軍師皇妃は心中を乱す
長らくお待たせしましたm(_ _)m
皇妃である梨由が表にあまり出なくなってから、二十ほどの日が過ぎた。
「琳々、ちと此方を手伝っておくれ」
「はい」
声を掛けてきたのは、梨由よりも十は年上であろう女官、夏硝だ。このところ梨由が最も親しくなった相手だった。
ふっと垂れてきた汗を袖口で拭う。
その拍子に荒れてしまった手が視界に入った。
梨由らの主な仕事は宮の掃除だ。そのせいで綺麗だった手はあかぎれて赤くなり、もう化粧も要らないほど、それは掃除を任される女官然としていた。
夕華がそれを見てひどく嘆いたのを思い出し、梨由の口元が僅かにほころんだ。
全ては順調だ。依然として梨由の潜入が気付かれる様子もない。喜ばしいことである。
先日、翔呀と二人残された折のことを問い詰められた時は困ったが、何とか誤魔化すことができた。
皇妃の部屋に秘密で花を飾ってくれという頼みだったと言えば、何と仲睦まじいこと、と嘆息された。
問題はない。ないのだが、然し何ら特別な情報を得られていないことも確かだった。
——行動を起こすべきか?
そう考えもしたが結局、現状維持に努めていた。無理に危険を犯すのは得策でない、そう判断したのだった。
そうして普段と変わらず壁の木の細工模様を磨いている時、ふと思い出したように夏硝が口を開いた。
「そういえば、今日も皇妃様はお姿を見せられなかったって」
「ええ、その様ですね」
「あのお噂は、矢っ張り本当なのかねぇ?」
「お噂?」
「あんたも、聞いたことくらいはあるだろう? ほら、皇妃様が……」
「しっ」
言いかけた夏硝を、他の女官が制した。その表情にはひどく苦さが混じる。
「こんな所で、滅多なことを言うもんじゃあないよ! 誰かに聞かれたら如何するのさ!?」
「あ、ああ、そうだったね……」
そこでハッと思い至ったらしい。此処は確かに宮中である。
周りを見回して、夏硝が声をひそめた。
「琳々《リンリン》」
「あの、えっと……」
「噂の事はまた後でね」
「はい」
梨由は頷いたが、その噂が何かは既に知っている。
曰く、皇妃様は毒を飲まれたのだ、と。
そもそも梨由が流した噂である。
こっそりと、 ひっそりと、然し、ひろく凡ゆる者へと。
そうして水面下で揺れていた“毒”の噂は、いつしか徐々に水上へと泳ぎ出ていた。
……仕組んだものが誰にせよ、話が広まれば動き辛かろうというのが梨由の考えだ。
事実、毒の茶は十日ほど前から止んでいる。
それが噂によるものかは、流石に梨由の推測できる域ではない。
——まぁ、ここまで早いのは予想外だったが……何処の国でも女の噂好きや情報の速さには舌を巻くな。
梨由が自分も女であることを棚に上げて、そんなことを思う。
あまりに皇妃が表に出ないためか、毒で肌が爛れられただのと一部誇張はされているようだが、その位ならば構わなかった。
むしろこの荒れた手を誤魔化し、戻す時間を稼げそうなものだ。
そうやって手をかざしていれば、何を思ったのか夏硝が梨由をちょいと手招いた。
「……? 何でしょう?」
「あんた、手が痛いんだろう」
そう言って見せたのは浅く口の広い陶器の容れ物だ。
中から覗いている薄黄色に、梨由は思わず目を見開いた。
「え、此れは……」
「これね、前に安く手に入れた膏だが、これが結構良いんだ。あんたにあげるから、お使いよ」
「然し」
「いいからさ」
ギュッと梨由の手に握らせて、夏硝は笑った。
これは膏といっても軟膏、たとえ安くなっていようと薬の一種だ。決して容易く手に入るものではない。
だけれど、それは民にとっての話だ。
梨由ならばこれよりも上等な薬を直ぐに手に入れられるだろう。
だからこそ、それが辛い。
「何故、私なんかにこんな」
「なんかって、そんなこと言うものじゃないよ。良いじゃないか、可愛い後輩にちょっとした贈物くらいしたって」
「けれど……!」
「良いから、貰ってくれよ」
握らされたその手の温もりと陶器の冷たさが妙に染みて、梨由はそれを離せなかった。
「……有難う、ございます」
「ああ。ほら仕事に戻ろうか」
「是……」
薬を懐にしまう。民に交わるなと翔呀に言ったのは玲瓏だが、真実それを最も渇望していたのは梨由だった。
——本当なら、出来ることなら。梨由は皇族や軍師としてでなくただの一平民として暮らしたかった。
身分の柵もなく国の重みもなく生きたかった。
