軍師皇妃が軍師となるまで 弐
前話にあらすじがあります。
「私と、食事を共にしてはくれませんか」
そんな突飛な言葉に固まった雰囲気は、然し、
「ほっほっほっ」
と柔らかな笑い声が聞こえて、解けていった。
梨由の目前に座る老人のものだった。
「食事、食事とな。なんともまぁ、突然な提案じゃの」
「いえ、寧ろ私は最初にこうお願いすべきだったと思いました。押しかけては名だけ名乗って、学を請おうなんて、今から考えれば図々しいにも程がありますよね」
「ほう?」
「それに、確かに知恵は金に替えられなくたって、美味しい料理には対価が必要ですから。こうすればお金だって無駄にしなくて済みますし、大勢であればあるほど、料理というのは美味しいものと聞きますしね」
「ほっほっ、そうか」
老人が再び笑い声を上げれば、梨由もまた微笑む。
それから、ふと思い出したように、付け足した。
「ああ、それと――」
「うん?」
梨由は子供らしい笑みで、少し、頼むような語調で言った。
「美味しい料理や酒を含むと、人というのは口が軽くなるものだそうなのです。ですから合間にでも、有意義な会話が出来ればと思いまして」
その言葉に、老人は静かに息を呑んだ。
表情が、微妙に強張る。
「……何時より気付いておられたのか」
「何に、ですか?」
「老生の、“如何する”と聞いたその言葉の意味に」
「何時からも何も……言われたその時には。如何すると聞いてくださったのは、つまりもう一度機会をくださる、ということでしょう?」
不思議そうに首をかしげる梨由に老人は内心身震いするほどの思いだった。
老人の発言の意味は、確かにその通りだった。
いや、むしろ代替に何かを考えようとする気概や、諦めない意思を見せれば、それで良かったくらいだ。
だから老人とて、この提案はあくまで本当に親睦を深めようというものかと思っていたし、この幼子に求めるものとしては、それだけで十分すぎるほどだった。
然しこの少女は、瞬間に真意に気づき、気概どころか策を成して知識を得ようとしていた。
食事を共にするなどと言っても、実際は梨由が金を出し、老人らは奢られて食べるのである。
料理というものを介して、梨由は老人に金を手渡したに等しかった。
つまり梨由は恩を着せ、上に立ち、そして老人に教えを与えさせようとしているのだ……おそらく、無意識のうちに。
末恐ろしい、と老人は思わずにはいられなかった。
少女自身にしてみれば、きっと強要のつもりはないのだろう。
実際、少女は老人や他のものに意見を聞くだけの余地を与えている。
だからこそ、恐ろしい。
本能で最善を選び、生まれながらに人の意思を超越して操る才を持つ者。
未だ膝が無事であって、諸国を回っていた頃、もう二十年以上は前になるその頃に、老人はこの少女と同じ人種にたった一度だけ会ったことがある。
大軍を率い、操るその者は。
「……生まれながらの、軍師……」
この少女が正しくそれであることを、老人は悟った。
才ある者は必ずそれを使う時が来る。
ならば、この子には知識が、知恵が必要だ。
「……良いだろう」
「え?」
梨由が振り返る。
老人は、フッと、身に湧き上がるほどの痺れめいた緊張を内心に封じて、また好々爺した笑みを浮かべた。
「貴女に、老生の持ちうる全ての知を、与えよう」
「ほ、本当ですか!?」
無邪気に喜ぶ梨由と燦韋、また驚いた様子の周囲へと目を走らせながら、老人は心の中、祈るように思った。
願わくば、これから与える知が、この少女の助けにならんことを。
色んなことを思い返しながら、いつもの場所の奥にその姿を漸く燦韋が見つけた頃には、組手の終わりより一刻が経とうとしていた。
「梨由さま!」
そう声をあげれば、かの少女にも声が聞こえたようで、ぱっとこちらを向いたかと思うと、笑って手を振ってきた。
その無邪気さに、些か燦韋は苛立った。
燦韋の腕の中は野菜やらで依然いっぱいのままだ。
元々梨由が見たいと言ったから始めた組手の見世物であったし、それに金の代わりに食べ物をもらって手土産にするというのだって梨由の提案であり、そして梨由の為である。
まったく手のかかる、と燦韋は深く嘆息した。
「梨由様、貴女の為に態々《わざわざ》出ているのですよ。それなのに、見てもおらず他に行かれるとは何事で……」
すか、と問う声は言葉にならなかった。
