軍人皇帝、皇妃の過去を探る
○簡易な粗筋
梨由が皇妃として、そして軍師としてのお披露目を終えたある日、その茶に毒を仕込まれた。
暗殺を疑い、病に倒れたことにして女官への潜入により犯人を探し出そうとした梨由だったが、その最中、部屋にいる時を刺客に襲われてしまう。
翔呀に助けられ事なきを得たものの、自分の“弱さ”を知られてしまったために翔呀を突き放す梨由。
そして翔呀はその弱さの理由を梨由に仕える隠密の一人である蕗春に聞くべく、彼を呼びつけた。
「嗚呼、陛下は何もご存じないのですね。梨由様のことも、そして彼のことも」
蕗春は驚きを込めた、しかしどこか寂しげな声でそう言った。
ゆらり。蝋燭の火が揺れる。
未だ暗い中に灯された唯一の明かりは、二人の心情を表しているようだった。
「如何いう、意味だ」
低い声で、翔呀が問う。
梨由の全てを知っているつもりはなかった、が、何も知らないつもりもなかった。
何よりそれを他人に指摘されることが、翔呀には腹立たしかった。
その苛立ちを感じ取ったのだろう、蕗春はどこか取り繕うような語調で言葉をボソボソと言葉を紡ぐ。
「いえ。ただ……ただ少し、驚いたのですよ。あまりに、梨由様らしくないので」
「らしくない?」
「ええ。協力者たる陛下に教えていらっしゃらないなど、本当に梨由様らしからぬ……否、けれど或いは……」
蕗春はそう意味深長に呟いたのを最後に押し黙り、それから暫くして再び口を開いた。
「然し彼の——かの方の話にせよ、梨由の“ご性質”の話にせよ、己なぞが話していい話ではないと思いますよ。梨由様から聞かれては……」
「彼奴が話していないということは、話さぬということだろう。聞いて答えるとも思えん」
「なれば、己とて答えるはずが無いではありませんか」
「いや」
そうとは限るまい、と翔呀はそこで挑発するようにじぃと蕗春の瞳を覗き込んだ。
心中まで見透かされるようで、蕗春は覚えず戸惑う。
「お前は、梨由が俺に話しているはずだと言ったな。そう思っていたと」
「それは……はい」
「つまりお前は、俺がそのことを知るべきであると思っているのだろう——違うか」
翔呀のそれは質問の形を取ってこそいたが、然し、それは最早確認に近かった。否、確認そのものだった。
蕗春は降参を心中で呟いて、その通りですよ、と肯いた。
「そうですよ……己は、陛下は知っておかれるべきだと思っています。例え、梨由様の意に沿わずとも」
「なれば」
「ええ。お話ししましょう」
とはいえ抑も己の知っていることは多くないのですが、と前置いて、蕗春は一息、深く息を吸って言葉を紡ぎ始めた。
「かの方の名は、燦韋。梨由様の従兄弟君にして、護衛であられた方です」
思い出しつつ語っているのだろう、続く言葉は遅く、些か乱れていた。
「強い、そう、強いお方でしたよ。あの頃は僅か八つばかりでしたが、並の大人では及ばぬ武を有していました。聞けば、虎煌の出だとかで」
「虎煌だと? 虎煌が……原の皇族に力を貸したのか?」
翔呀が幾らか身を乗り出すと、蕗春は困惑したように瞳を迷わせた。
「あくまで、そう聞いただけですが。あの方は己たちが買われ……引き取られるよりずっと前より、梨由様にお仕えしていたので、どの様な経緯でそうなったのかは、己たちは存じません」
「ほぅ?」
「ただ、梨由様もあの方には誰より信をおいてらしたし、あの方も梨由様をこの上なく大事になさっていたし……いえ。だからこそ、あの悲劇は起こってしまったんでしょうね」
「悲劇、だ?」
ええ、と蕗春は深く、哀しみを表すようにゆっくりと頷いた。
「殺されたのです、かの方は。梨由様のお父上——燕青国、前皇帝陛下に」
「な……っ!?」
何故、と問う声が思わず掠れるほど。
蕗春の言葉は衝撃だった。
梨由の護衛であったその男。
然し、それを父親が殺した、とは。
「如何いう、ことだ。梨由は……父親を殺した兄を怨んで、皇帝位から引きずり下ろすべくこの国に来たのではなかったのか? 父のことは、慕っていたのでは……」
「慕っていた?」
蕗春が、まさかとばかりに翔呀の言葉を繰り返した。
「慕っていたと、梨由様が、おっしゃったのですか?」
「それは……」
言っては、いないだろう。
藜舜には、聞いた言葉を完璧に伝えさせた。彼に限って、覚え間違いなどをしているとも思わない。
然し、『慕っている』なんて類の言葉はなかった。自身の耳でも聞いたことはなかっただろう。
それなのに、翔呀はそう思っていた。思ってしまっていた。
否、思わされていた……?
