軍師皇妃が軍師となるまで 壱
○あらすじ
梨由の予想外の一面を見てしまった翔呀は、事情を知っているであろう蕗春を呼び出して問うた。
蕗春の口から語られたのは、梨由が軍師となるまでの、過去の話だった…
その時、蕗春は諦めた。
共に暮らしていた四人の孤児らと人買いに捕まった時、自分の人生は終わったと、若しくは今終わらずとも、終わったと同じ程に酷いものになるだろうと諦めた。
だが、其れでも助かりたいと望む心が、きっと有ったのだろうと、蕗春は思う。
「そこ、何をしているの!?」
だから、そんな心があの少女を呼んで。
「その子達を引き取るのに、この金で足りますか」
自分の微かな希望が報われたのだと思った。
そうして自分が救われたことを知った。
だからこそ、蕗春は悔いている。
「……大丈夫だった?」
蕗春の願いが、そう優しい笑みを浮かべて問うた、その少女を呼んでしまったことを――その悲劇を呼んでしまったことを。
蕗春は、ずっと悔いている。
——時は今より十年遡り、大陸暦682年。
その日も燕青国の都の外れ、民達に広場として使われているその開けた場所は、随分と賑わっていた。
此処では度々、賭けの対象にもされる組手が行われていた。
「皆々賭け終わったな? 良ぉし、ならば今より仕合——始めっ!」
審判を担う男の掛け声とともに、向かい合っていた二人が動き出した。
一方は五十貫はありそうな巨躯の男、然しもう一方はまだ年幼い、十ほどに見える少年だった。勿論、体も歳相応か、それより些か大きいかくらいのものでしかない。
だが、周りを取り囲む者たちの多くは、後者の勝利を疑ってはいなかった。
最初に踏み出したのは、巨漢の方であった。
思いの外速く、勢い付けて走り出す。
彼がしようとしているのは体当たり。
だが唯の体当たりと侮るなかれ、彼の体躯によるそれを正面から受ければ、大の男でも骨が砕ける。
数人が、その子供の弾き飛ばされる姿を想像して目を瞑る——が、他は皆むしろ見逃すまいとばかりに子供を見ていた。
「全く、そんな風に来られると——」
巨漢の体が空に浮いた。
あり得ない、と誰かが言った。
「——容易く投げ飛ばせてしまいますよ」
そう、少年は自分のおおよそ二、三倍もある男を投げ飛ばした、のだ。
武術に精通したものが見れば、それは熟練した技術による投げ技であることが分かっただろう。
だが、普通のもの達には目の前で何らかの魔法でも起こったかの様にしか見えなかった。
男は頭を揺らしてしまったのだろう、低く唸って、気を失った。
一瞬、全ての音を失って広場は静まり返り——そして、次の瞬間歓声に満ちた。
「さっすが連戦連勝、負けなしの燦韋! 此度の組手も燦韋の勝ちだぁ!」
審判が誰の目にも明らかな勝敗を態々口に出したのは、もはや盛り上げのためでしかない。
勝った少年——燦韋はすぐさま観衆に取り囲まれて、それから「ほら、いつもの」と数人に野菜やら鳥やらを渡されて、その腕に積み重ねていった。
「また今日も老師のところに行くんだろう? よろしく言っといてくれな!」
「あっ、はい。あの」
「さっきの投げ技凄かったねぇ!」
「あれはただ、重心を移動させただけで……えっと」
「そうだ、今日入ったばっかの人参があるんだ、持って行っておくれ」
「あ、ありがとうございます! それで」
何かを言いかける燦韋だが、口々に掛けられる言葉に機会を逃し、口をパクパクと開くばかりである。
然し到頭我慢出来なくなったのか、誰かの言葉を遮って、怒鳴るように問うた。
「あのっ! 梨由様をご存じないですか!?」
周りの者たちは、呆気にとられたようにふと顔を見合わせて、一人が笑い混じりに燦韋の左手の方角を指差した。
「お姫さんなら、もうあっちの方に駆けてっちまったよ」
そう言った瞬間、燦韋の姿が消えた。
「えっ!?」
「す、燦韋!?」