人の中を抜け、梨由の近くに至った時、見えた姿があまりに意外に尽きたからだ。
梨由自身の、ではない。梨由の周りにいた——五人の子供が、である。
「そうか、勝ったんだ。流石燦韋だね」
「え、ええ、お褒めにあずかり光栄……でなく! 其れは一体どういうことです」
「何が?」
「その童らのことに決まっていましょう!」
燦韋が怒鳴ると、子供達の体が怯えて跳ねた。
加えて、思いの外大きな声を出してしまったためか、人目が一気に集中する。
燦韋は気恥ずかしくなりながら、改めて、声を潜めて問い直した。
「この子供たちは何です、ご説明を」
「説明も何も、引き取ってきたんだよ」
「引き取ってきたって、犬猫とは違うんですよ! ともかく、早く元いた場所に……」
そう燦韋が言えば、子供達は恐怖を露わにした。
ただの貧民の子が家に返される時のそれとしては、あまりにも酷いそれに、燦韋も思わず言葉を止めた。
「これは……」
「燦韋」
梨由はじっと、一尺は低いだろう視点から燦韋を見た。
「違うよ、燦韋。彼らが貧しかっただけなら、私だって手は出さない。全てを救えないことは……既に知ってる」
「なれば何故です」
「彼らが、売られようとしていたから」
梨由の言葉を飲み込むのに、燦韋は幾らかの時間を要した。
だけれど子供達の反応が、それが正しく真実であることを示していた。
梨由の腰に目をやれば、梨由が普段、それなりの額を入れて持ち歩いていた袋がなくなっていたのに気づく。
「もちろん、人身の売買なんて何十年も前に禁じられてる。だけど、今もあったってことだ。おまけに彼らは孤児で、守ってくれる家族もいない」
「そんな……」
「ねぇ燦韋」
梨由は、子供達の一人をまるで守るように抱きしめた。
「罪を見逃すことはもまた罪。私は皇族として、皇女として、それ以上に一個の人間として、そんなことは出来ない」
「……」
燦韋は、返す言葉を探して、然し見つけられず黙った。
子供達は、梨由の素性を知らなかったのか、言葉もなくして梨由と燦韋の顔とで視線を行き来させていた。
「私のしたことは、間違いじゃないよね?」
「……確かにそうですけど、貴女がこの子らを引き取ることはないでしょう。誰か他の方に……」
「嫌だ」
「い、嫌だと言われましても。彼らの衣食住を養うほどの金はありませんよ」
「それだって問題はないよ。私には元より、夕華以外に身辺に仕える者はいないからね。新たに数人ほど雇い入れても咎められたりはしないでしょ」
「……つまり?」
「この子たちを雇う」
「はい!? 正気ですか!?」
燦韋が叫べば、梨由は不快そうに眉を歪めた。
「正気かって、失礼な。私が冗談が嫌いなことは知ってるくせに」
「だからこそ聞いたのですよ!」
本来、末席であれ皇族に仕える者は身元知れた、それも良家の者であるのが普通。
燦韋を護衛にしているのとて、特例といえば特例なのである。
孤児を雇うことは更に前代未聞、燦韋は梨由に仕える為に多く歴史書などより学んだが、その中に一度とて無かった。
然し。
「——燦韋。私は意見を曲げないから」
そんなことは、この少女にとってはどうでも良いことなのだった。
「……はぁ、そうでしょうね」
思わず出たため息は、呆れと諦めによるもの。
けれど、吐いた瞬間、無意識に燦韋の顔に浮かんだのは笑みだった。
「貴女の頑固さは……僕が一番良く知ってるんですから」
そしてその頑固さは、正しいことは何か、この少女が一生懸命考えた上でのみ必ず発揮されることも。
「仕方ありませんね」
「燦韋、良いの?!」
「まぁ。僕の主人は梨由様なんですから」
燦韋がこれ見よがしに再びため息をつく――と後ろから、
「少し先走り過ぎだ」
声が聞こえてきた。
振り向けば、老人が苦笑している。
「師匠……」
「和解したようで何よりだが、梨由殿よ、先ず当人らの意思を聞くべきでは無いのかね?」
「えっ、梨由様、聞いてないのですか!?」
「否、その、まだ……」
「はぁ、意見も聞かないで僕たちは言い争っていたんですか?」
馬鹿みたいじゃないですか、と梨由に聞こえぬように小さな声で言って、燦韋はしゃがみこみ、子供達と目線を合わせた。
子供たちが目に見えて緊張する。
「……聞いたと思うが、この方はこれでもお偉い皇族の一人だ。そして、お前たちを雇いたいと言っている」
これでもって何、と梨由の言う声を無視して、燦韋は続けた。
