軍師皇妃は軍と戦う 四
「聞けぃッ!」
玲瓏の声に、ビリビリと空気が震動する。
「知っての通り、私は玲瓏である! 燕青国の軍師であった!」
何を言うつもりだ、とその場にいた誰もが思ったことだろう。
兵たちにとって、玲瓏は今だ敵だった。本来なら、その言を聞こうともしない相手。
だからこそ、動けなくして、その言葉を聞かざるを得ない状況へと追い込んだのだが。
玲瓏は静かに言葉を発した。
「今者、私の中で燕青国は滅びた」
は、と声を上げたのは誰だっただろうか。
誰もそちらを振り向かなかったものだから分からない。
一人として、玲瓏から視線を外せるものはいなかった。
人目を惹きつけ離さない。
天性の才か、皇族の血によるものか。
玲瓏は言葉を続けた。
「私の座右の銘たる言葉、“亡国は以て復た存すべからず、死者は以て復た生くべからす”——本来の意味は違えども、此処で使うは誤りではあるまい。
我が内にて滅びし燕青国は、二度と蘇ることはない」
それはつまり、二度と燕青国には戻らぬと暗示していた。
「然れども失われた命は戻ることなく、其れを償うに我が命では到底足りぬ。ならば、」
と、玲瓏はそこで一つ息を吸った。
気を落ち着かせる為? 否、空気を引き締める為に。
仮面から覗く玲瓏の瞳は、爛々と煌めいていた。
「ならば、これから私はこの技を、力を、智を策を、全て此の国の為に使おう。百の命が失われたというなら千の、千ならば万の命を守り、救う為に生きよう。
……滅びた国も死した兵も、皆還ることはないのだから」
ここで、敵であったくせにと誰かか言ったなら、この玲瓏の演説は全て無に帰したかもしれない。
しかし玲瓏はそれをさせなかった。
いきなり、もう一人の仮面の男——翔呀の元へと行き、そして。
跪いた。
玲瓏の瞳と翔呀のそれとが二枚の仮面を介して交わる。
お互いにそれが笑みをふくんでいたことは言うまでもないことだ。
「今の言葉を以って、我が誓いとさせていただきとうございます……陛下」
なっ、と声が上がったのは、藜舜率いる左軍からだった。
直接戦った右軍の者たちは薄々感づいていたのだろう、驚いてはいたが納得の表情が見られた。
翔呀は楽しくてたまらぬと、その顔を歪める。
そして尊大に、傲岸でさえある様子で玲瓏の肩に手を置いた。
「軍師玲瓏よ。蘭杳国第67代皇帝、琅 翔呀の名を以って——その誓い、受けた」
けれど、それで終わりはしなかった。
「な……っ、納得が、いきませぬっ!」
そう叫んだのは、玲瓏が先刻その腕をひねり上げた青年だった。
「おい蕗春、陛下の決定だ」
「然し!」
青年の名は蕗春というらしかった。
嗜める声を跳ね除けて、蕗春はずぃと玲瓏に寄る。
「あの武術にしても、並のものではありませぬ。軍師などと言って、己たちを油断させておいて……」
「ほう?」
玲瓏は静かに立ち上がって、その鋭い視線を真っ向から受け止めた。
むしろ、蕗春の方が思わず怯んでしまうほどである。
「油断か。油断したから負けたと言いたいのか。油断しておらねば勝てたと?」
「そ、そういうわけでは……!」
「では、どういうことだ?」
「素性が分からぬものを信用できるか、と言っているのです! あの武術とて、何の流派のものかすら明らかでない!」
玲瓏の武術の特異性は、戦ったものは皆感じたことだった。
様々な武器を隠し持ちながら、その何れにも長けるもの……。
確かに怪しい、と玲瓏は自嘲するように笑った。
「だが、素性を明かす訳にはいかぬ。その為の仮面だ」
然し、と玲瓏は指を一つ立てた。
「敵を欺くには先ず味方から、と言うが、敵に隠すからとて味方にも隠せという道理はないな。では、一つだけお教えしよう。
私が使うのは——戦闘部族“虎煌”に伝わる武術だ」
“虎煌”。
その名を聞いた時、誰もの表情が一変した。
翔呀とて、戦闘民族というのがまさか“虎煌”とは思っておらず、顔を驚きに染めた。
「な、何故、そのような技を……」
蕗春の疑問の声も当然だ。
“虎煌”は、多くの人が住む原と呼ばれる平地とは違い、一般の人の侵入が禁じられた森、岳などのうち、森に住む民族である。
