軍師皇妃は女官と語らう
暁の頃。
まだ暗い廊下を蕗春は歩いていた。
跫が反響し、静かなせいか、やたらと大きく聞こえる。
蕗春は目的の部屋に辿り着くと、一つ息を吐いて、扉を薄く開け滑り込むように入った。
「失礼します」
「……」
「こんな刻に、一体何のようですか——陛下」
椅子に座り込んだ翔呀の眉間には深くしわが寄っていた。黙ったままの姿をじぃと睨むように見ても反応はない。
これは長くかかるだろうか……と蕗春がそう思案しかけた時、漸っとその口が開かれた。
「……あれは、どういうことなのだ」
「あれとは?」
聞き返せば、翔呀は声を絞り出すように、一層苦しげに言葉を紡いだ。
「あいつは、梨由は、如何してあんなにも——」
続く言葉に、蕗春の瞳は大きく見開かれ……そして細められた。
世の中を呪うような、そんな笑みの形に。
「……本当に、宜しかったのですか?」
夕華がそう問えば、梨由は何がだ、と淡々と返した。
夕華の表情が僅かに曇ったのに、梨由が気付かぬはずもない。
あえて知らぬふりをしているのだ。
あの襲撃より数日。梨由は、すぐさま琳々を捨てた。何の収穫もなく、その上病に倒れているのが嘘だと露見してしまったからには、潜入はむしろ意味を持たぬと言って。
そして今。夕華は梨由の手に膏を塗りこんでいた。
と言っても梨由は自分でやると言ったのだが、夕華がやらせてくれと言い張ったのだった。
勿論、水仕事などで荒れてしまった手を心配していたというのもあるが……それ以上にゆっくりと話す時間が欲しかったのだ。
「梨由様」
「……何だ」
「私は——担当の場所が違う故に決して多くはなかったですけれど——働かれている貴方様の姿を、何度もお見受けしました」
梨由の眉がピクリと跳ねた。が、夕華はかまわず言葉を続けた。
「貴方様は、その時の貴方様は、楽しそうでしたよ」
「……夕華」
「ええ、本当に楽しそうでした。昔のように純粋に、そう言うなれば、あの方が——」
「夕華!」
梨由から飛んだ声に、夕華は仕方なく口を噤んだ。
梨由は視線を地に落としたまま、夕華に言葉だけを向けた。
「それ以上は言うな」
「然しっ!」
「もう決めたことだよ。私は、混じりすぎてはいけないのだ。それは私を鈍らせてしまう。錆びつかせてしまう」
「鈍るだなんて」
「分かってくれ……夕華」
それはむしろ、幸せなことではないだろうか。刀が鈍り錆びるのは、用いられなくなった時だ。必要のなくなった時だ。
けれど、それが許されないのが梨由の定めであることは、夕華とて分かっている。それでも。
「……分かりませんよ」
「夕華!」
「梨由様」
夕華は梨由の手をキュッと握り込んだ。
冷たい、手をしていた。張り詰めた神経の、それを示す冷たさだった。
嗚呼、この人は最早この様な時ですら心を休めることは叶わないのだろうか、と夕華は思った。
そして、それはひどく哀しかった。
「貴方様は、何故あえて苦難の道を行かれるのですか……? 女の身で軍師たろうとするだなんて、苦難以外の何物でもありませんよ」
「……ああ」
「私には、貴方様が苦しみたがっているように見えます。自ら自分を痛めつけんとしているように」
「そうかも、しれぬな」
夕華の手により力がこもった。
「かの方のことがあったからですか」
「それはっ!」
「かの方のことがあったから、そうも貴方様は頑なになられるのですか!?」
「違う、そうではない! 彼奴のことは関係無い。彼奴は……私の一人目の被害者に過ぎぬ。そう、それだけの者だ」
それが、“それほどの者”だと言っているように聞こえたのは、決して夕華の気のせいではないだろう。
けれど、これ以上に彼の話をすることは梨由を悲しませることにしかならないことは分かっていた。
「私はただ……心配なのですよ、梨由様。私は何時も蚊帳の外ではないですか。私ばかりが何も知らないのです」