「然し言っておくが、宮でも決して良い暮らしは出来ないだろうし、その出自では肩身の狭い思いをするだろう。だが、もしもお前たちがこの方に——梨由様に仕えるというならば、僕も梨由様も精一杯のことはするつもりだ。……如何する?」
子供たちは、平伏すように顔を下げて、何も言わなかった。
やはりこんな子供たちに決断させるのは無理か、と燦韋が思った時だった。
一番年長と思われる少年が、あの、と言った。
「あの……」
「何だ?」
「このお方は、皇族なのですよね。……直接お目を見たり、話をしたりしても、その、私の目は潰れませんか。喉は、潰れませんか」
その言葉に周囲で揶揄うような笑い声が上がるのを聞きながら、梨由と燦韋は顔を見合わせた。
民衆の一部にそのような言の流れていることは知っていたが、顔を上げなかったのは怯えでは無かったらしい。現に、
「大丈夫だよ」
と梨由が言った時に上げられた瞳は、驚くほど意思を秘めて真っ直ぐに鋭かった。
それだけでなく、その少年が拙いながらも礼の形を取ったことに、燦韋は目を見張った。
「あの、皇女様と知らなかった為の無礼を、お許しください。この度は助けていただいたこと、心から感謝申し上げます。その上、雇ってくださるとのお言葉、誠に光栄の限りです」
「光栄ね……それで?」
「私――臣に何が出来るかは分かりませんが、精一杯、お仕え申し上したく存じます」
少年の口上は、子供の、それも貧しい容姿に似合わず、大抵の貴族の子息の多くより優れているように燦韋は思った。
梨由もまた、幼い体に見合わぬ堂々たる態度でその言葉を受け止めていた。
「うん、お願い。私も、私に出来る精一杯を君達に尽くすって約束する」
「ありがとうございます」
梨由は笑みを、そして少年は礼を一層深くした。そこには既に、主人とその臣下の姿があった。
燦韋はあとの四人に目をやった。
「お前たちは?」
如何する、とまた問えば、口々に私も俺もと声が上がる。
一番幼いらしき男児がこくりと頷くのを最後に見て、梨由は満足げに頷くと、その手を引いた。
「そうと決まれば、君たちはみんな、今日から私の臣下だね」
「っ、はいっ!」
子供たちは、パァッと表情を晴らした。
鏡に写したように、梨由の顔も明るくなる。
燦韋とて、思わず笑みを浮かべそうになった、その時。
「……燦韋殿。話が」
と老人に袖を引かれた。
その真剣な表情に、燦韋もまた顔を引き締めて、声を潜める。
「……何でしょう?」
老人は梨由と、そして他の子供たちが楽しそうに笑むのを眩しげに見ながら、深く嘆息した。
既に老いたその姿が、一層小さく弱くなったように燦韋には見えた。
「あの方は賢すぎる。そして、優しすぎる」
「……梨由さまのことですか」
「噫。あの方は、あの子達の為に簡単に自分の金を手放した。……『古の賢人に曰く、今者、儒児の忽ち井に落ちんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。惻隠の心無きは人に非ざる也』……そう言ってな」
「えっと、其れが何なのですか?」
老人は、燦韋をじっと見た。
燦韋も、決して賢くない訳ではない。
けれど老人の言葉を理解するには、経験も知恵も足りていなかった。
そしてそれが本来普通なのだ。梨由があまりに異常なのだ。
「言うは易く行うは難し、という言葉は知っておろう」
「え、ええ」
「……梨由殿は、行うことも躊躇わなかった」
先ほどのことを思い出す。
此処に来るまでの道、そこで見たからと、見たからには見逃せないと、かの少女は子供たちを連れてきた。
老人は驚いて、そして後悔した。
「……老生は、あの方に与えうる限りの知を与うるべきだと思った。が、それは誤ちだったやもしれぬ」
「なっ……如何してです」
大きな声を出しかけて、慌てて声を再び小さくした、燦韋に、苦く笑って老人は続けた。
「……あの方には才がある」
「才、とは?」
「軍師の――人を動かし操る才だ。つまり、人の上に立つ才だ。……梨由殿が男児であったならば、皇帝となれる者であれば、きっとあの方以上に相応しき者は国中を探してもいないだろう。……然し、あの方は女児だ。皇帝にはなれぬ」
「それは……」
「燦韋殿よ」
言葉につまった燦韋を、老人の鋭く強い視線が射抜いた。
今までに見たことのない、怖いほどに気迫に満ちていた。
