軍師皇妃は軍戯を愉しむ
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一応初夜ですが、そのような描写は無いのでご安心を。
軍人皇帝。
それが蘭杳国67代皇帝、琅 翔呀の通称だった。
勇猛果敢に敵に向かっていく彼は、味方にとっては畏れと憧憬の、敵にとっては恐怖と戦慄の的である。
然し乍ら、その軍人皇帝は今——動揺を隠せないでいた。
「蘭杳皇帝よ、丁度良いところに来た」
「……どうなってる?」
翔呀は今、皇妃、つまり梨由の部屋を訪れていた。
所謂“初夜”であるのだが……そこに居たのは梨由であって、梨由でなかった。
獅子の鬣のような飾り毛と、その中におさまった奇妙な面。
小柄な体躯ながら、威圧は大の男に引けを取らない。
見れば見るほど、それは玲瓏として聞いていた姿と一致した。
此奴が玲瓏というのは確かに真らしい、と翔呀は思ったが、それとはまた別の話である。
何故女を訪れたはずが、男装の軍師を前にしなければならないのか。
「……女、一体どういうつもりだ」
「女ではない」
間髪を入れず、梨由は否定した。
「今の私は軍師、玲瓏である。
付け加えるならば、もう一人の私とて、女ではなく梨由」
と、仮面の奥の瞳がこちらを睨み返す。
「他に妻の無い貴殿からすれば、梨由は正妻に当たるのだ。
他国の賓客を招いた席で、女、女と呼ぶ気か」
「その位の分別はあるに決まっているだろう」
「其れは良かった」
本当に心底安心したように梨由、否、玲瓏は言う。
つくづく可愛げの無い、と思うと同時に、翔呀は何処か面白がっている自分に気が付いた。
口調も態度、梨由の時より遥かに砕けている。
にも関わらず、それを当然と思わせる雰囲気が其処には在った。
——此れが玲瓏か。
翔呀は妙に腑に落ちるのを感じた。
「では玲瓏よ。丁度良いというのは何だ?」
「うむ? 噫、軍戯でもやろうかと思ったのだが、相手がいなくてな」
「軍戯か」
翔呀も軍戯には幾らか覚えがある。
と言うより、皇族ならばやったことがあるのは当たり前なのだ。
しかし、
「何だ、この駒は。この賽子も見たことがないぞ」
卓に置かれた軍戯盤の上には、見慣れぬものが多くあった。
「それは私が新たに定めたものだな」
……最強の軍師は、軍戯とて唯の軍戯のままにはしておかぬらしい。
説明しよう、と言って玲瓏はまず、裏表のある硬貨をとった。
「此れで攻守を定める。一方が表と言い、もう一方が裏と言い、当てた方が攻手だ」
ぴん、と硬貨を弾く。
手の甲で受け止めて、翔呀をじぃと見つめた。
「表裏、何方ぞ」
「……表」
「では、私は裏で」
ゆっくり手を外すと、表だった。
「俺が攻手か」
「左様だ」
それから玲瓏は賽子を見せた。
「次いで此れで天候を定める」
「天候?」
「そうだ。雨天ならば攻手は“奇襲”として、何処かで一手多く駒を進められるが、晴天ならば防手が一手多く、曇天ならば何も無しだ。賽子は防手が転がす」
玲瓏が転がした賽子は、
「曇天だな。何も無し」
賽子と同じ記号の札を場に置く。
此れが天候を決めたということなのだろう。
「そして……あとは駒の説明だな」
「ああ」
「歩兵、騎兵に加えて、歩兵長と騎兵長の駒を作った。それぞれ普通よりも遠く動けるが、代償も多い」
例えば、と玲瓏は続ける。
「歩兵長、騎兵長、それから将軍、副将などもか。それらの重要な駒は、相手の物を取れば自分の駒として使える」
「……反対に言えば、取られれば相手に使われるということだな」
「その通りだ。一度試しにやってみよう」
と言ってやってみたものの、結果は勿論、翔呀の惨敗である。
終わるや否や、玲瓏は初手から並べ直していく。
「ここだ。ここで敢えて将軍を動かす必要は無かった」
「だが、将が動かずしてどうする。上が動かねば兵はついて来ぬぞ」
「違うな。将が濫に動けば兵は混乱する。何より、危険が大き過ぎる。
若しも動かすと言うなら、そうだな、騎兵か歩兵を伴って動くことだ。さすれば危険を下げられよう」
玲瓏の分析は的確だった。
敗因、改善点を端から挙げていく。
「成る程。燕青国が小国ながら強い訳が分かるな」
翔呀がそう言えば、
「此れでも未だ規則は少ない方だぞ。本来なら、此れに陣形、それから捕虜の制が加わって盤上だけで無い戦いになるからな」
と玲瓏は事もなげに言った。
思わず一瞬、翔呀は言葉を失う。
此れで易しい方なら、本来はどんな難度のものなのか。
盤上に留まらぬ戦いというのは、予想すら付かない。
舌戦でも繰り広げるのだろうか。
「……燕青国では誰もがそのような軍戯をしているのか」
「否、私の教える軍塾でだけだ」
その言葉で幾らか安心する。
玲瓏の塾と言えば、他国にも知られる名塾だ。
それでも、
「流石だな」
「そうでも無い」
翔呀の珍しい褒め言葉にも、玲瓏の表情は暗かった。
「……幾ら下の者が賢かろうと、上が愚昧では話にならぬ」
「愚昧か」
愚昧だ、と玲瓏は言い切った。
翔呀は自分の中にあった疑念を確信に強めた。
「一つ、問うても良いか」
「何だ」
「今宵、わざわざ玲瓏として俺を迎え、こうして軍戯をしたのは何故だ」
「……特別に理由が要るのか?」
