに入れてあるので、今日の朝は衣裳部屋からローブを選ぶだけだった。ちなみに、水戸が選らんだのは耐火性の黒いローブだ。
指輪の様に特別な名前が付いている訳では無いが、火属性の魔物から採れた毛と革でつくってあるらしく、同じ様な性状をもっているらしい。
さて、水戸の言葉にミレーナはたっぷりと時間を置いて応える。
「いつでも帰ってきて。あと、最後にこれ」
昨晩の指輪に続いて、次はなんだろうか。
再びアクセサリー類を渡される予感に、その通り、ミレーナが取り出したのはペンダントだった。
銀の素地に同じく銀で細工が施され、それ以外に宝飾はない。しかし、そこに付け加える事こそが無駄で余計であると感じさせられる、そんな完成度があった。
彼女は水戸に近づくと、それを水戸の首にかける。そして、ケースを魔法のリュックに落とし込むと、幾分か寂しそうに離れて、言う。
「それは……決まった地点を指し示してくれるペンダントよ」
おかしな間があった。しかし、水戸は深く触れない。
それに、その説明もどこか予め作っていた様な気がして……。
ただ水戸は、今首にかかるペンダントがミレーナの中でとんでもなく大切なものである、その認識だけは持つ様に、心に刻み込んだ。
水戸は、彼女が手に僅かな魔力を纏った事を覚り、同じ様にペンダントへ魔力を籠める。
小さく、小さく、慎重に魔力を流し込んでいくと、ペンダントの表面から少しずつ光がこぼれてきた。
そしてそれは、光路を伸ばしていき、遂には水戸の腕程の長さになって、ある一方向を示す。
「貴方には言い難いのだけれど、今は帝都を指していると思うわ」
言いよどむ訳だ。
帝都、帝国。それは自分をこの森に落とした国。自分を殺そうとした者達が住む、魔の巣窟だ。
ところが、水戸は思ったより感慨のない事に驚く。
機会があれば復讐でもしてやりたい、それくらいの思いはある。だがこの三週間で水戸の考えはある程度進んでいて、相手が組織である以上、責任の所在はハッキリさせておかないと、という理性的な考察を持つに至った。
彼女は続ける。
「だから、このペンダントは人里が見えるまで使用、ということにして頂戴。それ以外に使い道も無いから」
終わったらケースにしまっておいて。その意味を強く感じ取った水戸は、それも含めて了解の意を示す。
――かくして、全ての準備は整った。
生きる術、生活する術。
世界の事、国の事。
魔法、体術。
拙くとも、あらゆる事を受け継いだ水戸は今日、ここを巣立つ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
最後は子らしく。初めて、彼女を見上げる様に行った言葉に、お互い覚悟を決めて一時の別れを始める。
声を出すのは無粋と思ったのか、静かに頭を深々と下げる人型。そして、手を振るミレーナに見送られながら、水戸は家を跳び出した。
――― ――― ――― ――― ――― ――― ――― ―――
「行って、しまったわね……」
巨木の森。その霧の中に消えていく背中。
送り出した手はひとりでに空を掴み、その指は正に追い縋る様。
事実。心では追い縋っていて、今にも足が前へ動き出しそうだった。
「御主人様」
デッサン執事――ミレーナが作り出したゴーレムの“魔物”は、そこに「戻りましょう」とも続けず、ただ自分の主人が“送り出し”を終えられる様に言葉で背を押す。
その心遣いに気付き、それでもたっぷりと時間を掛けて気持ちを整理したミレーナは、ゆっくりと踵を返し、目の前にある屋敷へ、長過ぎる道を歩み出すのだった。
(ミト……。久方振りに会ったのが貴方で良かったわ。これで、まだ絶望せずにいられる)
過去、人間と会ったのは一体いつの事だっただろうか。
記憶にも無い悠久の時間を経た、遠すぎる過去だろうか。
(随分経ったわね。ねぇ、皆)
幸せだった、あの頃。
既に曖昧を越え、“こんなものだった”と、想像にも似た記憶しか持たない、暖かい時間。
……肌に熱い血が流れていたあの時。そんな事もあっただろうか、と朧気さえも定かでは無い希薄な記憶。
でも、幸せと呼べる時間は確かにあって、それを否定する根拠だけは、どこにもない。
(私、もう少しだけ、待つわ。あの子に――賭けてみたいの)
すっかりと色が抜け落ち、ヒトとしての温かみを失った肌。目は血の様に赤く、弧を描く口は開けば忽ち牙を剥く。
しかし、あの青年はそれをいとも容易く受け入れた。
あろうことか、『何が問題だ』と――本気で放った問いに、怒りさえぶつけられてしまった。
だからお陰で、青年が“望む者”でなければ冗談で済ます筈だったものを、あれから続けざまに放たれた言葉が……本気にしてしまった。
(ふふっ。私、そんなに愛情表現が上手だったかしら)
あの頃は、見向きもされなかったのに……。
暖かく迎えられ、称えられ、それどころか祀られても良かった筈なのに……。
(きっと、貴方との相性が良かったからよ。ミト)
思えば、異性に触れられるのは家族以来か。
笑えばいいのか、悲しめばいいのだが、それだけははっきりと覚えている。
あれだけ強く抱きしめ、抱きしめられ、最後は母と呼んでくれた、ヒトの子。
今から、……次に会ったらどんな顔をすればいいのだ、と冷たい頬が熱くなる。
(だから、私、待つわ。ずっと)
彼女は笑う。あの子の事だから、良い娘を連れてくるかもしれない、と。
そうしたら、それこそどんな顔で会えばいいのだろうか、と。
今からいろいろ考えてしまう。柄にもなく、悔しい顔をしている自分を想像して、笑いがこみ上げてしまう。
「いってらっしゃい、ミト。貴方の家は、ずっとここよ」
扉を開け、青年の去った森を振り返る。
霧がかった白い世界は、寂しさと期待で、満ち溢れていた。