軍師皇妃が軍師となるまで 参
「そして引き取られて後、己たちは——」
「おい、一寸良いか」
「はい?」
「梨由は、昔はあんな口調だったのか」
「どういう意味です?」
「あんな、普通の女児のような口調だったのかという意味だ」
「ええ。……まさかとは思いますけど、生まれた時よりあのような口調であられたとか、思われてた訳ではありませんよね?」
「……」
「……ともかく、話を続けますよ——」
王宮の隅、兵舎側の小さな訓練場で、数人の少年たちが剣を交わしていた。
いや、交わすというよりも、必死に撃ち込まんとする子供達の剣や槍を、燦韋が軽々と流していたのだった。
そんな様子を楽しげに眺めていた梨由の姿に、ふと、子供達の一人が気付いて声を上げる。
「あ、梨由様……痛っ!」
「余所見するな」
その頭を燦韋がすかさず打った。
力こそ入れていなかったものの、木刀での一撃はかなり痛く、その子供——蕗春は頭を抑える羽目になった。
——この時、彼ら五人が王宮にやってきてから、既に二年の歳月が流れていた。
「さて、そろそろ終わりにするか」
燦韋がそう言ったのは、それから半刻ほど経った頃だった。
子供達は皆、立ち上がることも出来ぬほど疲弊して、地面に倒れ伏せている。
癖で血払いするように剣を一度振るって、燦韋は梨由に目を向けた。
「梨由様は、何故ここに? ここは女人の来るところではないですよ」
「別に良いでしょ。話があったんだけど、声かけそこねたから見てただけ。それに——」
「それに?」
「私、武術の鍛錬を見るのが好きなんだ」
そう言うと、梨由は腰掛けていた岩から立って、落ちていた木剣を拾った。
すっと息を吸って、構える。
「——燦韋、私にも稽古つけてよ」
まっすぐに闘気を迸らせて、薄らと笑む梨由に燦韋は内心身震いした。
皇女でありながら、女でありながら武を学ぼうとするその心に、そして、構えからだけでも透けて見える武の才能にだった。
梨由の構えは——燦韋のをそのまま写したかのように、無駄な力が抜けていて、それでいて一切の隙が無かった。
純粋に、怖いと思った。
燦韋はこの頃漸く、老師の案じていたものが分かってきていた。
梨由がその父から継いだのが皇族の智と性ならば、その母から継いだのは虎煌としての強さだ。
虎煌の武はその血に宿る、と燦韋は教えられていたが、まさかこの少女相手にそれを感じることになるとは思っていなかった。
梨由には確かに、二つの最強の血が流れている。
それを理解してなお、否、理解したからこそ、燦韋は首を振った。
「……駄目です」
「どうして? 私、いい生徒になるよ? 一度見れば、大体の動きも覚えられるし——」
「だからですよ」
燦韋が言えば、一瞬梨由は虚をつかれたような顔になった。
その一瞬の隙に、梨由の手から木剣を奪い去る。
「あ、燦韋! 返してよ!」
「梨由様。女人が、ましてや皇女が武を学ぶ必要はありません」
「なんで!?」
「それがこの国の掟だからですよ」
跳びはねて剣を奪い返そうとする梨由を押しのけて、燦韋は遠くへと剣を投げた。
あっ、と梨由が落胆にも似た声を落とす。
取りに行こうとするその肩を押しとどめて、良いですか、と燦韋は言った。
「この国では、皇族は、特に女性は武などやりません……やってはならないのですよ。ご存知でしょう?」
「でも、私はやりたい」
「梨由様、駄目です」
「でもっ!」
「梨由様っ!」
燦韋が怒鳴ると、びくりとその肩が跳ねた。
先日とは違い、我儘の自覚があったのだろう、梨由は顔を膨らせて黙った。
「梨由様は、僕が守りますから。……それでは駄目ですか?」
「……駄目、じゃないけど」
依然不満そうではあったけれど、梨由のその返答が、燦韋への信頼の証だった。
それでも、はぁ、と梨由は深く嘆息した。
「ああ、私が隣国の皇族であれば良かったのに」
「隣国?」
「うん。蘭杳国ではね、皇族でも誰でも武術をやるし、女の人だって官吏にも武官にもなれるんだよ」
