表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

欠乏した現実を約束された際に

作者: 伊藤潤啓
掲載日:2026/03/10

 これからお話しする主人公について、興味深い告白があったので、ひとまずここに紹介します。


「ある時、駅の公衆便所にゴミを棄てたことがあったんです。今日はその時の話をします。」

 駅のホームからエスカレーターを上がってから右を向くと、隅っこの方に「トイレ↑」の表示が見えます。それに従って進むと、エレベーター横の、人通りから隔れた場所にトイレの入り口が現れます。左は男子用、右は女子用。奥に多目的。中は少し入り組んでいて、左に曲がって進み右に曲がって、再度左に曲がると手洗い場に着きます。そしてそれから数歩進んでさらに右を向くと、小便器がずらりと見えます。計4台。その向かいに個室トイレが3室。そして突き当たりにやや広めの個室がもう1室。この1室が舞台です。

 その日僕は計画をもっていました。駅の公衆トイレに放棄することは決定事項でした。その前日までは、深夜自転車で20分ほど漕いだ場所にある広めの公園で、これまたトイレか、あるいは茂みに捨てる予定でした。しかし予定外れの大寒波に狼狽え、結局定期区間内の駅を選んだのです。

 廃棄物は茶色い紙袋の中に入っています。この際その袋さえも廃棄物の一つだと言えますね。大きさは500mlサイズの水筒が2本入るぐらいです。ハンバーガーのテイクアウトで見るあの紙袋を想像してくれると分かりやすいでしょう。封はガムテープで閉じていました。……はあ、さすがに朝は混むな。次の電車には間に合いたいな。もし時間までに空かなかったら次の駅のトイレにしよう……僕の前に並んでいた3人は全員小便器の方へ流れていきました。自分も同じ用だと勘違いされないように、小便器が空いても近づく素振りを見せず、後ろの参列者たちに道を譲りました。僕の前に並んでいた小太りのサラリーマンが手を洗い始めた頃、1番奥にある個室の扉が開きました。なので舞台選びは意図せずに済まされたのです。……よし、あまり早く出ると変な疑いをかけられそうだからな。とりあえず床に置いて、ちょっとしてからにするか。いやまてよ、床に置いたら完全に放棄じゃないか。くそ、ここにきて罪悪感と保身が足首を掴んできやがる。そうだ、棚におこう。これならもし咎められても忘れ物で済ませられる……紙袋を棚の上に置いてその光景を眺めると、あまりの物騒さに思わず立ち尽くしてしまいました。……いやいや、これじゃあまりにも「あれ」すぎる。これじゃまるで、素っ裸の爆弾じゃないか。みなさん、ここに危険物があるので気をつけてくださいと言っているようなものだ。こんな露骨なテロ犯は俺をおいて他にいないだろうな。この光景は避けるべきだ。ガムテを剥がしてしまうか。中身を隠すために封をしたのに、それがかえって危険な不信感を生みかねない……豊かな想像力は時に人を追い込みます。……中身が分かれば、騒ぎにはならない。あいにく爆弾でもないからな。清掃員が何も気にせず捨ててくれればいいんだ。そう、何も気にせず……封を開けて、再度棚に置きました。怪しさはまだ少し居座っていましたが、誰が捨てたかは特定できないでしょう。捨てられた時間帯が分からない限り、監視カメラをいくら調べたって捜しようがないのです。それに、そこはターミナル駅で人が大勢行き交う。砂糖に紛れた一粒の塩を見つける仕事なんて誰が言われてやるのでしょうか。そう、それで僕は堂々とトイレを出てホームへ向かったのです。幸いにも電車の時間には間に合い、学校へ向かいました。緊張からの解放あるいは安堵との遭遇。電車に揺られ、そのまま居眠りし始めました。