実際には、目にも止まらぬ速さで体を低め、そして腕の中の物一つ落とすことなく、人混みを潜り抜けたのだった。
気づけば人だかりから少し離れたところに立っていた燦韋は、ぺこりと大仰に頭を深く下げた。
「あ、あのすみません! 梨由様を追わないといけないので、これで失礼します!」
そして頭が上がったと思った時には、すでに燦韋は駆け出していて、姿はどんどんと小さくなっていった。
感嘆の声を口々に上げながら、人々は興味深げにそれを見送った。
「燦韋! また老師のところかい?」
「はいっ!」
「皇女様のお守りも大変だねぇ」
「えっ、ええ……」
「老師に宜しくね!」
「わ、分かりました!」
駆けていく道すがら掛けられる言葉に律儀に答えながら、燦韋はこの奇妙な現状について幾らかの頭を巡らせていた。
此処は、都の外れなどと言えば聞こえは良いが、要は国内に数多くある貧民街の一つだった。
特に“無罪街”と呼ばれるこの地域は、本来は“無在”を意味し、国に存在すら認められぬ者たちが集まっていた。
政敵に罪を被せられた官僚、毒殺の疑いを受けた料理人、弾圧されかけた思想家、皇族の気に障ってしまった宦官など、公の場所に出て来ようものなら、命を失いかねない者も少なくない。
然し、その中で梨由の存在は皇族として皆に認知され、而も燦韋共々幾らかの愛着を持って迎えられていた。
此れがどれ程奇妙なものか、分からない者はいまい。
燦韋は自身の腕の中に詰め込まれた野菜やらをチラリと眺めた。
この極めて奇異な状況は全て、梨由と、そして梨由が“師匠”と仰ぐ人物に起因していた。
周りの者の言葉や言動からだって、その人徳は見て取れるが、実際に会ってみなければその凄さは分かりようもない。
無罪街の事実上の長とも呼んで良いその人物と梨由との出会いは、この時よりも更に一年前のことだった。
——大陸歴681年の始め。
まだ雪が降り積む時期に、梨由は母を失った。
少し遠出した時に雪崩に馬車ごと巻き込まれた、事故ということだった。亡骸も見つかっていない。
本当に突然に、梨由の前からその姿が失せてしまったのだ。
この時、梨由は六つになったばかりで、その弟羚由は更に幼く、僅か齢四つであった。
だが、梨由たちに母の死を悲しんでいる暇は無かった。
異民族の血を引いている事実は勿論、彼らの皇位継承権が極めて低いこと、加えて母方の親族が燦韋を除き国内に一切存在していなかったことは……梨由を厳しい状況へと追い込んだ。
梨由には後ろ盾も、地位も何も無かった。
辛うじて城の隅に居住を許され、皇族としての幾らかの特権こそ有していたものの、暮らしは迚も良いものとは言えなかった。
然し幸運にか、或いは不幸にか。
この時既に、梨由は聡く賢かった。
何の頼りもない以上、“今”を改善するには知恵を持つしかないことを、梨由はきちんと理解していた。
とはいえ燕青国では女が学を得ることは推奨されていない。
当然城の書庫に入る許可など得られなかったが、こっそり忍び込んだことは、ひと月においてさえ優に両の手の指の数を超えた。
宮中は勿論のこと、屡々街に下りては、種々の情報や噂を網羅せんばかりに聞き耳を立てて回ったこともあった。
燦韋も最初こそ反対したものの、挙句には折れて、梨由の師になってくれるような賢人を探した。
そうして二人が無罪街の噂を耳にするのも、そこに住まう、優秀過ぎるが故に排斥された人々の存在を知るのも、国随一の賢人と謳われた男がその中にいると聞いて会いに行ってしまったことも。
全ては必然であったのかもしれない。
——燦韋は、その日のことをよく覚えている。
「……ほぅ、この無罪街、しかも斯様な最奥にお客人とは、珍しいの」
薄らと感情が見えぬような笑みを浮かべて、その老人は二人を迎えた。
顔だけ見れば、好々爺した、如何にも思想家の風情である。
然し臏刑——膝の腱を切られたその姿からは、彼が越えてきた苦境が僅かに垣間見えるようだった。
