軍師皇妃は朗報を受け取る
「何が起こったのだ」
と翔呀は声を上げた。
あの訓練のすぐ後。
用事と、それからどうなったのかを聞きにきてみれば……。
梨由の部屋に来て驚かされるのは、初夜とで二度目である。
まぁ、それも無理のない話ではあった。
険悪以外の何物でもなかった蕗春に、玲瓏が——
「もう少し右だ」
「右ですか?」
「ああ、そこだな」
「ここですね」
肩を揉まれているのである。
「改めまして、右軍の精鋭部隊に所属している蕗春です」
蕗春は一旦玲瓏の肩揉みの手を止めて、翔呀に礼の形をとった。
「ああ、知っている」
「光栄です。ちなみに、玲瓏様の隠密としてこの国に忍んでおりました」
「……それは知らなかった」
知られてたら困りますよ、と蕗春は笑った。
先刻までの鋭い印象は何処へやら、どちらかと言えば、温厚そうな青年である。
玲瓏も、いや今は仮面を外しているから梨由であるが、クククと笑いをもらす。
翔呀の驚きの原因の一つは仮面を付けていなかったことなのだが、なんてことのない、ただ肩を揉まれるのに邪魔だっただけらしい。
「然し、隠密ということは……ずっと玲瓏の部下であったと?」
「ええ、まぁ」
「いつからだ」
「五つくらい、ですかねぇ。己たちが買われた時からですから」
「買われた?」
聞き返せば、仮面を付け直した玲瓏から鋭い声が飛ぶ。
「買われた、でなく引き取られたと言え。私はお前たちの命を売り買いした気はない。
良いか、金で買われたと思って生きておると、そのうち金で自らを売り渡すのだ」
「はいはい」
「返事は一度だ」
そのやり取りだけで、随分と気心が知れた仲なのだと分かる。
蚊帳の外。
翔呀は何故かそれが癇に障った。
「おい、玲瓏」
「何だ」
玲瓏がは振り返らない。
その肩を引く。
「おい、此方を向け」
む、と一つ声を上げて、玲瓏の顔が翔呀の方を向いた。
その後ろで一瞬蕗春の顔が驚きに染まり、それからなんだか面白がるような笑みに変わる。
余計にそれが翔呀を苛立たせた、が。
「……おい、何なのだ?」
玲瓏の瞳に見上げられて、いや、と答える。
少し苛つきが収まった気がして不思議だった。
「その、あれだ、俺に明かしても良かったのか?」
「何をだ?」
「この男、蕗春が隠密だということをだ。やり辛くなろうに」
取り繕った言葉に、玲瓏は口元を緩めた。
「ふふっ、それは私の陛下への信頼の証だと思ってくれ。第一、陛下は隠密の動きを制限することなどすまいよ」
その方が、面白いからな。
自分のことを知り尽くしたように言う玲瓏に、翔呀は思わず笑みが浮かべた。
確かにその通りだ。
「では、信頼の証と言うから聞くが」
「何だ?」
「そこの蕗春は先程、己たちと言ったな。つまり、此奴以外にもいるのだろう、隠密とやらは」
「……ほう。耳敏いな、陛下。その通りだ」
そうか、と翔呀は呟いた。
咄嗟の話だったのだが、案外面白そうである。
「そいつらも此の国に?」
「否、方々に散らしているからな。他の国にいる」
「みな軍に入っているのか」
「軍だけではないさ。或るものは踊り子として、或るものは楽師として、或るものは学者として、或るものは文人として、其々他国に渡った」
ちなみに己は武人としてですよ、と蕗春が言うと、ちなみにだが、と玲瓏は微笑んだ。
「一人は側妃になり、一人は宮廷楽師、一人は相談役、一人は官僚になっている」
「側妃や宮廷楽師だと!?」
国の上層部も上層部である。
「……そうして見ると、蕗春、お前はあまり出世しておらんな」
「うわ、酷いですね玲瓏様」
玲瓏は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「して、陛下よ。このような刻に何用で?」
「む?」
「未だ宵でもなかろう?」
「ああ、蔡郭に会わせてやろうかとな」
「蔡郭……斉丞相か!」
前々から手配していたことでもあった。
斉丞相と会うことは難しい。
それはかの丞相の人嫌いに所以するというが、実態のところ、ただ他人恐怖症なのである。
玲瓏とて、名丞相と名高い彼に一度は会ってみたかった。
「玲瓏か梨由か、どちらとなら会うと!?」
「確か、玲瓏と言って——」
「何時だ!?」
「……この後でも構わぬそうだが」
「そうか! では今より準備してこよう!」
おい、と翔呀が呼び止める間も無く、梨由はガコンと玲瓏の部屋へと続く隠し戸を開けて去った。
蕗春と二人、 部屋に残されて気まずい空気が流れた。
「そんなにも会いたかったのか……?」
「会いたかったのでしょうね」
答えたのは蕗春である。
翔呀が訝しむように視線を向けると、ニパッと音がつきそうな笑みを返された。
「斉丞相って、玲瓏様の師匠に当たる方が褒めていらしたお方なんですよ」
「師匠?」
「ええ。玲瓏様はあの方から強く影響を受けてらっしゃるので」
「それだけか?」
「は? ……まぁ、それだけだと思いますよ」
ならば良いが、と言ってから、何が良いのか疑問な翔呀だった。
そんな翔呀の内心を知ってか知らずか、蕗春は立ち上がって一つ伸びをした。
主人に似て、遠慮の無い奴である。
「さて。監視役となったからには、己もそろそろ行った方が良いですかね」
「そうだな」
なんだか、やはりこの蕗春の存在は少しばかり翔呀を苛つかせる様だった。
ああそうだ、と同じく隠し戸に消えようとしていた蕗春が振り返る。
「もしも玲瓏様を悲しませる様なことをしたら、許しませんからね」
一国の皇帝に向かって。
一介の兵士、否、一人の隠密は言い放った。
翔呀の顔が歪む。
——其れは此方の台詞だ。
「お前こそ、我が皇妃に手を出すつもりならば……覚悟しておけよ」
睨みつけてそう言えば、蕗春はひどく驚いた顔をした。
「手を出す? 玲瓏様にですか?」
「ああ」
プッ、と吹き出した蕗春に、翔呀は眉を寄せた。
「何が可笑しい」
「だって、あり得ないですよ。あくまで、彼の方は己の家族みたいなものですから。然し……安心しました」
「どういう意味だ?」
首を傾げる翔呀に蕗春は玲瓏によく似た笑みを浮かべた。
「玲瓏様が思った以上に陛下を信頼していて、そして、陛下が思った以上に玲瓏様のことを——であるようなので」
「……? 何だ、聞き取り損ねたが。何と言った?」
いえ、と蕗春は言い直すことなく微笑んだ。
「では、これで失礼いたします」
「おい待て! まだ話は——」
パタン、と閉まる戸に言葉を切る。
前言撤回だ、と翔呀は顔をしかめた。
蕗春は苦手というより……嫌いである。