kami
私はいままで様々な困難を乗り越えてきた。
テスト前日にこれまでやってきた勉強がテスト範囲外だとわかった時も、付き合っていた彼女に謎の壺を売られそうになった時も、就活の面接の時に別の企業のために用意していた決まり文句を堂々と口にしてしまった時も、仕事で失敗した上司の尻拭いをした時も。
私は1つ1つ丁寧に問題を解決してきた。
ただ、今この瞬間以上の困難はなかった。
神よ、と祈ったことは一度もない。キリスト教を信仰していないからだ。
ただこればかりは仕方ない。この困難ばかりは祈るしかない。
紙よ。
いでよ、紙よ。
何度目を離しても祈っても紙は現れない。
今日に限ってポケットティッシュを切らしている。先ほど断らずに風俗店のティッシュをもらっておけばよかった。
ここが会社のトイレならば、掃除のおばちゃんを呼んで何とかできるのに、ここは公園の公衆便所だ。
しかも今は夜の11時。誰かがいるとも思えない。
静かだ。
よく考えろ。
携帯があるではないか。
尻ポケットを探ってみると、いつもあるはずの携帯がない。
会社に忘れてきたのを思い出した。最悪だ。
いっそのこと大声を出して誰かを呼べばいいのではないだろうか。
息を目一杯吸い込んだ時だった。トイレの外に誰かがいる。
そっと呼べば助けてくれるかもしれない。
「おい」
「なんだよ」
「知ってんだぞ。お前俺の彼女と寝たろ」
「お、お前が悪いんだぞ。お前が相手しないから彼女は寂しがってたんだ」
「だからって親友の彼女寝とるとか、頭おかしいだろ」
「ずっと好きだったんだ」
声をかけるタイミングが見つからない。
むしろタイミングどころの騒ぎではない。同情するぞ。寝取られた方。
「ふざけんな」
人が倒れる音がした。殴られたのだろう。仕方ない。
……人の痴情を聞いている場合ではない。
「テメエなんかもう絶交だ」
こうしてまた1つの友情が崩れ去った。寂しい世である。
ここは慰めついでに紙をもらおう。
「あ、あのー」
「……」
「聞こえますか。お兄さん」
「いやあああああ」
悲鳴とともに走り去って行く音。逃げやがった。私はトイレのナンチャラさんではない。これだから親友に捨てられるんだこのクズ野郎め。
次の手を考えるんだ。
拭かずに出る。これだ。
しかし、それだけは正直嫌である。もし殺されるとなるのならばその手段をとってもいいが、お断りだ。
本がある。
でもこれは限定版だ。しかもまだ1ページも読んでいない。諦めよう。
どうすればいい。
また人が近くに来た。
「よし、ここでいいか」
「トイレで?汚いよぉ」
「いいんだよ。もう我慢できない」
「そんな乱暴にしないでよぉ。自分で脱ぐから」
何ということでしょう。ここで始めちゃうんですか、お兄さん。
それよりメンタルに響くのは低い声しか聞こえないという点だ。
そうか。ここはハッテン場なのか。
「(自主規制)」
「(自主規制)」
「(自主規制)」
「(自主規制)」
お兄さん方そんなに激しく突き合わないでくれ。
嫌な妄想で正直もうゲンナリだ。
「あのさ、さっきから思ってるんだけど」
「なに」
「隣の便器、人いるよね」
絶望の淵とはまさにこのこと。私の心臓の鼓動はこれまでにないくらい激しくなっていた。
どうする。どうする。どうする。
「ニャー。」
そう。私は猫なのだ。猫だから隣の便器でナニをしていようが、なんとも思わないのだ。
「猫だったのか」
よし、凌げた。こうやって私は様々な困難を乗り越え……。
「ずっとそこにいたんですか」
声のする方を見ると、目の前のドアを乗り上げるようにして、一人の男が僕を見つめていた。
清々しい朝だ。
私は新たな私の一面を見た。
尻の汚れも綺麗取れたし、私は家路に急いだのだった。






