軍師皇妃は衣装合わせをする
薄く白粉をはき、唇に紅をさす。
ほんのり頬を朱に染めて、瞼を薄く色付ける。
化粧。
それは女が美しくなっていく過程。
優雅で優美でな、喜ばしき瞬間——
のはずであるが。
「放せ。解け!」
されている本人は椅子に縛り付けられて、今にも暴れんばかりに不機嫌だった。
「……解けば逃げられるのでしょう?」
「当たり前だ」
「では駄目ですな」
化粧を施しているのは、梨由とともにこの国にやってきた女官、夕華だ。
流石に梨由の女官なだけあって、なかなかに肝の据わっている……と言うより、据わり過ぎて、もはや変人の域である。
「そもそも、今日は披露目用の衣装合わせだろう? 何故化粧までせねばならん」
今日は、二日後に迫った梨由のお披露目に向け、衣装合わせをしているのだった。
「あら。化粧合わせも含めて、衣装合わせですから」
「知ったことか」
梨由が言えば、夕華はハァと溜息を吐く。
「梨由様は、時に主義や手法や気性さえも変えて策をなされると言うのに……どうして化粧に関してはそう頑ななのです」
「する意味が分からんからだ。 序でに言っておくがな、先程のものは全て玲瓏の時の話であって、今の梨由の話ではない」
「頑固ですなぁ……」
と話している間も夕華の手が止まることはない。
梨由の黒く艶めく髪を、茶に浸した櫛で梳き、簪で止め上げていく。
「惜しいですなぁ、梨由様。折角美しい髪をしてらしていると言うのに、こんなにも短いなど」
「本来ならば、この様な邪魔な髪、肩口まで切りたかったものを。お前がせめて腰まではというから残したのだぞ?」
「妥協点です」
いや、たとえ短くとも、付け毛や鬘で補えば良い話なのだが……。
梨由様に他の髪を付けても悪目立ちしてしまいますなぁ、と夕華は再び溜息をついた。
それこそ知ったことか、と苛つく梨由である。
そもそも、梨由にとってこの程度の束縛、逃げれぬことはない。
ただ、関節を外さねばならず、また梨由とて縄抜けに慣れてはいないので、どうしてもその関節の周りが腫れてしまうのである。
もちろん、それだけならば何ら問題は無いのだ。かなり痛いため出来ればやりたくないと言うのはあるが、やらねばならぬ状況ならするだろう。
然し、もしも玲瓏と梨由、その何方かでなく何方もで誰かに気づかれてしまえば、それは疑いの種となり得る。
故に、逃げられないのである。
結果としてこの女官、奇せずして玲瓏を完全に追い詰めているのだった。
「さて、この様な感じでしょうか。梨由様、鏡はご覧に……なりませんね」
「噫、見たくもない」
梨由はあまり女扱いされるのを好まない……と言うより嫌う。
夕華は其れが残念でならなかった。
ならば、とそれを改善すべく、一つの案を強行することにした。
「梨由様、陛下をお呼びいたしましょう」
「なっ!?」
「陛下に見ていただいたならば、そのお考えも変わるやもしれませぬから」
夕華はにっこりと微笑んだ。
然しその笑みがどことなく黒いのは、恐らく勘違いではない。
「おい、それは……!」
「では、お呼びして参ります」
パタン、と無情にも戸は閉じた。
これは梨由にとって、非常に嫌な展開である。
梨由は翔呀を認めているが、認めいるからこそ、この様な格好を見られたくない。
逃げよう。
梨由の決断は早かった。
関節を外すのはやはりまずい。ので、部屋に隠してある短刀で縄を切ることにする。
「うっ……くっ……!」
椅子に括られたまま動く姿は実のところ物凄く滑稽ではあるが、本人は至って真剣だ。
シュパッと音がして、縄が切られて落ちる。