揺れが突然大きくなった反動で目が覚めました。踏切内の安全確認のため急停車したようです。……そういえばあの中身、ちゃんと確認したっけな、、いや確認はしたけど全部出して見たわけじゃない……数日前にとある宅配便が届きました。紙袋とはそれを梱包していた袋のことなのです。……宅配の中には注文確認の書類が入っているはずだよな。いやいや一枚取り出したはず。そしてもう一方には確か入ってなかったから、そう、だからそのまま入れたんだ……宅配便は2つ届きました。2つを一方の袋にまとめたのです。ついでに廃棄物を入れて。なぜその紙袋に入れたかって?ちょうど良かったからですよ。ビニールだと中身が見えるし、宅配便のゴミも一緒に捨てたかった。……いやなかったよな、でもないわけないよな。もし中身をくまなく調べられたら、。もしその中に俺の名前か、それなら電話番号や住所が書かれた伝票か何かが入っていたら、、。まずい、足が付く……表では眠気を装っていましたが、心の叫びは止まりませんでした。心臓の鼓動を感じるほど身体のいたるところが緊張でこわばりました。頭皮からじめじめした汗が湧き出すのを感じ、あらゆる結末を想定しました。……「ゴミはゴミ箱に捨てろよまったく、」(よしそれでいい、)「すみません、駅員さん?なんかトイレにこんなものがあったんですが、捨てちゃっていいですかね」「なんですかそれ、一応こちらで預かっちゃいますね(いやいやいや)なんだこれ、あーなるほど。駅長、どうします?そうですねー、わかりました。清掃員さんー、報告ありがとうございまーす。あとはこちらで対応しますね。(おい、)被害届ですねーこれは。中身も調べてもらって」(やめろやめろ!)「おい見ろよ!なんかあるぞっ」「うわなんだこれ、変なゴミ置いてくやつもいるんだな」「誰だよ、あはは」(そう、そのまま、、)「あ、すみませーん、なんかゴミあるんですけど」「はいよー掃いときますねー。ん、おい兄ちゃんーこれ中身見たか?」「いやよく見てなかったっすね」「これもしかしたら危険物の可能性あるな…ちょっと だ てみ  おい なん はいっ ……通報かなあこれは」……気づけば大学に着いていました。他のことを考える余裕はありませんでした。気晴らしになる何かがあれば良かったのですが、頭は取り調べの場面から移ってくれませんでした。頭の余白は「ゴミ」で一杯でした。……学校が終わったあとすぐに駅に戻ろう。それで確認するんだ……それからはとにかく廃棄物処理の法律、判例を調べていました。駅構内の防犯カメラ、改札の入場記録によって足がつくそうでした。しかし一方で、トイレ内での放棄は通報しにくいことも書かれていました。ゴミが見つかっても放棄した誰かは見つからない。ただし、僕の場合は個人情報が中に入ってる可能性があるのです。何が捨てられようと肝心の「それ」を捨てれなければ、安心は訪れません。できることはただ、清掃員や誰かがそれに関心を持たないでくれと祈ることだけでした。……そのまま、そのまま捨ててくれればいいんだ。真面目になるな、業務に背け、何も気にせずゴミ袋に入れろ。確認するな、分別するな、報告するな、、、!……授業が終わるとすぐに駅へ戻りました。その頃には多少落ち着きを取り戻していました。気にしすぎるのも良くないと思いながらも、とにかく最悪の状況を想像し続けました。なぜなら、子供の頃から僕の予想は外れるのです。具体的に想像すればするほど、それが現実になることはありませんでした。だから想像しては戦慄し、現実を見ては安堵する、それを繰り返すのです。緊張と緩和。血圧の上昇と低下。そうしているうちに、不安は減衰運動のように落ち着いてくれるのです。要は、僕が現実を直視するにはこうするしかないのです。

