軍師皇妃は潜入する
宮廷の隅で女官たちが掃除をしていた。
口元を薄布で覆い、床や壁の装飾を一つ一つ綺麗にしていくのだが、いつしかその手が止まってしまっていた。
何処の国であろうと、女は集まれば噂話が始まるものである。
然しそこに一人、居心地悪そうに縮こまる者が居た。
見兼ねたのか、女官の中で気を利かせるのが上手いと言われる奈星が声を掛ける。
「あら貴女、新しい方ね」
「え、ええ。その、よろしくお願い致します」
大袈裟なほどに頭を下げる彼女に、女官らはなんと初々しいこと、と笑ったが。
頭を下げたその女官もまた、顔を下に向けたまま……ニヤリと笑っていた。
「女官に変装して潜入とは。また梨由様も奇妙なことを考えられますな」
夕華が言えば、梨由はちと事情があってな、とぼやく様に返した。
「夕華、顔立ちが蘭杳国の者に似るように化粧を頼む」
「ええ」
「目立たぬように、だぞ」
「……はい」
その梨由の釘を刺す言葉で、どこか嬉しげであった夕華の顔があからさまに曇った。
化粧を嫌う梨由が、何かの作戦の為とは言え、こうして化粧を頼む機会は稀なのだ。
出来れば存分にしたかったという思いと、どうせ鏡を見られないのだからと思い切り綺麗に仕上げたくなる思いが、夕華の中で争っていた。
その時。
「右軍精鋭が一人、蕗春。入室しても宜しいか」
「どうぞ」
夕華が遮るより早く、梨由は少し低く声を張って蕗春を招き入れた。
「女性の支度の最中に、入室する者も入室させる者もありますか」
夕華は戸が閉まるや否やそう言ったが、
「女官の服を借りて参りました」
「ああ、ありがとな」
と、二人にはどこ吹く風である。
双方、これが女性の支度という意識がほぼ無いのだ。あくまで、作戦の為の準備段階に過ぎないのだった。
夕華は一つため息を落とすと、命令通り、蘭杳国風の大人しげな顔立ちに見える様に化粧を始めた。
梨由の美貌はより鋭利に仕上げる方が引き立つのに、という不満は消せなかったが。
「然し蕗春、随分と遅かったな」
「その、初めに言いようを間違えまして……変な誤解を受けてしまい、解くのにいささか時間がかかりました」
「誤解?」
はい、と困った様に蕗春は頷いた。演技は得意な蕗春ではあるが、決して機転がきくというわけでも無いのである。
「何と言って借りようとしたのだ?」
「着せたい者がいる、と。そこから己が妙な趣味を持っていると思われたようで……」
「ふふ、確かに女にあえて女官の格好をさせたがる男など、変わり者には違いあるまいな」
「だから、違うんですって」
「分かっているさ」
と言いつつも梨由は続けて笑った。
「それで、誤解は解けたのか」
「勿論。趣味は人それぞれであるよな、と言われましたが」
それは解けていないのでは? と梨由も夕華も思いはしたが、口に出しはしなかった。
「然し、梨由様。大丈夫なのですか? 女官に紛れてもし見つかれば……」
「それはあるまいよ」
「何故です。もう披露目も終わってしまったのですよ」
「だからこそだ。まさかこのような所に、と思うであろう?」
意表を突くのが私の得意技だ、と梨由は小さく鼻を鳴らした。
「……潜入する時の名は如何するのですか。流石に本名を使う訳にはいかぬでしょう?」
梨由はニヤリとばかりに笑った。
「問題ない。既に決めてある。名前は……」
「琳々、此方も手伝っておくれ」
「ああ、はい」
口元を薄布で隠しながら、梨由は他の女官に劣らず働いていた。
手もあかぎれていると見えるように些かの化粧を施している。
違和を感じさせぬように、細心の注意を払ったつもりだった。
ふと、近くで同じ作業をしていた女官が、梨由に話しかけてきた。
「それにしても、琳々とはまた変わった名だね」
「そうでしょうか」
「先日、陛下に献上された熊猫がそんな名前じゃなかったかい?」
それは漣々だろうよ、と誰かが言えば笑いが起こった。
どうやら琳々という名は蘭杳国では変であるらしい、と梨由は思ったが、実際のところ、燕青国においても変である。
「やっ、ちょっと見て、陛下が此方を通られるかも!」
遠くに翔呀の姿を認めたらしい、女官らの中でも若い者たちがキャアと黄色く歓声を上げた。
普段からよく会っている梨由には、そう騒ぐ理由はいまいち分からなかったが。
そして来るな、と願っていたのだが、翔呀は此方へと向かってきた。
チラッと目を遣ると、一瞬翔呀の視線と交錯する。
まずい。梨由は、不自然にならぬよう慌てて逸らした。
翔呀の足音が段々と近づいてくる。
女官らは壁の隅に寄り、腕で作った輪の中に頭を沈めるようにして、頭を下げた。
早く通り過ぎろ。それだけ頭の中で唱えたが然し、やはり梨由の願いは叶わないらしい。
「おい、面を上げよ」
翔呀の足は、梨由の正面で止まっていた。
上げよ、と促すように、皇帝に付く者たちが言う。
ちっ、と本当に小さく舌打ちをして顔をあげれば、翔呀の顔が満面に映る。
疑問と共に、見つけてやったぞという得意げな感情が表情に出ていて、梨由は顔をしかめそうになるのを必死で堪えた。
「皆、余とこの者を残せ。他も人払いせよ」
「え、へ、陛下?」
「二度は言わん」
はぁ、とおずおずと周りのものたちは従った。
初日のことを何ともなく思い出したが、今回のはある意味真逆である。
正直、梨由は今むしろ誰かにいて欲しい位の気持ちだった。
「何故このような場所に、そんな格好でいるのだ?」
梨由は答えるつもりはなかった。
そもそも言えるはずもない。
梨由がここにいるのは、ただ単に——翔呀のことを、少しでも多く知りたかったから、などと。
その為、梨由は返答を避けて質問を返した。
「何故、分かった?」
「妻を分からぬ夫が居るとでも……」
「そういった冗談は好かん。何故だ?」
翔呀は冗談では無いのだがな、と面白がるように笑った。
「そうさな、強いて理由を挙げるなら、お前の目だ」
「目?」
「何にも侵されぬような、強く……綺麗な瞳をしている」
「綺麗? この目がか?」
「ああ」
「……この誑しめ」
梨由はそれだけ言うと、身を翻した。
照れか、と思わず翔呀はその手を掴んで止めようとしたが、彼の手は空を掻いた。
追いかけることは、何故だか出来なかった。
梨由は翔呀の視界から逃げると、壁にもたれてズルズルと座り込んだ。
「私の目が、綺麗だと?」
梨由はその目を手で覆った。
声は震えていた。心細げに、震えていた。
「そんなはずはあるか」
声の震えが消えていく。
冷えて、凍っていく。
「私の目など、既に穢れきってしまっているさ」
ふと、蕗春は思い出した。
そう言えば、女官の服を借りに行った時、衣服を管理する者が奇妙なことを言っていた。
今日は女官の服が随分多く必要とされるのだな、と。
所戻って、宮中の隅。
奈星は掃除をしながら、あることに思い至って口を開いた。
「さっきの新人さん。貴女、名前は何と言うの?」
彼女は笑った。
「私の名前は、胡牒と申します」