「してお客人よ、貴女らは一体この老いぼれに何用かな」
問うてくるその瞳もまた優しさを帯びてはいたが、反対にそれが恐ろしく思われて、燦韋は口を開きかねた。
然し対照的に、その姿には驚きこそ見せたものの、怯むことなく梨由は正座し礼の形を取って、
「私は現皇帝の末女が梨由、そして之は従者の燦韋……賢人と名高き貴方に、学を請いに参りました」
——最も隠しおくべき事実を口にした。
「梨由様っ!」
「煩い」
燦韋が咎めるように上げた声を、梨由は振り向きもせず一蹴した。
梨由のことだから、何らかの思慮があってのこととは思ったが、皇族と明かすなど、燦韋には無謀としか思えなかった。
実際、周りで幾つかの殺気が膨れ上がった。
当たり前だ、皇族に怨み持つものは多くいるのだろうから。
いざとなったら、数人を斬り捨ててでも逃げる、と覚悟を決め、燦韋は密かに懐に隠した剣の柄に手をかけておいた。
老人はそんな梨由をただ不思議そうに見つめて問う。
「何故、身分を明かされた? 此処が如何様な場所か、知らぬわけでもなかろう?」
「お願いする身である以上、偽りを申し上げるのは失礼と考えました」
「ほう……それでは、本気で皇女様が態々《わざわざ》市井の老いぼれに学を請われると?」
「古の賢君は、他国の奴隷にさえ師事なされたと言います。貴方達はこの国の民……教えを請わぬ理由はないかと」
「ふむ、成る程」
そうお考えか、と老人は興味深げに呟き、梨由とそして燦韋を上から下までしげしげと眺めると、笑みを深めて告げた。
「お断りしよう」
「っ! 何故です!?」
初めて、梨由は焦りを露わにし、思わず礼の形をも崩して老人の方に身を乗り出した。
何故とな、と細まっていた老人の目が僅かに開かれた。
「理由は三つほどある——まずは其方」
「えっ、僕!?」
「ああ」
老人は指を燦韋に向けた。否、正確に言うなれば、燦韋の懐にだ。
「交渉するのに腰に剣を佩くのは脅しであり論外――然し、懐に隠し帯びるのは更に悪かろうよ」
その言葉に、梨由が振り返って燦韋を驚いたように見た。
思わず、心地悪くなって燦韋は視線を逸らす。
そもそも懐の剣は、梨由の一切の武器を持たないようにという言葉に逆らって密かに持ってきていた物だったからである。
梨由は燦韋を軽く睨んで、それから向き直ると地に頭を付けんばかりに下げた。
「私の従者が失礼いたしました。全ては私の不届きのためです。心より謝罪します。然し、私は」
何かを言いかけたのを、老人が遮る。
「そう、急かれるな――二つ目の理由は、貴方の言葉だ」
「私の……言葉?」
梨由は、虚をつかれたようにふと顔を上げた。
老人の顔にはやはり、あの笑みが浮かんだままである。
「先ほどの問答で、貴女が年に見合わず賢く、既に幾らかの学識を持っていることは分かった——が、人の心を察するには未だ幼いの。本当に誰かに敬意を持つなれば、他国の奴隷と並べるようなことはしまい。それを快く思う者はおらんのだから」
「っ!」
言われて梨由は顔を赤らめた。
自分の内面に、彼らを見下すような心が少しでもあったかもしれぬと恥じたのだ。
最後に、と老人は笑みを崩すことなく告げる。
「その腰につけた袋には、恐らく此処の者に不相応なほどの金が入っているのであろうが——知恵というのは、必要とする者に必要なだけ与えられるべきものであって、もとより金で買うものではなく、老生とて学者の端くれ、金で売る気もない」
我らは物乞いではないのでな、と言って、老人は続けて梨由に問うた。
「さぁ、如何する」
「――っ!」
梨由はその言葉に、バッと顔を伏せた。
此処でも無下にされるのかと、堪らなくなって燦韋は叫ぶ。
「そんな……梨由様は、梨由様ほど、学が必要な人は他にいません! 貴方がたは知らないでしょう!」
「燦韋、黙って」