 掌は汗でべたつき、全身の毛穴が開きました。ここで1つ告白します。このような放棄は初めてではありませんでした。なので今回も同じように逃げ切れる自信があったりもしました。……くそ、こういうのは2、3年に一度来るんだ。子供の頃はもっと短い周期で来たっけ。その度に切り抜けてきたんだ俺は。大丈夫、これぐらい、、「もしもし、新里ー順平さんでよろしいでしょうか。ちょっとお尋ねしたいことがありまして…」だまれ。大丈夫大丈夫、もし連絡があっても知らないを貫けば、カメラには映ってないんだし、俺のものであっても俺が捨てたとは限らない……駅につきました。エスカレーターを上がり改札階に出ました。いつもと変わらない光景に少し安心しました。駅の弁当販売コーナーでマイクを持った女が店主に取材していました。テレビの撮影班とらしき男たちが7、8人。首からストラップを下げて話し合っていました。一瞬驚きましたがすぐに平静を取り戻しトイレへ向かいました。……まてまて、こいつ、なんだよ……トイレへ近づくと同時に中から郵便配達員が出てきたのです。緑色の某運送会社の制服を着た男とすれ違ったのです。……いや待てそんなわけないだろ、。なんで配達員なんだよ。いるとしたら警察だろう。そう、休憩だろうどうせ。たまたまだよ……僕は深く考えることをやめトイレへ入りました。奥の個室は閉まっていました。他の個室は全て空いてきました。……なんでよりによって、。悪いことが起きるのは決まって運が…「罰金か懲役か選べ」迷うことなく懲役。両親の顔が浮かぶ。次に彼女の顔。次に友達。そして日常。僕がいない日常。僕がいない会話。僕がいない食卓。別にいい。はじめからいなかったんだ。ただみんなに会わせる顔がないだけだ。その羞恥心が僕を独りにする。それでいい。誰にも会わない5年間を過ごせるのはいいことだ。できればその後も誰とも会いたくない。刑が確定すればの話だが。突然連絡のつかなくなった僕。そして拡まる無様な噂。みんなの頭の中でこねられた僕の影は朝のニュースで焼き上がる。「…あなたの名前が書かれてたんですけど。決して危険物ではないんですね?」「はい」「なら安心だ。いやぁテロか何かと考えちゃいましたよ。はははただのゴミですか。安心しましたよー。」「そうですね、、」「なら廃棄物処理法違反ですね」……いつでも来い。俺は事態をこれ以上広げたくないだけなんだ。いつでも応じてやる。1週間以内か、あるいは1ヶ月後に、忘れた頃に急に来るかもしれない。それが1番恐ろしい。来るなら身構えている今がいい……個室の扉は開きませんでした。一旦外に出て、コンビニに入って物色するふりをしてまたトイレに戻りましたが、まだ閉まっていたのです。そこに限って怪しいぐらい開きませんでした。また出て入る。繰り返すたびに取材班の前を横切る。誰も僕を気にしていないはずでしたが同時にみんなが僕を見ているような気がしました。それ以降は気が引けてトイレに近づけませんでした。僕はエスカレーターを降り、地元の最寄駅に帰ることにしたのです。……こういう悪いことはいつだって運がいい時に来るんだ。そして俺を加速度的に絶望へ堕としていく。思えば最近、みんなの態度が妙に明るく優しかった。母は他愛のない話をしてきたり、バウムクーヘンを焼いてくれたり。彼女はいつにも増して甘えてきたり、あいつらだってみんな俺のレポートを不自然なくらい褒めてくれた。いつもと大差ないのに……考えすぎでしょうか。みんな僕の前で笑顔を見せてくれました。みんなの笑顔にひとつひとつ罰印をかいていく。裏切り。「何してんのよこんな時に、。」最近祖父の体調が急変し緊急手術を受けることになりました。加速度的な急降下。不運の足の引っ張り合い。閉館間際の美術館。展示の照明が一つ一つ消えていく。影に俯く絵画たち。駅を降りると警官が2人立っていました。僕の心は暗闇の廊下を歩いていました。スマホを取り出すと知らない番号の不在着信が入っていました。……さて、僕は一体何を捨てたのでしょうか?