「そうなのですか?……しかし、それは言っても詮無いことでしょう」
「……分かってるよ」
梨由が再び嘆息する、その背にするりと手を落として、燦韋もまた気付かれぬように小さく溜息を吐いた。
惜しい。あまりにも惜しい。
その才能が素晴らしいものである故に、素晴らしいものであればある程、一層惜しまれる。
老師が言ったように、もし梨由が男であれば、偉大な賢君になったかもしれない。稀代の名将になったかもしれない。或いは最強の――。
だが、それらもまた全て仕方のないことだ。
再び溢れそうになる溜息を堪えるように、燦韋は話を変えることにした。
「それで……何の御用だったのです?」
「え? ああえっとね、芙香と固符、分かる?」
「芙香というのは唯一の女児で、固符は、あの武の才が皆無な少年でしょう」
そう、と梨由は笑った。
最初、燦韋は女である芙香以外の全員に剣の稽古を付けようとした。
雇い入れるにあたり、最も役立つのは護衛だったからだ。
四人の男児のうち、三人は剣、槍、弓とそれぞれに武の才能を示した。
然し残りの一人は、下手にも程があった。
剣を持てば落とし、槍を持てば地面に突き立て、弓を持てば背後に飛ばす。
そうして早々に武の訓練から外されたのが、その固符だった。
「それで、2人がどうかしたのですか?」
「先ほどね、芙香と固符にも何か特技はあるまいかと色々見てもらっていたのだけれど、芙香は踊りと歌の、固符は漢籍と画の才があるみたい」
「ほぅ、そうなのですか」
燦韋は素直に感嘆した。
これでこの度雇い入れた五人は、五人それぞれにそれぞれの才があることが分かったのだった。
最初に口上を述べた坡麻は政治や兵法を教えれば、ただ覚えるだけでなく、質問すれば自分の考えも交えて答えることができた。
蕗春は一度聞いたことは忘れず、また西方の言葉も宮に滞在する商人から習っては使い熟しつつあるとのことだし、沙茜という次いで幼い少年は、凡ゆる音を聞き分ける耳を持ち、どんな楽器でも数刻ほどで弾いてみせた。
そして梨由の言うことには、芙香はどんな曲にも即興で歌と踊りをつけられるとのことで、固符に至っては文人がみな詩聖、画聖の再来と褒め称えるほどの才であるそうだ。
「ね、凄いでしょう?」
「ええ」
燦韋が認めれば、梨由が得意げに胸を張った。
それを見て、なんとか座れるまでになった他の子供もまた、照れ臭そうに頰をかいた。
——梨由の元に集まった五人の子供、五つの才能。
これをただ奇跡的な偶然と見るか、或いは梨由の運の強さと見るべきか。
そんなことを一瞬考えて、然し意味の無いことと思考を止めた。
なんにせよ――梨由がどのような道をたどるにせよ、その元に才ある者が集ったことは喜ばしいことに違いないのだ。
何故か奔った寒気に腕を軽く摩りながら、燦韋は続けて問うた。
「それにしても、梨由様は僕を何だと思ってるんですか」
「何って?」
「いくら稽古を付けておらずとも、ずっと一緒に生活していて、名前を覚えておらぬはずもないでしょうに」
「あはは、そっか。でも最初の頃は名前が覚えにくいってよく言っていたから」
「それは……単に原の名に慣れていなかったのですよ。姓だの名だの字だの、名前が多すぎるのです」
言われてみればそうかもしれないね、と梨由はからからと笑いながら頷いた、が。
「そういえば……先ほど、見てもらっていたやら、文人がなにやらとおっしゃってませんでした?」
その言葉に笑みが固まった。
「それは、えっと……」
「もしや、また街に行かれたのですか!? 行くなれば僕と共にとあれほど……!」
燦韋が叱りつけるように言えば、梨由は些か声を震わしつつも反発するように、でも、と返した。
「でも、一人でではないよ!」
「当たり前です! 危険な目にあったら如何されるおつもりですか!?」
「街の人たちは良い人たちばかりだから、大丈夫だって」
本当に?