「梨由様にはもう母君も後ろ盾も無いんですよ! その金子とて、僅かに下賜された衣を全て売りに出して集めたもの……今梨由様の着てらしているものを見れば分かるでしょう! 梨由様は、」
「黙って燦韋!」
「ですがっ!」
続けようとした燦韋は然し、梨由の瞳を見て黙った。
梨由は落ちこんでなどいなかった。寧ろ真逆、軍戯で次の手を考える時と同じにぎらぎらと輝いていた。
「梨由、様……」
梨由はそのまま、老人に向き直って頭を下げた。
「老師よ――数々の無礼、改めて謝罪させていただきたい。そして最後に一つ、お願いさせてもらってもよろしいですか」
「ふむ、何かな」
顎を撫ぜる老人をまっすぐに見つめて、どうか私に、と梨由は続けた。
「この近辺で最も腕のいい料理人を紹介してはもらえないでしょうか」
「……は」
梨由の突飛な言葉に、老人が一瞬、虚を突かれた顔をするのに、梨由は笑んで、老人の後方を見やる。
「さらに言うならば、それが其処にいる黒韶であると嬉しいのですけれど」
梨由が見つめるその先にいた、粗末な衣を着た男は、突然自分の名が呼ばれたことに大いに困惑している様子だった。
「な、皇女様が、おれのことを覚えて……?」
「勿論。私は点心、特に羹では其方のもの以上に美味いものは未だ食べたことがないので」
そう梨由が言えば、男は驚きに目を見開いた。
彼、黒韶は二年ほど前に毒殺の容疑をかけられて、命からがら宮から逃げてきた者だった。
まさか、末席とは言え皇族に、自らの罪でなく料理を覚えられているとは思いもしなかったのだ。
その二人の様子に、ふむ、と老人は唸る。
「ああ確かに、その者が此処ら一であろうな」
「そうですか、それは良かった――では黒韶、お願いします。私達のために、この金で料理を作ってはくれませんか」
差し出したのは、先ほどの、袋に詰められた金。
黒韶はそろりと近寄って中を見ると、一層目を丸くして首を振った。
「こんな大金……!」
その反応も当然だった。
袋の中には、倹約にすれば四人家族が二年は暮らせるだけの金が入っていた。
然し他方、梨由はその反応を見て、フッと微かに安堵の息を吐いた。
実は、彼が未だ宮に勤めていた頃、梨由は下働きの子のふりをして何度か厨房に立ち入ったことがあった。
大抵の者は追い出す中で、彼は余り物の菓子や点心を梨由にくれたのだ。
先程――梨由が名を明かしたその理由は、老人に言ったとおりだったが、然し加えて、見たことのある顔とその反応を観察していたのである。
大半のものが恨みを露わにする中、黒韶はその類のものを一切見せなかった。
優しく、人が良く無欲で義理堅い。
それが梨由の知っていた彼であり、故に嵌められてしまったのだが、それでも本質は変わっていないようだった。
梨由はそれを内心とても喜ばしく思ったが、表にそれが出ないよう、意識して顔を引き締めた。
「……そうですね、確かにその金では普通の食事には多いやもしれません。私は相場には詳しくないですが、上質の酒を数本つけてもまだ優に余りありますよね?」
「え、でも酒は……」
「ああ、私は未だ呑めませんよ。それに困ったな、私たちはかなりの小食で、大人一人の分を分け合って食べるほどなので……」
と、梨由は芝居めいた口調で言った。
その言葉は嘘ではないが、然し本当でもないことを、燦韋だけが知っていた。
梨由は此処に来る前に近辺の物の相場は調べていたし、料理を分け合うのも小食であるからでなく、単に食事そのものがあまり与えられていない為だった。
然し、此処まで来れば燦韋とて梨由の思惑は分かろうものである。
「しようがないですね。もとより使い途を失った金です。……老師、そして此処におられる皆々様――」
困ったように、けれど隠せぬ嬉しさのままに、梨由は言った。
「私と、食事を共にしてはくれませんか」
ご無沙汰しております…m(_ _)m
今後につきましては、活動報告に書かせていただいたので、そちらもどうぞよろしくお願いいたします。