 そんなわけで、この主人公の性格は分かりましたね?計画的だが何をするにだって中途半端。その結果に耐えれる心身もない。まったく呆れた、腰抜け学生です。精神疾患すら疑える。そんな彼ですが、作家志望なんです。もう何通か公募づてで原稿を送っています。ある日の放課後、彼は馴染みの大学の図書館で、二冊の図鑑に挟まれた一枚の筋書きを見つけます。内容は以下の通り。一緒に見てみましょうか。


 「殺人犯はバーにて/殺人犯はバーで楽しむ/殺害計画はまだ途中/


 雪の積もった昼下がり

  庭で不安が見つかった

   私はタオルで捕まえた


 不安はタオルの中で暴れました。誰かに見せてやりたいと思いましたが、どうやって見せればいいのでしょう。何を捕まえたって、それゃあ不安なのですから、説明だってつけれるでしょうか。両手いっぱい、やたら暴れるので、飲み込んでしまうことにしました。口を開けて押し込み、頬張って、顎が痛みました。飲み込むと、喉が拳を突っ込んだみたいに膨らんだので、舌から何度も唾液を落とし、胃に溜まった空気を持ち上げました。すると曖気とともに、不安はすうっと喉の奥へ落ちていきました。喉から感覚が消えると、お腹がぐうっと鳴りました。それから、ぶくぶくと泡立ち、慌てて座り込みました。喉の奥から何か熱いものが押し寄せてきて、慌てて口を押さえました。嗚咽して、肩が震えました。きっと外にいるせいだと思いましたが、身体が重くうまく立てませんでした。ぞわぞわするよ。肩の震えは一向に止まず、このままじゃほんとに吐いてしまうぞ、と思って、持っていたタオルで首を絞めました。目一杯絞めました。頭がずきずきして、血管が渋滞している感じでした。雪が眩しいので目をぱちぱちさせていると、柵の向こうにいる同い年ぐらいの女の子が手を振ってきました。彼女の名前は覚えていませんが、大事な子でした。大事なので、そばにいてやらないと、って思いました。でも、やっぱり身体は動かない。両親が通りかかりました。晩御飯どうするのって聞いてきたので、悩みました。悩んでみましたが、これっぽっちも分からない。なんでもいいよ。でもお母さんは待ってくれません。シチューがいいなって答えました。するとお母さんは膝を崩し、泣きだしてしまいました。学校のみんながやって来ました。みんな、ひそひそ話をしてるので、気になりました。でもやっぱり、身体は動きませんでした。すると、喉の奥から声が聞こえてきました。小さな声で。ロックを聴きたいなって答えました。そしたらまた声が聞こえました。寂しくないよって答えました。寂しいのはお前でしょ。寂しくない、寂しくない。雪の中にでも隠れてみようかな。お前もきっと喜ぶよ。きっと、喜ぶ。そんなわけで、次の日、庭で凍死体が見つかりました。そんな感じで、不安との決着がついたのです。」

 この物語の主人公、死んでしまったみたいですね。静寂。彼は本棚に横たわる死体を発見しました。死体はふわりと浮かんで窓の外に飛んでゆきました。

 死体は上空を飛び続け、夕暮れの電車に乗り込みました。焚き火を押しつけられた空。火を盗むようにするりと滑って飛びまわり、一人の綺麗な女の頬にぺったりと、くっつきました。決して若くはありませんが、廃れてもいない、細身の、ひと度映せば無視できない脚、美しく熟れはじめた醜念。女は仕事帰りでした。ここで、彼女の身の上話に付き合ってあげましょう。

 ――女の仕事は高校教員。楽しみといったら隠し撮り。なんと言ってもやめられない。よし、待て待て、落ち着こう。まさか。結論を出すのはまだ早い。彼女には名誉がある。彼女はもう10年間も、その仕事を続けているんです。勤怠も問題なし。さぼってやろうなんて一瞬たりとも考えたことがない……その割に生徒からの評判は悪い。一部からは慕われているのですが、彼らのほとんどは不登校か、他クラスの生徒です。入学式でちらっと見てか、もしくは校舎案内でも快く引き受けてくれたのでしょう。それゃあ何も知らない生徒たちは誠意ある教師だなと安心しますよ。それでも夏季休暇に入る頃にはその印象も覆る。教師にこんな言い方ないって思いますけどね、真面目すぎるっていうか……けど、評判の理由にはもう一つあって、彼女は作家を目指していたんです。夢破れて教師に、って収まるわけでもなく、教師をやりながら粛々と執筆を続けてたんです。でも、長い教員生活の中で書き上げられた作品はありません。一つの作品に10年以上手こずっているんです。ただ彼女にとっても終わらせるつもりはありません。作品っていうのは、紹介される時はジャンル名なんて添えられますが、そんな芸知らずなことしたくありませんが、あえて言うのであれば盗撮文学でしょうか。まさか、学校で盗撮なんかしていませんよ。カメラは彼女の家にある。だれを?彼女には彼氏がいるんです。同棲してもう6年ぐらいです。いつから?同棲するよりもずっと前から、彼が一人暮らししている時からずっとですよ。あぁおかしい。おかしな話だと、そう思いませんかね?もし頭の中に疑問符が浮かんでいるなら、まあでも、今は放っておいてください。大事なのはその後で、ある日、彼女の書き溜めていたその記録の山が、一人の生徒に見つかってしまったのです。生徒だって最初は気にも留めませんでしたよ。だって読んでいても大してそそられない文体でしたから。でも、明らかに教務と関係のない内容ですから。まるで人体実験のような勢いで書かれていましたし。彼女の昼間の振る舞いと、彼氏の生活、欠伸や掻破、自慰、放屁、排泄、生態の一つ一つを執拗に記す姿。執念深い彼女の文章が、彼女というイメージを引きずり、その痕は少年の中に興奮を呼び覚ましたのです。みんなが知った。内輪で回されていただけでしたが、いつか溜まり、溢れ、垂れていく。みんなが知った。噂は絶えず語られ、伝えられる。彼女は発狂しました。髪をめちゃくちゃにして、目玉をひん剥いて、今にも身を投げ出すような勢いで叫びました――