戸に椀を押し付けて耳を澄ませば、外が僅かに騒がしい。
パタパタと足音が行き交っている。
——これでは、外に出れば直ぐに見つかるな。ならば……。
人気のない場所の方にある玲瓏の部屋を使おう、と梨由は決めた。
本来なら、玲瓏の部屋からの逃げ口として梨由の部屋があるのだが、まさかこの状況で、このように使うことになるとは、さすがの軍師でも予想外だ。
化粧を落とし服を変え、玲瓏の面を付けるでもよし、或いは予備に隠しておいた女官の服を着て周りにまぎれるでも良い。
ともかく、早く逃げねば。
秘密の通路を進みながら、そんなことを考えていた梨由は……玲瓏の部屋の中に、今最も会いたくない人間の姿を認めた。
翔呀の瞳が大きく見開かれていた。
「お前……なぜ、ここに……!?」
梨由の姿よりも玲瓏の姿の方を見ることの方が多い翔呀であるし、その上この様に着飾った様子を見たことはないだろう。
然し、梨由もまた驚いていた。
辨冠、そして龍袍……皇帝にのみ許されたそれらを、翔呀が着たところを見るのは初めてである。
梨由がこの国に来た時とて、翔呀は辨冠でなくただの冠だった男だ。
梨由と同じく嫌がって逃げて来たのだろう、服はあちこち乱れていたが、その面影は何処か——
「父上……」
父の姿に重なって見えた。
唖然と呟いた梨由だが、
「父上?」
と翔呀に聞き返されてハッとした。
「否違う、今のは……」
梨由の慌てようが、かえって今の言葉が何の計画でも無い、素のものであることを示していた。
こんな様子は本当に、二度と見ることはできないだろう。
翔呀は口の端を釣り上げた。
「父上、と呼ばれるとはな」
フッと笑えば、梨由の顔が悔しげに歪む。
「だから、違うと言っておるだろうが!」
「悲しいぞ、我が妻よ。これでも俺は夫であるのだがな」
「はっ!?」
巫山戯てそう言えば、梨由の顔は怒りと照れが入り混じって、化粧のせいでなくほんのりと赤くなる。
なんて愉快だ。
仮面を付けていない時の梨由の、その素の姿は……翔呀の思っていたよりも遥かに年相応の女子のものだった。
「その衣装、良く似合っているぞ」
「急に何だ!」
気恥ずかしさを誤魔化すためか、叫んでみせるその様子すら、今は微笑ましく思える翔呀である。
と、そこでふと気づく。
「それにしても、今日はあの監視はいないのだな」
「着替えの際に、男を入らせる道理があるか。そもそも、あれは玲瓏の護衛だ」
「まぁそうか。ふむ」
それを聞いて何処か嬉しそうになる翔呀に梨由は首を傾げた。
この機嫌の良さに戸惑っているのだ。
「陛下よ、今日は何か機嫌が良いな……気味が悪い」
「気味が悪いとは何だ。と、おい、お前」
「ん?」
「袂が——」
いきなり、翔呀の手が梨由の袂に伸びた。
「っ!?」
パン、とその手が弾かれる。
梨由の顔は、驚愕と動揺に満ちていた。
「な、何をする……!?」
「は? 何とはなんだ。ただ、直そうとしただけで」
そこまで言って、翔呀は梨由の反応の意味を理解した。
この状況、この密室。
確かにそのようなことはあり得るかもしれないが、然し。
「お前……存外初心なのだな」
瞬間。
梨由の顔が赤くなったかと思うと、翔呀の腹に強い衝撃が走った。
言うまでもない、梨由の拳である。
「なにをする……」
「た、戯けたことを言うからだ!」
そのまま、梨由は部屋の外へと飛び出した。
服を変えることも忘れている。
「ははは、何だ彼奴……なかなか愛いところもあるではないか」
翔呀は痛む腹を抑えながら、壁にもたれて笑った。
軍師皇妃、軍事には強くとも……色事には滅法弱いらしかった。