そういえば、と思い出す。
あの衣装合わせの日。
父上、と翔呀を呼んだ時。
照れ以外にも一瞬宿った感情があった。
梨由の瞳に過ぎった、その何かは憎しみの、憤怒の色をしてはいなかったか。
翔呀の思考を呼んだように、蕗春は成る程、と呟く。
「成る程、流石というべきでしょうか。陛下を見事に……勘違いさせてしまったのですから」
「勘違い……」
「ええ。故意か否かは、己には分かり兼ねますがね」
故意でなければ何だというのだ、と翔呀は思うが、あえてそれを口に出しはしなかった。
蕗春は言葉を続ける。
「正直なところ、梨由様の兄君がお父上を弑された時……梨由様の御心の内にあったのは、驚きでも憎しみでもなく、ただ悔しさと怒りであったと、己は思いますよ」
「自分が殺したかったのに、先を越されたから、か?」
「是。まぁ、己とてその場に居れば……恐らく同じ感情を抱いたでしょうがね」
蕗春は静かにそう締めた。
然し、その声が怒りと悲しみで震えていた。
梨由の父と兄に向けられているのだろう、その思いの強さに。
「その男の喪失は……お前にとっても、辛かったのだな」
「己たちの辛さなど、梨由様のものとは比べものにすらなりますまい。あの方は」
と、そこで蕗春は一旦言葉を絶った。
その時の事を改めて思い出したのだろう……翔呀にも、その痛みのような哀しみは理解できた。
絞り出すように、蕗春は続けた。
「あの方は、梨由様の支えで、そして梨由様の……大切な方、だったのですよ」
大切な。
その意味が分からぬほど、鈍い翔呀でもない。
複雑な思いに、翔呀の眉間に深くシワが刻まれる。
「如何します」
その表情を見て、蕗春は問うた。
「如何します、もう止めましょうか。これ以上は、いえ、ここまでとて、聞いて気分の良い話ではありますまい。なれば……」
「なめるな」
言葉を遮り、翔呀は蕗春を睨んだ。
複雑な思いはある。
けれどそれを超えて、梨由の心を想うと、ただ、辛い。
その重みを少しでも背負いたいと、そう思うのだ。
「なめるなよ。お前をこの室に招くと決めたその時より、覚悟は決めている。勿論、全てを知る覚悟を、だ。それとも」
お前が話すのに臆したのではあるまいな——。
翔呀は試すように、じっと鋭く視線を向けた。
まさか、と蕗春は否定する。
蕗春とて、話すと決めたその瞬間より覚悟は出来ていた。
そうして視線を下げて。
再び上げられた時、その瞳には深い決意の色が宿っていた。
「なれば、話しましょう。全てを——かの方の結末と、そして軍師玲瓏が生まれてしまった、その訳を」
次より過去編です。
男二人が延々と話すものですから、文面だけでもむさ苦しかったですね……。