この職場での触れ合いは、梨由にそんな感傷を生んでいた。
何もしないのは、本当に危険を犯さぬためなのかと自問すらさせない程に。
そう、つまり油断していたのだ。
微温湯のような日々に、一時の安穏に。
それを梨由が悟ったのは、その晩のことだった。
その晩は、翔呀が久し振りに尋ねてくることとなっていた。
宮に勤める女官には二種類いる。
住み込みで働く者と、そして近隣に住まい朝早くに働きに来る者。
梨由は後者に混じって宮を出た後、翔呀に教わった隠しの通路で中に戻っていた。
明かりに火を灯しながら、翔呀が来るならば仮面と軍戯を用意しなければならないことに思い至った。
しまっていた盤を取り出す。表面には薄らと埃が積もっていた。
仮面と軍戯の一式を机に置けば、そこにあったもう一つのもの——昼に夏硝から貰った軟膏の容れ物に目がいく。
梨由の目が歪み、揺れた、その瞬間だった。
扉の開く音ともに、その人影は梨由に迫っていた。
「なっ……!」
姿は、顔は、明かりの逆光でまるで見えない。唯一捉えた火に煌めく刃の一閃を、梨由は身を捩って必死に避けた。
床に転倒し、グッと声が出る。何かが割れる音がしたが、確認している暇はない。
混乱の中、それでも梨由は思考していた。
——入り口には人がいたはずだ。声もなく扉が開けられたということは、その者達は少なくとも気絶している。
刃の速度は決して避けれぬ程ではない。その範囲とて、むしろ狭い方だ。女だろうか。
迫る刃を避ける。襲撃者は逆光だからでなく、黒い布を着けているために顔が見えなくなっていた。
——女であるなら毒の者と同じ確率が高いかもしれぬ。ならば、毒はあくまで囮? 此方の襲撃の方が本命の暗殺か?
ともかく、武器を、否、先ずは仮面を……!
梨由の手が枕下に隠していた短刀に伸び、反対の手が仮面に伸びた。
刀をつかむ、そして、仮面に届きそうになったその時だった。
「ぐは……ッ!?」
強い衝撃。
手に持った獲物でなく、脚による、単純だがそれ故に有効な蹴り。
その威力に、梨由は一瞬、呼吸を忘れた。その体が吹っ飛ぶ。
「がっはぁ……!」
壁に当たって、背中に痛みが奔る。
今の衝撃で、折角掴んだ短刀も何処かへと飛んでいた。
揺れる灯火。襲撃者はゆっくりと、獲物を追い詰める狩人のように梨由に迫っていた。
——手が、ない。手がない。打つ手が、ない。
逃げなければ。逃げなければならない。何処へ?
嗚呼、お願いだ——
「助けてくれ、」
その時。梨由は確かに誰かの名を呼ぼうとした。然しその名が誰のものであるかは、分かることはなかった。
「梨由!」
翔呀が、扉を開け放ち入ってきたのが、ちょうどその瞬間だった。
襲撃者は翔呀と梨由の間で視線を行き来させ、そして翔呀へと向かった。
初撃はやはり武器によるもの、翔呀はそれを容易く避けた。
「待て! 其奴はそちらの刃よりも……!」
梨由があの一撃を思い出して声を上げかけたが、時遅く、既に蹴りはまさに翔呀に当たろうとしていて——
当たらなかった。
「……っ!? !」
襲撃者の声にならない悲鳴が上がる。
翔呀は、蹴りが当たる寸前にその脚を掴み、そして。
軽く持ち上げて、床に叩きつけた。
ドォン、と響く音。
それは一瞬の出来事で、梨由は思わず口を少し開いたまま、出すべき言葉を見つけかねていた。
「おいおい……」
翔呀が声を上げる。
驚きと、そして困惑の強い、彼らしからぬ戸惑った声だった。
背を向いていたその体が梨由に向く。瞳が梨由のそれと合って、梨由は分かった。
彼が今、最も困惑しているのが何かということも。
——見られてしまった。知られてしまった。悟られてしまった。
梨由の心中で、そんな言葉が落ちる。
上を向けぬ視線が目にしたのは、割れてしまった陶器の容れ物。夏硝がくれた、気遣いの贈物。
「此れは一体どういうことなんだ……?」
——もう駄目だ。ああ、やはり私は逃げられない。この血と運命からは。
梨由がそっと更に目を伏せれば、眦を涙が溢れて伝った。
もう一度、目を広く開ける。
翔呀の視線を受け止めて、揺らがぬように心を抑えて。
「なぁ、お前……」
「陛下よ」
冷たい、鉄のように冷え切った声だった。
それでいて。
「出て行ってくれ」
今にも泣きそうな、悲鳴のような、言葉だった。
書きながら思ったことですが、来てしかも助けたのにすぐ追い出される翔呀が哀れです。