「要るに決まっておろうが」
そうか、そうだなと玲瓏は呟く。
「試してみたかったのだ」
「俺をか」
「そうだ。梨由の夫として、或いは玲瓏の主として相応しいかどうか」
どこまでも不遜な女だった。
国から出され、落ち込むこともなく……或いは自棄になっているのかとも思ったが、それにしては、梨由の瞳は冷静すぎた。
「それで——結果はどうだ」
「結果?」
「俺を試したのだろう、その結果だ」
「ああ」
思案げに玲瓏は顎に手を当てた。
それから、
「……貴殿は随分と慕われているようだな」
と徐に言った。
「そうか?」
「私が挑発した時、側近らが本気で怒った。行動も速かった上、貴殿の制止で直ぐに剣を収めたな。良く訓練されている。
何より国の長が信頼に厚いのは良いことだ」
軍師としては大事な事なのだろう、少し嬉しそうだった。
「然し、」
と食指を立てる。反対の手は器用に盤上の駒を並べていた。
「公衆の場で皇女を付属品扱いするのはいただけぬ。蘭杳国の男女平等宣言にも反する」
根に持っているのかと些か可笑しく思ったが、仮面では表情も読めそうにない。
玲瓏は続いて指を二本立てた。
「敵国の前で“俺”と言ったな。公私は厳格に分けねばならぬ。人払いよりも、或いは隙があった。
それに、濫に素を見せることは自らの権威を下げることになりかねん」
「其れはお前の持論であろう」
翔呀は比較的、民に親しむ皇帝であった。
思わずそう反論すれば、玲瓏は僅かに声を低くする。
「持論であるとも。経験に基づく持論だ。民と同じ目線を持つと言えど、皇族は民に混れぬ。
下手に覗き込めば痛い目を見るぞ」
「……成る程」
恐らくだが。恐らく、この軍師は本当に経験があるのだろう——痛い目を見たことが。
だが然し、と玲瓏は立てていた指を曲げながら、
「総合的に見れば、合格、であろうな」
と言ってにやりと笑った。
「……全く、不遜な女め」
不機嫌そうにそう言ったが、翔呀の表情も又、緩んでいる。
——やはり、この女は面白い。
腹立ちも、苛立ちもする。
然し、今まで見てきたどの女とも違う。
この翔呀、自他共に認める物好きである。
その辺り梨由、或いは玲瓏とは相性が良いと言えなくもない。
「さて、問答は此処までだ」
と、空気を変える様に梨由は声を発した。
丁度駒を元の様に並べられたようだった。
「うむ?」
「もう一局交えようでは無いか、翔呀皇帝陛下よ」
仮面の奥の瞳が、好戦的に煌めく。
翔呀はその挑むような視線を、同じく挑発的な笑みで向かえた。
「受けて立とう、軍師玲瓏」
「——それで、朝まで軍戯を?」
「噫、お蔭で寝不足だ」
「それは皇帝として如何なものかと」
そう遠慮も無しに言ってくるのは、彼の一の側近にして乳兄弟、清豹である。
「分かっている。俺も熱くなり過ぎた」
「貴方様が反省しなさるなど珍しいですね」
「……口が過ぎるぞ」
清豹を睨み付けるが、相手は慣れたものでその視線を物ともしない。
「して、彼の方が玲瓏殿であるというのは間違い無いですか」
「それは確かだ。寧ろ、予想以上に賢い」
そう言った所で、翔呀は玲瓏の言葉を思い出す。
「然し……幾ら下の者が賢かろうと、上が愚昧では話にならぬ、か」
「梨由様のお言葉ですか」
「本人に言わせれば、玲瓏の言葉だがな」
翔呀達から見れば僥倖に違いないが、相手には損失の様にしか思えぬ和平交渉。
此方が出したのは自治の認可と、攻撃を受けた時に援助を送ることのみ。
然し、彼方は最強の軍師と、継承権は低いながらも正統なる皇女。
二人は同一人物でこそあったが——
「やはり、玲瓏殿がこの国に渡されたのは……」
「権力争いの敵を減らす為だろうな」
翔呀の瞳が険を帯びた。
——権力にしがみつく者は、どの国でも変わらないということだ。
清豹は、そうでしょうね、と頷いた。
「唯の軍師の時すら、彼の方を王にと言う者が在ったと聞きます。それが王族と知れば、益々その声は強くなりましょうから」
「だからとて、権力争いで最強の軍師を自ら手放すとは……確かに阿呆だ」
そう言えば、清豹はクスリと笑いをもらした。
「梨由様の謂う通りと言うなら、貴方様も阿呆ということになりますが」
「黙れ、清豹」
その眉が寄るのを見てとって、清豹は漸く表情を引き締めた。
それで、と言葉を続ける。
「彼の方の扱いは如何されるおつもりです」
「如何とは」
「軍師として扱われるのですか、其れとも皇妃としてですか」
ふん、と翔呀は鼻を鳴らした。
「両方だ」
「両方……?」
「彼れは我が軍師にして皇妃。何方も捨てさせぬ」
「それは……」
「其の方が面白い。彼れの面白さを、敢えて潰すことは無いだろう?」
そこで清豹は、梨由の事を話す翔呀が何時にも増して楽し気であることに気が付いた。
「……気に入られたのですか」
「ああ、そうだな。気に入った」
清豹は一つ溜息を落とす。
——此の方の物好きは変わらない。
此の方に気に入られた事が、彼の軍師兼皇妃、ひいては此の国にとって吉事であれば良いが、と清豹は思った。
次回、「軍師皇妃は策を弄する」(仮)
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