どの国にも属さず、また原の戦の一切に干渉しない。
不可侵不干渉、けれどその強さの噂が絶えることの無い戦闘民族。それが“虎煌”なのだ。
「何故、か。そこまでは言えぬよ」
少し笑ってそう言えば、蕗春は再び声を荒げた。
「やはり、信用できませぬ!」
ふぅむ、と玲瓏は困ったとでも言いたげにため息をついた。
「これでも信用できぬと言うなら、他に何を望むのだ? 私を監視でもするか?」
「監視だと」
「そうだ。私を見張りでもすれば、満足がいくのか」
その言葉に動揺したのは、玲瓏の正体を知るものたちである。
監視などされれば、玲瓏の存在は……。
玲瓏の思考がまるで読めなかった。
監視か、と蕗春は憎々しげに瞳を尖らせたまま、けれど凶暴な笑みを浮かべ叫んだ。
「いいでしょう、己が貴方を監視してやる!」
「……口を慎めよ。これでも私はお前より立場は上であるぞ?」
誰もの混乱の中、二人は鋭く睨み合った。
その二人は今、城内の廊下を歩いていた。
玲瓏は何処か楽しげであるが、蕗春の表情は厳しい。
玲瓏が自室に戻るということで、それを送っているのだった。
翔呀や藜舜らがもの問いたげであったのを視線と笑みで制し、玲瓏は蕗春を付けさせた。
数分の沈黙に満ちた時間を超え、玲瓏たちは一つの扉の前に至る。
一応ながら玲瓏の為に用意され、また梨由の自室と秘密の通路で繋がれた部屋である。
「ああ、此処だ。覚えておけよ」
「……了解しました。では、己はこれで」
「待て。どうだ、寄っていかぬか? 私は其方と話がしたい」
「己は……」
「言っておくが、拒否権はない」
玲瓏がニヤリと笑うのを、蕗春は苛立たしげに睨みつけ、失礼します、と玲瓏とともに扉の内へと入った。
そして、扉が閉まり切った時。
蕗春の表情が豹変した。
怒りなどに満ちていた瞳はニヘラ、と緩み、口元には笑みすら浮かぶ。
「ふぅ。梨由様、中々の演技じゃなかったっすか、己も」
「梨由ではなく、今は玲瓏だ。それにしても……久しいな、蕗春」
「ええ。またお会いできて光栄です、玲瓏様」
蕗春は照れ臭そうに頬をかいた。
この蕗春。
実は、玲瓏が早くから近隣の五国に放っていた抱えの隠密五人の、その一人なのである。
つまり、最後の問答は完全なる余興。
玲瓏への反対勢力として蕗春の存在を強調することで、他の者を遠ざける為に仕組まれた計画的なものだ。
「然し、部屋に入る時のあの演技は必要だったんですか?」
「女官などが見ているかもしれないからな」
「警戒しすぎでは?」
「いや、いくら警戒しても足らぬくらいだ」
そういうものですか、と蕗春は何処か他人事のように頷いた。
「けれどやはりお前の立ち回りは見事だったぞ、蕗春。連絡もなしに、お前が何処まで合わせられるかには疑問があったのだが」
玲瓏が正直にそう言えば、信頼がないですねぇ、と蕗春は笑う。
「今回のは、もしも玲瓏様が他国に渡されることがあればと用意された、ほんの何百通りの行動の一つじゃないですか。出来ないはずがないですよ」
「……」
何でもないように言うが、蕗春を始め、彼ら隠密たちの才には驚かされるものがある。
蕗春の得意とするのは、演技や記憶力。もちろん武術などとて、並の兵に劣りはしないが。
「今頃、他の奴らは悔しがっているでしょうね!」
「そうか?」
「そうですとも! 玲瓏様がこの国に来られると決まった時なんて、己に妬みの手紙が届いたんですからね」
ククク、と蕗春は、玲瓏を真似た笑い声をたてる。
思わず玲瓏は顔を緩めた。
蕗春の様子が、あの日——玲瓏から、他国に忍ぶよう言われても涙をけして見せることなく、むしろ誇るように「了解しました」と言った時と、まるで同じてあったから。
「蕗春……本当に、お前は変わらないな」
見上げるほどになった、その頭にポンと手を置けば、蕗春は一瞬呆然として、それからはにかんだように笑った。
「なんか玲瓏様って、お父様みたいです」
「……そこはせめて、お母様にしておいてくれないか」
出来れば、お姉様がいいところである。
新キャラ登場です。
また、森や岳は普通の森や山とは違い、特殊部族の住む場所を表す言葉なので、ご注意を。