「あの方には、貴方が必要だ。決して、一人にさせるではないぞ」
老人のその言葉に、燦韋は真っ直ぐに梨由を見つめた。
幼い、あまりにも幼く、そしてか弱いこの少女。
然し、燦韋は一度として彼女が泣くところを見たことが無い。
母を失った時でさえ、泣いて喚く弟の手を持って、堅く口を引き縛って堪えていたのを覚えていた。
泣けばいいのに、と思った。泣いて欲しいとも。
それでも、今梨由が笑えていることが嬉しい。ずっとそうであって欲しい。それもまた、燦韋の想いだった。
だから燦韋は無言で、然し確りと頷いた。
元より、手を離すつもりはない。
人質のように囚われた少女の元へ、さながら物のように送られたその日から。燦韋の主は決まっている。
老人の手が、燦韋の袖から離れる、まるでその機を読んだように、梨由が振り返った。
「それじゃあ、みんなで帰ろうか」
燦韋に微笑んだ。
老師と目が合う、その視線が訴えるものに頷きを返して、燦韋はやっと答えた。
「……ええ」
すると、周りから残念そうな声が上がる。
「おいおいお姫さんよ、もう帰っちまうのかい」
「あはは、今日はね」
「またすぐ来るんだろう?」
「もちろん」
変われば変わるものだ、と燦韋は感嘆した。
最初の頃は嫌われ、また遠巻きにされていたが、それでも1年経てば皆と仲良くなっていた。
梨由の、分け隔てない人柄がきっとそうさせるのだろう。
老人はいやに心配していたが、燦韋には其れが杞憂にしか思えなかった。
ただ何であれ梨由と、その笑顔を守れるならばそれで良かった。
そう、それで良かったのだ。
「君たちも、ね」
梨由が子供のうちの一人の手を取って微笑んだ。
――既に悲劇は始まっていたことを、誰ひとり知らぬまま。
「……ところで梨由様。衣食住の確保とは、具体的に如何されるおつもりなのですか?」
「え? 衣は私と燦韋の古いものを仕立て直すか、売るかして作ればいいでしょ。食は宮での賄いで良いだろうし、住は空いている室か、無ければ私の部屋で」
「はい!?」
「室も寝台もそれなりに広さあるし、平気でしょ?」
「寝台!? まさかとは思いますけど、彼らと一緒に寝るとか言いませんよね」
「そのつもりだけど」
「梨由様……“七年にして男女席を同じうせず”、って知ってます?」
「もちろん。“六年にして之に数と方の名とを教え、七年にして男女席を同じうせず、食を共にせず”、でしょ? それがどうしたの?」
「知っているのですよね……何故それは行わないんですか……」
「うん?」
「梨由様はもう少し皇女として、いえ女性としての自覚を持ってくださいませ」
「持ってるよ」
「どの口が言いますか」
「え、この口」
「はぁ……」
○諸々の補足
・「今者、儒児の忽ち井に落ちんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。惻隠の心無きは人に非ざる也」
『孟子、四端・不忍人之心《人に忍びざるの心》』より抜粋。
孟子|(孟軻)といえば、孔子の流れを組む儒家の思想家で、性善説で有名です。
抜粋の前半部は「今、赤ん坊が井戸に落ちようとしているのを見たならば、皆はっと驚き可哀想に思うだろう(=助けようとするだろう)」という意味です。
実際の文章では、「それをするのは親と交際したいからでも周りからの名誉の声を求めるからでも、非難を恐れるわけでもない」という内容が入り、抜粋の後半部「したがって惻隠|(哀れみ)の心がないのは人とは言えない」と続きます。
要は、「みんな“人に忍びざるの心(人の不幸を見過ごせない心)”を持っているので、哀れみの心がなければその人は人とは言えない」ということです。
・「六年にして之に数と方の名とを教え、七年にして男女席を同じうせず、食を共にせず」
礼記、内則より。
礼記は様々な儀礼や作法などについての書ですが、内則は特に家庭内の教育にまつわるもの……ざっくり言ってしまえば、古代の子育て本でしょうか。
幾つの頃には何をさせるべきか、子供を賢く育てるにはどうしたら良いか、等が記されています。
席を同じうせず、などというのは、要は男女の違いを知り、弁えて行動せよということです。
教育と言えば、上の孟子のお母様は教育熱心で賢母として名高いですね。
孟母三遷の教え|(教育には環境が大事である)なんて言葉もあるくらいです。
……長々失礼しました。