「……」
夕華は梨由の手をじっと見つめた。
荒れた手だった。貴人にあるまじき、赤く傷んだ手だった。
然し、違う。何より荒れているのはその心なのだと夕華には思えた。
心に付けられる薬を持たぬことが歯痒かった。
「私は、貴方様の何の助けにもなれませんか。何の役にも、立てませんか……?」
「夕華、そんなことはない」
目を上げれば、梨由はじっと夕華を見つめていた。
強く力を秘めた瞳だった。
「お前は既に私の助けだ。先程、お前は何も知らないと言ったが、それが私の救いなのだ。何も知らない存在は、時に何より助けになるのだ」
「梨由様……」
「お前の前では、梨由は梨由でいられる。謀略も策略も無しにいられる……それがどれだけのことか、夕華、お前なら分かってくれるだろう?」
梨由は夕華の手を包むように握り直して、うっすらと微笑んだ。
手が温くなっていた。優しいぬくもりだった。
夕華の瞳からポロリと涙が落ちる。はい、と出た声は掠れていた。
「さ、手に膏など塗るのはこれくらいで良いだろう。これ以上してはベトベトになってしまうからな」
「あ、はい」
茶化すようにそう言って、夕華に顔を寄せた。
「話をしようじゃあないか、夕華。ゆっくりと、な」
「は……はい!」
「よし。では茶でも淹れるか」
「えっ、梨由様が淹れられるのですか?」
「なんだ、私に茶が淹れられぬとでも? 私とて、そのくらいのことはできる。知っているだろう?」
そう言って立ち上がろうとした梨由を私が、と夕華が制した。
「前に飲ませていただいたこともありますから、知っておりますとも。だからこそ、私が淹れますよ」
「何故だ?」
「私の方が、美味しく淹れられますので」
ニッコリと笑みを浮かべた夕華に、むぅと一つ唸って、梨由は拗ねたように腰を戻した。
クスリとその姿に笑う。
この方のこんな表情を見るのはいつぶりだったろうか。
「そうだ夕華。お前に聞きたいことがあったのだった」
「何です?」
明かりからもらった火に湯瓶を掛けようとした時だった。
「お前、“良い人”がいると言うのは本当か?」
「なっ!?」
ガタン、と手が滑って、危うく湯瓶を落とすところだった。
慌ててきちんと置いて、フゥと息を吐いた。
それから質問を思い出して顔が火のように赤く染まる。
「いっ、いきなり何ということを聞かれるのですか!?」
「その反応は、やはりいるのか」
「いませんよ! 私が勝手にお慕い申し上げてるだけ……あ」
「成る程? 好きな者はおるのだな」
……思わず墓穴を掘ってしまった、と夕華はうな垂れた。
然しそもそも、噂であれ知られた時点で隠すことは出来なかっただろうという諦めの思いも強い。
「一体、どこでそんな話を……」
「女官たちからだ。女というのは怖いな、一人が知れば皆が知っている。色恋沙汰は特にな」
「そうですか……いえ、そうですね」
「ふふ、潜入のおかげで、宮中の恋愛事情には詳しくなってしまったよ」
自分は色事に疎いくせに、こうやって人をからかうのはお好きなのだ、と夕華は口を尖らせる。
「女官たちが恐らく、最も興味があるのは梨由様と翔呀陛下のお話ですよ。女官たちに話題を提供なさったら如何です?」
「いや、それは……」
梨由の顔がサッと曇った。
何かマズイことを言ってしまっただろうかと狼狽える夕華に、梨由は呟くように言う。
「それはもう、無理かもしれんな」
その頃、翔呀は自室に一人こもって蕗春に聞いた話を思い出していた。
彼は言った。
「嗚呼、陛下は何もご存知ないのですね——梨由様の事も、そして彼の事も」
翔呀の質問に対する、それが答えだった。
そして、その質問というのは——
「梨由は如何してあんなにも……弱いのだ」
たった一言。けれど重要な意味を持つ、一言だった。