軍師皇妃は目的を明かす
前話に豆知識として「隗より始めよ」の解説を追加しました。宜しければご覧ください。
少しシリアスですが、次からはまた元通りですのでご安心を。
やってきたのは、通りから少し外れた場所の酒場だった。
酒場と言っても少しばかりの座席と、主らしき初老の男がいるだけである。
「此処は色々と話をするのに向いているんですよ。此処の主人は口も堅いですし」
ね、と藜燈が言えば、主人は黙って軽く会釈した。
——信用して良いのだろうか?
梨由は思ったが、然し、この男の翔呀への忠義は確かに本物だ。
下手に情報を漏らして翔呀の評判を落とすことはしないだろうと判断する。
「何か飲みますか?」
「……要らぬ」
「うわ、男みたいな話し方ですね。素は其方でしたか」
「ふん、お互いにな」
そうですね、と青年はくすくす笑って、果実水を、と注文した。
梨由はほんのわずか、この青年が装っていた天然の気性が生来のもので無いことに安堵していた。
正直、ある程度の力を持ちながら何も考えずに何かを成し遂げる強運、或いは天性の勘をもつ人物ほど、軍師にとってたちの悪い者はいない。
「それで、いつ、どうして私が玲瓏だと分かった?」
「さていつだったでしょうねぇ。
と、今の言葉は、玲瓏は自分だという告白と受け取っても?」
「ああ、構わない」
「……随分あっさりと認めるんですね」
「否定すればどうせ詮索されるだけだ。問題がなさそうならば、認めた方が良いのだろう」
過去に嗅ぎ回れて面倒な思いをしたことがある。
特に、目の前のこの青年は鋭そうであるし、下手に確固たる証拠を掴まれるよりはマシだ。
「まぁ、認めてくださるなら話が早いですね。玲瓏殿にお願いします」
藜舜は一層笑みを深めて言い放った。
「死んでください」
「は?」
梨由は思わず、大きく口を開いて惚けた顔になった。
「死ぬも何も、私は今やこの国に属する皇妃の身だ。喪えば其方の責任が問われるだけだろう?」
「いえいえ、死んでもらうのは玲瓏殿だけですよ。梨由様は構いません」
「どういう意味だ? 先程言ったであろう、私は梨由であり軍師玲瓏であると」
ですから、と陽気そうに見えた青年は嗤った。
「軍師玲瓏は陛下の命に背き単身戦地に向かった。そこで流れ矢を受けて死亡した。そういうことにしていただきたいのです」
「……つまり、私が此の国の軍事に関わることの無いようにと、そうしたいのだな」
「理解がお早くて助かります」
藜燈は出された果実水を呷った。
「正直、皇妃が他国のものであろうと構わないのです。政治にも、軍事にも関われぬお立場ですので。
然し、軍師ともなれば話は別です。軍事はもちろん、政治にも口を出されかねない」
信用されていない?
いや、此れは……。
「疑ってておられるのか、私を」
「疑ってますよ」
「何故?」
「だって、貴女は敵国の人間ですから」
嫌な男だ、と梨由は思わずにはいられなかった。
無邪気すら含む顔の下に、草叢に忍ぶ蛇のように狡猾な知恵を潜ませている。
——まだまだ人を見る目が無いな、私は。
師匠には遠く及ばない。
梨由はやれやれと内心で溜息をついて、それから口を開いた。
「然し、私は既にこの国に受け渡された身だ……敵国の人間と言うのは、どういう意味だ?