 そして女は叫びました。燃える夕暮れの車内で。静寂を投下された舟の上で。私じゃないわよって、そう言えば言うほど疑いの目を向けられる。女は彼氏に電話する。取り乱しましたが、ゆっくり落ち着き、とある男を指差しました。この物語の主人公らしい。彼は困惑して自分を指差すと、周囲を意識して否定を両手で振って見せてやりました。しかしそんなことは無駄なのです。なぜなら乗客にとって、死体の関係者とはその二人であり、その時点で、参考人と野次馬という揺るぎない構造が生まれてしまっていたからです。ずうっとちらちら見てきたでしょ!こいつ!こいつよ!ですから、騒いだらいけないのに。二人はお互いを見つめました。それから死体の押し付け合いが始まったのです。二人の掌に挟まれた死体は咳をして、ひどく喚きました。女も泣き出しました。もうっ信じられない!なんで私ばっかりこんな目遭うのよ!って、でも、主人公の男の方は黙ってばっかりで、困った。

 カーブに差し掛かり、車体は大きく傾きました。夕陽から逃げた影が窓から伸び、その窓からは笑う夏の煙を吐き出す工事現場が見えました。山を削り住宅でも建てるのでしょうか。空は水彩画のように、燃え盛る太陽をゆっくりと地平に融かし、深海のような果てなき闇を己の上から引っ張り出していました。

 ひどいのはあなたの方でしょう。彼はそう思ったに違いありません。電車は駅に着き、乗客は静かに見守りました、女が叫び散らすのを。そして彼は、主人公の男は、とうとう諦めました。腕をまわし、死体を抱き寄せ、俯いた頬が影に語りました。笑顔を作るのはよせ。君の笑顔は見たくない。女は駅に降り、去っていきました。なんという女でしょうか。別れの挨拶もなしに。哀れな、そして哀れな彼は、なんと嘆くのでしょう。

 こういった場合、彼らの関係はなんと呼ぶべきでしょうか。去った女、残された男、ポケットに入った死体。この愛おしい愚か者たちの物語を見届けるのが、最後に与えられた権利なのですか。

 

 都会なんかを、たとえば新宿あたりを歩いていると大きなビルを見かけますが、その中で一つ都庁をとって考えてみても、やはりこのような考えをしてしまうのです。このいかにも頑丈な御殿に、しかし何よりも無機質で冷徹な御殿に、人間など1人さえいないとすれば……怪しまれないよう、ビルの入り口から少し離れたところで監視していればたしかに職員の出入りを確認できるかもしれませんが、そうまでする猜疑的な人がいるでしょうか。それほど猜疑的であれば、人間がきっと現れるという密かな信頼すらも疑い、ついには帰宅してしまうのです。何より、都庁に人間がいるという仮説は、それが当たり前でみんな働いているんだっていう信頼だけで成り立っており、それを証明する手立てはないのです。これはただ都庁を前にして、何も用がないから通り過ぎる人間にこそ言えた戯言ですが、それでも、ああいった建物の下を歩いていると、やはりそんな疑念に陥るのです。このビルに人間なんていないのではないかと。

  

 彼は窓に映る自分の顔を見ました。そして扉が息を吐き―影を縫われた顔が見える―冷徹に滑らかに―シュウウッ―動き出す―扉の閉まる音。扉は閉め切る寸前に何かを挟み、停止しました。動き出したのは彼でした。

 女はもう階段を上がり、改札を抜けようとしていました。彼は走り出し、地面をたしかに押して、誰もいない、電車の去ったホームに、静寂を残したのです。


 階段を駆け上がり改札階に出ましたが、女の姿は見当たりません。ところが駅には彼女だけじゃくて、誰一人もいない。改札に近づいても、駅員すらいないのです。改札を出ると、ビルの角を曲がる女の姿が見えました。女が見えなくなったのを確認すると、僕はできるだけ大股で追いかけました。……いやあ、それにしてもどうしたんだ一体。駅前だってのに誰もいないぞ。階段の下で葛藤を着せたミュージシャンや、ベンチと抱き合ってるサラリーマンも、誰も、、こんなに寂しくなるもんなんだな……女が消えたビル角まで来ました。女の姿はすでになく、またどの建物も暗く、やはり人の気配を感じませんでした。人がいる気配というのは、プールに渦を作るように、まっさらな空間を歪ませるのです。その歪みがどうであれ、少なくとも動きがあるというのが肝心で、それがないと穴でもできない限り穢れが残るだけなんです。だから、やたらと清廉潔白、純粋無垢な世界を目指す人たちがいますが、そんなことせずとも、むしろ逆説的に、歪みをつくった方が人類は栄えるんです。ただ僕自身、人類の繁栄を望んでいるわけではないのですが。

