異世界での受難
「いててて……」
田中悠一は顔を顰めると、労わるように腰を摩りながら立ち上がった。相当の衝撃が走ったのか、立ったまま弱い力で何度も腰を叩いている。一応、骨には何もないようだ。
悠一はこの痛みの原因を思い出そうとした。
今日十月十日は大学の講義が午前しかなく、サークルもバイトも何も予定がない、暇な一日。今夏の異常異常と言われて、最早異常ではなくなってきている暑さもようやく陰りを見せた秋の日に目的もなくぶらぶらと歩いていた。
はずだった。というか腰を打ち付ける前は街中を少し外れた、秋の香りがしてきそうな公園で紅葉を楽しんでいた記憶がはっきりと残っている。
それがここはどこだ。
公園は都会には珍しく木々がたくさん植えられており、子供連れの主婦や仕事をさぼったのかスーツを着込んだサラリーマンや健康促進に歩いているお年寄りなど多くの市民が集まる憩いの場だと記憶している。
それが周りを見れば、木々が生えているが、公園にあるような種類などではない。世界遺産になりそうなほど高く、太く、生命力にあふれた木が周り一面に聳え立っている。高さは推定で百メートル以上、太さは大人が何人か手をつないで囲めるくらいか。
辛うじて木々の合間から漏れる光で周囲が確認できているが、辺りは夜といっても遜色がないくらいに暗い。だが、記憶を探ると歩いていたのは昼飯を食べ終わり、一服した後だから二時くらいだと思う。悠一は確認のために左袖を少し捲った。
二〇一一年十月十日PM一時五七分。
腕時計を見ても、時刻はもちろん、日時や西暦まで記憶と合っている。携帯をポケットから出して確認してみたが、表示は時計と同じだった。どちらも未だ動き続けている。残念ながら、携帯は圏外のようだ。
二分ほど見続けていたが二つとも正確に動いているのだろう、一秒もずれなかった。どちらも大学入学とともに親に強請って買ってもらったものだ。まだ半年しか経っていない。さすがにこのご時世の最新の精密機器がどちらも同時に壊れるということはまずありえないだろうとは、文系の悠一でもわかる。
だが、夢とは思えない。
リアルなんていう言葉はあまり使わない彼でも、周囲から感じる木々のグロテスクなまでの生々しい生命力にはリアルだと言わざるを得ない。足元の苔も偽物のようには思えない。見た目も臭いも触感もあまりに現実的すぎる。
なら、なんだこの状況は。
悠一は混乱した。
ある考えが脳裏をよぎるが、それならリアルすぎる夢を見ていると思ったほうが断然ましだ。どうして、突然寝たということはさしおいてもだ。
とにかく、歩かなければ何も始まらないと思い、一歩踏み出した。
「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHHHHHHH!!!」
その瞬間、唐突に森に響き渡る轟音。
どこから聞こえてくるのかわからないが、とにかく暴力的で絶対的な野生の声に悠一は身体が固まった。心臓すら止まったかと錯覚した。
その次に襲い掛かってくるのは無意識な震え。それは単純な恐怖故だった。姿も見えない声に悠一は二十年弱の人生で一番の恐怖を感じた。
どしんどしんと一歩ずつ何かが近づいてくる音が耳に届くが、どこに逃げればいいのか。それに逃げ切れるのか。だいたいあの声のもとはなんだ。どうしてこうなったんだ。やっぱり、この状況はあれなのか。なら、まだ助かる可能性はあるのか。いや、楽観視していいのか。
咄嗟の出来事には弱い悠一は濁流のようにあふれて来る思考に意識の大半を奪われていた。
呼吸は速く、暑くもないのにジトッとした汗をかき、瞳孔が妙に開いた悠一にはすでにまともな思考などできていない。喉が渇いているのか、何度も唾を飲み込む。
焦れば焦るほど 思考が固まり、身体が止まり、その間にも何者かが近づいてくる音が大きくなる。そして、さらに焦るという悪循環の中で左端の視界に暗い中でもよくわかる巨体が入ってきた。妙にいうことを聞かない頭を左に動かし目に収めたのは、金色の体毛に覆われ、血より赤い深紅の鬣を逆立てた、モンスターだった。
モンスターとしかいい様がないその姿は、悠一が知る野生動物では最大級の大きさに思えた。五メートルほどはありそうな体躯に、そこいらの包丁より切れ味鋭そうな前肢の爪。眼は色が一定ではないのか、少しずつ黒から紫へ、紫から青へ、青から緑へといったふうに変わっていく。その瞳は宝石のように綺麗なのだが、目つきの鋭さが今にも悠一を殺しそうなまでに破壊的だ。大きく裂けた口からは何でも噛み切りそうな牙が覗く。口から漏れた涎が意味する理由を雄一は考えないようにした。
ひっ、と思わず漏れた悠一は目の前のモンスターを刺激してはいけないとあわてて口を手で押さえた。
無駄だった。
悠一に気が付いていたモンスターは木々には目もくれずに真っ直ぐに走ってくる。一歩踏み出すごとに大地が揺れ、それだけで潰されそうなまでの威圧感を発する巨躯は見る見るうちに近寄ってくるが、この状況でも悠一は動けなかった。というより瞬き一つできなかった。
そして、モンスターは右手を振り上げ、悠一を薙いだ。
「…あ……れ…………」
悠一は高を括っていた。
ここはどこかわからない。なぜ、ここにいるのかわからない。
なら、もしかしたら、ここは異世界なのではと頭の片隅では思っていた。もしくは思い込もうとしていた。悠一が不幸だったのは、中学の時にこのような状況を描いたラノベを読んだことがあったことだった。そして、彼には中二病と呼ばれる時期があった。物語のようにことが進むだろうと勘違いしてしまっていた。
それ以降、悠一はまともな判断を下そうとしていたが、実際はできていなかった。
モンスターが現れても、誰かが助けに来る、または、何かの力に目覚めると都合良く思っていた。
でなければ、理不尽にこんな場所にいる理由がわからないから、と思って。
だが、悠一にはモンスターという死神以外何も現れなかった。
モンスターに胴を薙がれた悠一は即死。
口からは血と涎と消化途中の昼飯が吹き出し、血が流れ出る目は右のほうが潰れ、左はひっくり返り白目になっている。 爪に貫かれた胴からは血と腸が飛び出し、原形を留めていない。なんとか、背骨で身体がつながっているという状態だが、背骨も粉々。血が混ざり赤くなった尿はダダ漏れになっている。
悠一が幸いだったのは即死なために苦しまなかったことくらいか。
モンスターは悠一の死体を掴むと一口で飲み込んだ。既に骨の大半が粉々で元の形を留めていなかったが、ばりっやごぎゃっといった音が漏れてくる。
数回の咀嚼だけで悠一を味わったのか、モンスターは喉を鳴らし飲み込むと、新たな獲物を探してかノソノソと歩き出した。
後には千切れた時計と折れた携帯だけが鈍く光を放っていた。
どうでしたか。
最近伊坂幸太郎さんの小説を読んで文学もいいなと思いながら、やはりファンタジーが好きな作者です。
この作品は、身勝手にも最近のご都合主義的な異世界トリップ系に一世を投じよう(?)と思い、暑さとなかなか進まない長編小説の設定にイラつき、勢いだけで書いてしまった拙作です。
面白くはないと思いますが、感想、批評をお待ちしています。