単に敵国の出身者という意味ではあるまい」
この国は既に多く、燕青国の人間を受け入れていた。今更、出身をとやかく言うとは思えない。
睨むように見つめれば、藜燈は溜息を付くように言った。
「貴女、言ったじゃないですか。燕青国を“我が国”と」
「は?」
「我が燕青国でも、と。貴女はそう言われましたよ」
言った、だろうか。
いや、確かに言った。
「それに、貴女は陛下に忠誠など誓ってはいない。目を見れば分かります。貴女は未だ、どこにも属さぬ自由な目をしている」
「それがいけぬと?」
「決まっているでしょう」
「お前こそ、自分の言った言葉をよく考えるべきだな」
藜燈は苛ついて眉根を寄せた。
「それは、どういう」
「どこにも属さぬ自由な目とお前は言った……つまり私は燕青国にも属していない」
「なっ、」
梨由はそこでニヤリと笑った。
「私の言葉はな、本来こう続いたのだ。『我が燕青国でもそうでした』とな」
「そう、でした……?」
「彼の国は私の故国でこそあれ、今も従う国では無い。父が……前皇帝が斃れたあの日から、そうではなくなった」
見ろ、と梨由は自分の瞳を示す。
女子の見に合わぬ、苛烈な瞳だ。
「私の目が自由と言ったな。ああ、そうかも知れぬ。何故なら此れは梨由の目であるから」
まだ新しき国に慣れぬながら、故国の縛りより解き放たれた女の目だ、と梨由は言った。
「然し“梨由”では、このような目しか出来ぬ。所詮、この程度の“苛烈”しか持ち合わせぬ」
この程度。
梨由は、自らの瞳をそう言い放った。
そして、懐から仮面を取り出した。飾り毛は付いていない。
藜燈が此れを見るのは初めてだが、それでも、玲瓏のものだろうと分かる。
「も、持ち歩いて!?」
「まあな」
梨由はそれだけ言って、そのまま仮面を付けた。
「これが——」
瞬間、変貌した。
雰囲気が、空気が、何もかも。
「軍師玲瓏だ」
隣で一言も発していなかった瑶秋さえ警戒を高めて身構えるほどの、それは、殺気だった。
——成る程、あの瞳が“この程度”であるわけだ。
藜燈は思わず笑いそうになる口元を抑えた。
「貴女は、陛下にも此れを?」
「否、見せていない。私とて、主に殺気は向けぬ」
確かに、と藜燈は思った。
殺気だった獣の瞳の中に僅かながら、鎖の存在を揺らめかせていた。
「貴女は、一体なんなのです? 軍師玲瓏も皇妃梨由も同じだと貴女は言った。
けれど私にはそうは思えません。目が違い過ぎる」
人の目を見るのは得意だった。
だからこそ、こうも違った目を持つ人間の存在を信じられなかった。
さながら別人のようだった。
「私は、」
と、梨由は、否、玲瓏は静かに口を開いた。
「私は、仮面を付けねば、この殺気と狂気を晒せぬのだ」
「は?」
突然話が変わったように思えて、唖然とすれば、その考えを読んだように、話を変えてはおらぬよ、と梨由は言った。
「軍師と言うのはな、人の命を盤上の駒にしてしまう異形の生き物だ。
私は、生まれながらにして狂っていたのだろう」
つまり、生まれながらにして私は軍師だったのだ。
梨由はそう言った。
「勿論、燕青国では男尊女卑の思想が強くあったと言うのもあるが、それ以上に、皇女でありながら人の命を弄ぶ資質を、私は隠したかったのだろうよ。隠して隠して、逃げたかったのだ」
それは他人のことを語るようですらあった。
——理由は知らないが、本音を語っているらしい。
藜燈はそう思って、言葉を見つけられずまた果実水を呷った。
「仮面が無ければ、いつしか梨由は玲瓏でいられなくなった。そして、他でもない玲瓏は見てしまったのだ」
「何を?」
「一番上の兄が……父を弑逆する所をだ」
藜燈は思わず、声も出せなくなった。
真実なら、それは最も隠すべき事実である。
わざわざ明かすのは愚行。
あえてそれをしたのは……
——信頼を得る為、か?