 濁った溜池のような狭い路地に一軒だけ、明かりを灯した店がありました。白い壁に小さい看板を出しているだけでしたが、僕を誘うにはそれで十分でした。

……ところで、どうしてこうまでして彼女を追いかけてしまったのだろうか。電車で彼女を見た時、濡れたタオルを絞らずにはいられないっていう、居ても立ってもいられない衝動に駆られた。いや、正確には駆られそうになっただけ。映画のようなドラマチックな急展開など、僕の人生で起こるはずないんだ。だから、彼女が僕を見つめた時、そんな期待も、もしかしたら悪くないんじゃないか。そう思ったんだ。僕はさ、なんでも内に向けてしまう性だから。それで結果的に無気力になるんだ。たとえばそう、あれは、たしか去年の夏、駅であるノートを拾ったんだ。日記かと思ったよ。けど、やけに詳細に書かれてて、息遣いとか、歩き方とか、生活の隅々までメモされていたんだ。だから次に、何かの小説かと疑ったんだ。興味が片目も開けない退屈さだったけど。まあ、序盤が退屈な小説なんて山ほどあるから。それで読み進めていたら、その退屈さが、もう引き返せない呪いみたいになったんだ。で、そのまま読んでいたけど、いつの間にか語り手が変わったような気がして、主人公も変わったのか、いや、ちゃんと覚えてないんだけど、でもそれが判明する前に怖くなって捨てたんだ。そのあと数日は、不安と後悔で寝れなかった。奇妙なノートだったけど、でもそうやって記録に残すってことは、少なくとも自分を曝け出しているわけだろ?僕にはできない。最近はだいぶ落ち着いてきたけど、僕の自暴自棄症は有名だったからね。何か思いついても、僕の思いつきに大した思想なんてないんだから、すぐ打ち消されてしまう。おもしろくないんだよ。いや無価値ってわけじゃない。無意味なこともない。無意味なんてこの世にないんだ。無意味って思うのは、まだそれに意味を見出せてないだけでさ。ほら、優れた映像だって、それを上手く表す言葉がまだ世界にないから、つい難しい顔をしてしまうし。二極化して考えるのは良くないけど、かと言って身構える必要もない。作家を除いてはね。つまり優れた作品ほど、後天的に説明されるようになるんだ。言語野の領域を押し拡げる活躍さ。でも、僕のつくったものにそんな活躍は見込めないし、おもしろさなんてない。いや逆に考えるとつまらなさを見せつけることで、笑い死にそうな奴らを救助するっていう大義があるのかも。つまりこれで落ち着いてしまうのが僕の性格なんだよ。すぐに心の読者に聞いてしまう。正直な人はいいよ。特に自分に正直になれる人は。彼らは感情をすぐ表に出せるからね。良くも悪くも、新鮮な結果に出会える。僕は延々と動くベルトコンベアに乗って運ばれ続けるだけ。降りようとはしてみるけど、そしたらどうなるか分かるからね。足を挫いて跪くんだ。でも本当は知っているはず。そんなこと誰にも分からないって。でもさ、誰かってどこにいるの。そんな相手いないはずだろ?現にこうやって頭の中で妄想を膨らましてみても、この黙り込んだ街にいるのは、僕と湿った陰りを引き裂いた女。どうやら女がいるのはバーらしい。ほら、カウンターに座って顔を覆ってる。こうして目の前の現実に耐えられない時、誰のものでもない場所で永遠に眠りたいって感じる。けど、そんな所はどこにもないんだよね、僕の生活には。うん、やっぱり心の読者に聞いてみるのが一番だ。作家は同時に読者であれって言うしね。自分が一番自分の作品の読者になるべきなんだ。心の中の僕であれ彼であれに書かされるしかないんだ。

 あぁ。こうやって妄想するのもいいけどさ、現実なのか夢の話なのか、記憶が麻痺してくるよ。それに僕の妄想は誰のものでもないんだ。僕すらも手に負えない。だからって、曖昧にしちゃいけない。仮にでも生きていることを自覚しているのなら、現実に立ち向かわなくちゃいけない時があるんだ。逃げるわけにはいかないんだよ。でも僕は怠惰、怠惰なんだろ。でも、くそ、不安だよ。ほんとうに不安。不安というか、焦りからくる緊張。いや、やらねば、やらなくては。くそ。情動性制御不能状態だよ。それをみんな不安と呼ぶのか。ほんとか?みんなって誰なんだ。僕は一体誰と話しているんだ!


