第1話:踊る子鹿亭の帳簿と、冷たい数字のダンス
オルテンシアの街の隅、宿屋『踊る子鹿亭』のキッチンで、僕は黙々と芋の皮を剥いていた。
窓の外では、王国の主要産業である『魔石相場』の電子掲示板がチカチカと点滅している。
「おい、アルト! 今日も水属性魔石が暴落だ! 昨日のうちに売っておけばよかった……!」
常連客の商人が頭を抱えて唸る。彼らは魔導石の価格を、神託や天候の機嫌で決まる「運」だと思っている。
だが、僕には掲示板の数字が、ただの関数にしか見えない。
(昨日、東の炭鉱で小さな爆発事故があった。供給のボトルネックは解消されるはずがない。市場が今、過剰にパニック売りをしているのは……移動平均線がデッドクロスしたからか。面白い)
僕は皮むきの手を止めず、心の中で数式を弾く。
『移動平均乖離率、現在マイナス12%。アルゴリズム的に見れば、あと15分後にボリンジャーバンドの底を叩く。そこが買い時だ』
もちろん、僕がそんなことを口走るわけがない。
「大変ですねぇ。運が悪かったですね」
僕はニコニコと愛想笑いを浮かべながら、客に安酒を出した。
「アルト、皿洗いが終わったら、宿の帳簿を整理しておいて!」
母さんの声が響く。
「わかってるよ!」
帳簿整理は口実だ。僕は裏の納屋へ向かい、古ぼけた計算機(僕が魔改造した、対数計算が可能な手回し機)を起動する。
宿屋の貯金――銀貨20枚。これを元手に、街の闇取引所へアクセスする。僕のIDは『ゴースト』。誰にも正体を知られていない、市場を操る幽霊だ。
「さあ、ショートポジションを解除。全力でロング(買い)だ」
僕がレバーを引くと、市場の末端で微妙な揺らぎが起きた。
数分後、僕の予測通り、炭鉱の復旧遅延の報が走り、水属性魔石の価格が急騰した。
『+840%』
画面に表示された数字を見て、僕はふうっと息を吐いた。
派手に稼げば、王室魔導士ギルドが嗅ぎつけてくる。だから、あえて利益の一部を溶かし、市場のノイズに紛れ込ませる。
「……ま、これくらいでいいか」
宿屋に戻り、エプロンを締め直す。
その時、宿屋の扉が激しく開いた。
入ってきたのは、この街を支配する商工会連合の役人、そしてその後ろに控える、一人の少女だった。
銀髪をなびかせ、氷のような瞳で宿屋を見回す彼女――王都からやってきた公爵家の令嬢、ティナ。彼女の背後には、市場操作を監視する「魔導監査局」の面々が揃っている。
「ここね。最近、市場に異常な干渉を繰り返すID『ゴースト』のシグナルが、この区画から発信されているわ」
ティナが鋭い視線をキッチンへ向ける。
僕は芋の皮むき器を握りしめ、最大級の「無能な少年」の表情を作った。
「あ、いらっしゃいませ。ここは、しがない宿屋ですよ?」
僕は心の中で計算した。
(今の彼女の立ち位置、魔導服の魔力放射量……彼女は僕の解析ロジックを知っているな。だが、僕を犯人だと突き止める決定的な証拠は、僕が先ほど暗号化して市場の深淵に埋めた)
「……おかしいわね。数値上は間違いなく、この宿から発信されているはずなのに」
ティナは僕の目の前まで歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
彼女の瞳が、僕の奥底を見透かそうとしている。僕は微笑む。
「運が悪かったですね、お嬢様。うちの魔導コンロ、ちょっとボロくてノイズがひどいんですよ」
僕は確信していた。この勝負、僕の勝ちだ。
現代の金融知識を駆使する僕にとって、この異世界の市場など、幼稚園児の計算ドリルに過ぎない。
(さあ、踊ろうか。この未熟な市場という名のダンスホールで)
僕はそう思いながら、何食わぬ顔で客の注文を復唱した。
「水属性の魔石を……いえ、お食事ですね。かしこまりました」