「信じずとも構わぬ。ただ、本当のことだ」
玲瓏は口寂しくなったのか、藜燈と同じものを、と頼んだ。
「兄は玲瓏の正体を知らなかったらしい。
その場で私に言ったよ、『俺の元につけ』とな。私はすぐさま断り、お前は皇帝に相応しくない、羚由——私の弟に当たるが——の方を私は皇帝として推すと言った。
兄は激昂し剣を向けて、私の仮面を剥いだ」
あの驚いた顔は見ものだったな、と玲瓏は茶化すように笑った。
「一番上の兄とそれに賛同する次兄は、その数日後には和平交渉をまとめて、私を国外へと追い出した。簒奪者は、同じく簒奪されることを酷く恐れる……。私もあの兄たちに仕える気は毛頭なかったが、国の未来を思うと心が痛んだ」
悲しむ民衆を置いていくのも、と玲瓏は付け足した。
行きに同乗した、何も知らなかった女官を思い出す。
悲劇の軍師、玲瓏。
全てを知りながら、それを表に出せぬ梨由。
息子に殺された皇帝。
そして愚皇帝に統治される国の民たち。
本当に悲劇なのは、一体誰なのだろうか。
「……本当に、兄者たちは阿呆だ」
玲瓏は仮面を少し持ち上げて、果実水をちびちびと飲んだ。
「貴女の狙いは何なのです」
「狙い? そうだな……」
玲瓏の瞳は殺気を帯びて焔のように揺れた。
「私の狙いは、燕青国を征服し、兄を皇帝位から引き摺り下ろすことだ」
殺気でぎらついた目で、玲瓏は言い放った。
息を飲むほど、それは強烈な意思だった。
「故国が滅びの一途を辿るのを、見逃すことなど出来ぬよ。民が苦しむのを捨て置くことも。
それくらいならば、此の蘭杳国の元に完全に下った方がまだ、兄に統治されるよりも救いがある……」
玲瓏の語る兄、つまり燕青国現皇帝は、それほどまでに愚かな人間なのだろうか。
未だそれほどに悪い噂は聞かないが、それは即位して間も無いからなのか。
困惑と疑念に揺れる藜燈を玲瓏はジロリと睨んだ。
「……これで良いか」
「何がです?」
「おおよそ、陛下に探るよう言われたのであろう。私の狙い、或いは此の国における真の目的……」
どこまで陛下に伝えるかはお前らに任せる、と玲瓏は言ってまた果実水を飲んだ。
玲瓏の言った言葉通りだった。
勿論、私情が全く入っていなかったといえば嘘になるが、陛下の頼み事であると見抜かれていた。
……然し完全にとはいかなかったらしい。
藜燈は、否、彼の真の名は、藜燈ではない。ニヤリと嗤った。
「色々と話していただいたので、俺もお話ししますよ」
「何をだ」
「俺の素性ですよ。俺、実は元暗殺者なんですよね」
何でも無いことのように言ったそれに、玲瓏は一瞬、飲んでいたものを吹く所だった。
ギョッとして見れば、今日一番に楽しそうな笑顔に当たる。
「陛下がまだ皇太子だった頃、対抗勢力から送られたんですよねー、俺。結局捕らえられて失敗しちゃったんですけど、陛下が面白いからお前、俺に仕えないかとかおっしゃってですね」
何だか聞き覚えがあるような、と玲瓏は嫌な予感を覚えた。
ついでに、と青年はもう一人に指を指した。
「こいつも元盗賊の頭ですよ」
「!?」
「……山賊だ」
「ああ、そうでしたそうでした。
陛下直々の討伐隊で行った時に此方も誘われたそうですよ。
楼州にいた狼のような男。元は名を聞き間違えたことから始まったらしいですけど、“楼狼”とそう呼ばれていたそうですね」
「……過去の話だ」
全く話さなかった男が声を発したのにも驚いたが、それ以上に内容に驚いていた。
「待て。ちょっと待て。その話は歌物語に聞いたぞ。元暗殺者とと山賊“楼狼”……軍人皇帝の器を示す話、作り話で無いとしたなら、お前らは——」
はい、と青年はにこやかに答えた。
「李 藜舜。王軍の右将軍です」
「……蓮 瑶絽。左将軍」
玲瓏はその口が思わずあくのを感じた。
「藜燈、瑶秋と言うのは……」
「あ、幼名です。字の方が藜舜と瑶絽で」
「……これは、陛下の案か」
「ええ」
嵌められた、と改めて思った。
まさか左右将軍をつけられているとは思いもしなかった。
「あ、そうそう、陛下の案と言えばもう一つ」
悪戯を明かす子供のように付け足す。
「実は、全部聞いてたんですよね。貴女が玲瓏だと言うことも、朝餉の時のが演技だと言うことも」
藜燈……でなく藜舜の声が頭に入ってこなかった。
それに気付いているのかいないのか、藜舜は続ける。
「あー驚きましたよ。違和感こそあれ、演技とはまさか思わなかったですし、軍師と皇女が同一人物だなんて考えもしませんでしたし……あれ、どうされました?」
いつの間にか仮面を外していた梨由から、玲瓏の時と変わらないほどの殺気が漏れ出ている。
「陛下は……」
「は、はい?」
「陛下はどこだ。その真意を問わねばなるまい」
クククッと梨由は笑った。
怒りのあまり零れた笑みらしかった。
——何が殺気を出せないだ……。
と藜舜は思わず身震いする。
「首を洗って待っていろ……!」
その姿はそのまま悪役だった。