 かくして彼は、女のいるバーに辿り着いたわけですが、また悪い癖が出てしまったわけです。さらに避けがたい状況でして、一人寂しげそうな女は、彼のその苦悶を、葛藤を、店の内から見ていたんですよ。それはまさに通俗的な「恥」らしい瞬間です。彼がその事実を知らないことには少し安心ですが、でも、女がそれを惨めと受け取ったら、それで一方的な恥は成立されるのです。人間というのは、自然に対する分析はすこぶる冷静で、評価に値すると思いますが、ただ人間一人に対する能力というのは、これがまた間抜けに見える。それに苦しんでる一人が彼なのですから、よく分かる話だと思います。これで、少しずつこの話の目的が見えてきましたかね?

 生命維持における正しい選択肢はあっても、人生を歩むこと、これには正解がつきません。彼が恥という理性では抑えきれない猛烈な反応を冷静に分析できれば、というのはただ一つの選択なだけで、成功や失敗で語られる話ではなのです。ただまあ、こうして起こりうる通俗的な状態の、そして分析に至る人類の愚かさの理由をつらつら述べていても、さあ現実を見ないことには始まりません。

 女がバーに入りまずしたこと。彼氏に電話。その後すぐに魂を吐き出すように机に突っ伏しました。彼女は何度かため息をし、舌打ちをして窓の外を眺めました……回答は彼に任せるしかありません。記録すること、記憶されること。人生の目的とはなにか、彼の生への向き合い方を記したものがあるので、見てみましょう。


 誰かに優しくするのは、何かを求めているからなのでしょうか。特に、まだ見知らぬが、見知ろうとしている相手に対しての優しさにおいて。たとえばあなたが、頑固で寡黙な脚本家だとしましょう。いや、あなたは実際そうなんです。そして、とある映画制作の企画を組んだ芸能事務所の役員が、あなたのもとを訪れる。あなたは依頼を、どこの馬の骨かわからない連中なんかと断ろうとしますが、あなたは才能の泉なのだと、欠けたるものはそれを汲む桶なのだと言い寄られ、とりあえず、書きかけの脚本を携え会議に臨みます。本当に自分でいいのか、自分の趣向と彼らの商業的志向は合っているのかと、あなたは悩みますが、企画を持ってきて、あなたを褒めちぎった若い女のマネージャーは、あなたを理解する唯一の存在であるかのように、あなたの苦悩に寄り添ってくれるのです。あなたは彼女と何回も会議を重ね、あなたはストーリーを、彼女は企画の方向性を伝え、それらをぴたりと合わしていきます。映画と言ってもあなたは脚本家ですから、大勢と撮影に参加するわけではない。あなたは彼女とだけ、また何回も会議を重ねる。彼女はあなたの難解な脚本を読み違えたり、突拍子もない場面転換に躓いたり、しかしながら決してそれを放っておかず、自分の持てる知識と見解で歩み寄ってくれる。あなたは少しづつですが、彼女に心を許している。あなたは休憩を取りに彼女と一緒に食事をする。撮影には参加しないくせに、取材の名目で、彼女を乗せた車を走らせたりもする。彼女は悪意気のない、ほどけた笑顔で、あなたを労ったり励ましたりしてくれるのです。でも、でもですね、たしかにあなたが彼女を見る時、彼女もあなたを見つけ、それだけでたちまち二人はにやける、そんな関係でしたが、それも長くは続かないのです。企画が進行し、撮影が終わり、全ての工程が完了した時、彼女はあなたの前から姿を消すのです。正確に言えば、彼女の笑顔が、あなたを見なくなるのです。そして、どこの馬の骨かわからない連中に振りまく微笑みが、あなたを見えなくするのです。


 僕は、バーの前で立ちつくしている。壁は薄いピンクから退廃し、全体的に、影のような黒ずみに掻きむしられている。ハッカ色の細長いアーチ状の窓から、店の中が見える。狭い店内では女が一人、埃のように、しかしずっしりと、カウンターに腰掛けている。僕はゴッホの絵画のようなドアノブに手をかけ、指の関節に力を込める。すると、掴んだ手の方の肩が胸を巻き込むように強張り、しかしそのまま、なすすべなく立ちつくしてしまった。

 結局僕は、駅に戻ることにした。改札を抜け歩いていると、ほのかに便所の匂いがした。脳が震えるような麻痺に襲われ、慌ててその場を離れた。

 