そう問いたくなるのを、燦韋は堪えた。
……数月前、燕青国を巨大な嵐が襲った。農作物への被害は甚大で、一部の地域では飢饉になりつつある。
それに伴って、国全体の治安が酷く悪くなっているのだ。
それを警戒しての燦韋の言葉であるのだが……梨由とてそのことを知っているであろうに、妙に楽天的なのが、燦韋を不安にさせた。
一心に民を信じることは、皇族として大事なことだとは思う。
けれど、世の中にいるのは善人ばかりでない。
そしてまた、良い人が永遠に良い人かどうかは分からない。
だが、それを教えることは梨由の純粋さを汚すことになるのでは無いかと燦韋は逡巡した。
「然しですね、梨由様……」
続く言葉はどうしても出てこなかった。
ふぅ、と梨由は溜息を落とした。
「もう、分かったよ、行かなければ良いんでしょ」
「……ええ」
その言葉に安心して、燦韋はほっと息をついた、その時。
梨由様、と息を切らして少女が駆け込んで来た。
「此処にいらしたのですね、梨由様! 出て行かれる時と帰ってこられた時には一言くださいませと言ってますのに!」
「ああ夕華。ごめん、言い忘れてた」
「言い忘れてた、ではありません! 他にも数人いませんので外に出られていたのだろうとは分かりましたけれど、今見れば一緒に行っていたはずの固符たちはいるのですから、私がどれほど焦ったことか……!」
息荒くもそう捲したてる夕華に、梨由は悪びれずに、ごめんってば、と笑った。
「笑いごとじゃあないですよ! もう本当に梨由様は……」
「お互い、苦労しますね」
「燦韋様……ええ、全く」
ふぅと漸く息を整えて、夕華と燦韋が互いに苦笑すれば、梨由は頬を膨らませた。
「何さ、二人とも。酷いなぁ」
「自分の行動を顧みてくださいませ」
「因果応報って言葉は知ってますか」
二人が同時にそう返せば、梨由は口を尖らせる。
それに思わず夕華が吹き出し……結局三人とも笑ってしまったのだった。
「……ふぅ。ともかく梨由様、お部屋に戻られませ」
「えっ、でも」
「でもではありません。ですよね、燦韋様」
「ええ。夕華さん、お願いします」
「かしこまりました。行きますよ」
ウダウダ未だ言い続ける梨由を引っ張って夕華たちが姿を消すと、燦韋はパンと一つ手を打った。
「よし、そろそろ稽古を再開するぞ。もう十分休んだだろう?」
にこりと微笑んで言えば、三人が悲鳴のような声を上げた。
……今から思えば、それは穏やかで幸せな日々だった。
だがこの時には、もう全て遅かったのかもしれない。
その翌日。
「梨由様、流石にこれはまずいんじゃ……」
梨由は再び、燦韋に隠れて無罪街を訪れていた。
心配そうな面持ちの少年に、梨由は大丈夫だよ、と軽く返す。
「ばれなければ平気だって。固符も蕗春も師匠に会いたいでしょ?」
「でも……」
「あ、黒韶! 」
見慣れた顔を認めて、パッと笑顔に転じて手を振った。
が、普段ならば返されるはずの挨拶も言葉もない。
皆、沈痛な面持ちのままで――無罪街は重苦しい雰囲気に満ちていた。
梨由の姿を見て、それは一層増した。
まるで、いてはいけないものを見たような、いて欲しくないものを見るような、痛ましげな表情が皆に浮かぶ。
梨由もまた、笑みを消して首をかしげた。
「……どうしたの?」
「梨由さま……」
「お姫さん……」
その手が梨由に伸びるのを、何故だか分からないが、蕗春は止めなければならない気がした。
だが、それも間に合わず――
「嗚呼、本当に……すまない」
梨由と、そして幼い少年二人もまた、衝撃によって意識を刈り取られた。
そして、悲劇は幕をあける。
ご無沙汰しておりました。
あと二話ほどで過去編集結です。