 果たしてこれでよかったのでしょうか。これが辿り着くべき真相だったのでしょうか。結果的に、この物語の主人公らしい結末には至りそうです。僕がこの話を書いたのは、僕という一人の人間の内在問題を意識的記録、社会構造の下降による透視によって暴き、逆説的に、存在を肯定してみせる、といういきさつからでした。しかし、勇敢だった足取りはその恣意的な意気込みによって絡みとられ、普遍性の不在というしがらみに自らを誘い込んでしまったのです。


 僕は誰もいなくなった駅を何事もなかったように歩き、階段を降りた。電車が停まっていたので乗ることにした。電車の中はやはり僕だけだったが、砂嵐のような掠れた音があちこちから聞こえた。僕は席に座り、なるべく遠くの地を思い浮かべた。頭の奥がゆっくりとだらけていく感覚がした。顎関節にりんご一つ分の圧力を感じた。電車が動き出すと、心地よい振動が僕を手招きした。

 

 僕が彼女を追いかけたのは、つまるところ帰属意識のせいでしょう。僕は彼女に、とめどない仲間意識を感じてしまったのです。そうだ、僕は彼女と一緒にいるべきなんだって。群れに置いていかれる子象のように、母を追いかける疾走を、彼女との間に見出したのです。しかし、本当の僕は子象などにはなりたくなかったようです。僕はただ草原になりたかった。いや、草原で燻る土埃に。彼女や彼といった石のような愛が、日常の崩壊へ僕を導いてくれると信じたかったのです。そうすれば僕を取り巻く孤独も深まったことでしょう。

 なにより癪なのは、この独白が何の意味もなさないだろうと、心の隅では楽観していることです。きっと僕はこれからも、この呪いと付き合っていくこととなります。なにか祝祭的な場面を用意してくれなければ、僕はこのままでいてしまうのです。

 それから、僕は内に篭ることにしましたが、2日か3日、待っていてください。心の底から浮上してきた疑惑をどうしようかともたついている内にいつの間にか、そうしていますから。再び外へ出るつもりはありますが、いつになるかは分かりません。けれど必ず戻ってきます。


 狭い視界を思い切り擦り微睡を取ると、誰もいなかったはずの車内に鬱陶しい乗客達の姿が見えた。見えたというが本当は、影のような輪郭がうっすらと形作った人間だった。すり減った輪郭は厚い雲に覆われた肉体を閉じ込め、ぼんやりとしていた。もうすぐ駅が近いので席を立ったが、電車は減速することなく走り続けた。駅に停まらないことを悟った乗客の1人が文句を言った。その文句に対する愚痴を誰かがこぼした。すかさず誰かが反論した。何と言っているのか不明瞭だったが、中身のない話だということは覚えておきたいと思った。もう限界だと言って号車を移動する者もいた。しかしながら何を言おうにもお互いの体をすり抜けてしまうので、それ以上には発展しない。代わりに殺伐とした車内は平行線を保ったままだった。

 電車はその後も走り続け、間もなくトンネルに入った。僕はどうしようもなく窓に顔を預けたが、そこに映る車内には乗客など1人もいなかった。鋭い金属音と共にトンネルを抜けた。暗い夜空を月が見つめていた。無数の煙突が生えた街は、その光に照らされ銀色に輝いていた。

 

 これだけは言っておきたいことがあります。もう僕は、己の限界を知ってしまったのです。限界とはつまり忍耐の頂点であり、それを悟ったことで、あらゆることに対する情熱をも持つ必要がなくなったのです。特に人間関係という情熱は凝結を通り越してもはや砂の粒子のように清らかなものに変わりました。こうなる以前は、いやかつてあったこんなことが最後の布石だったのかもしれせん。かつて1人ずつ、職場の同僚や上司、それから友達や身内の人間らに向かって煮えたぎった油のような釈然としない不満を抱いていました。それは相手が変わると色や匂いも変わるものですが、灼熱の油であることには間違い無いのです。それを僕はぶちまけてしまおうかと思った。しかしやらなかった。この瞬間に、自分が抱いているのが灼熱の油だと気づいたのです。気がつくと油はみるみる冷え固まり、血肉の通わない無機質な機械のように、ただ暴力的な人間装置に変貌したのです。それでも隣人の面をした奴らよりかはましだと思うのです。人間のふりをする機械もいれば、機械のふりをする人間もいるのです。全人類が、網目上の点のような、何の組織も持たない関係になれば、人間の面をした機械などへも対等に不満を抱けることでしょう。そして僕はその最果てで唯一、人類愛を語る機械となるのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