第八話 強制入部、青春研究部
「……ねえ、時雨くん。私がアメリカに行っている間に浮気してたってこと?」
「う、浮気……?」
いや、そもそも詩織ちゃんと付き合ってなどいない。麗奈さんとも『青春シミュレーション』という理不尽な契約を結んでいるだけだ。
どこをどう切り取っても浮気なんて成立しないのだ。
僕は必死に弁明を試みる。
「あの、僕と詩織ちゃんはそんな関係じゃないし、麗奈さんとも色々と事情が……」
「そんな関係じゃないって、どういうことかな、時雨くん……?」
「あら、合意書にサインをした以上、私と時雨くんは立派な『恋人』よ。それとも何? 私だけが一方的に、恋人と思っていたということかしら?」
僕の些細な論理では、やはりこの空気は覆せない。
詩織ちゃんの指先に、ぎゅっと強い力がこもる。
底冷えするような声色と共に、詩織ちゃんは僕を覗き込んできた。
対する麗奈さんも伏し目がちに視線を落とす。
普段の冷徹な姿からは想像もつかないほどの儚げな表情。
完璧に計算し尽くされた演技に違いないが、周囲には健気な『悲劇のヒロイン』として映ってしまう。
「ふざけんな、高坂! 俺たちの麗奈様を弄んでいたのか!?」
「こんな可愛い幼馴染の婚約者がいながら、麗奈様を悲しませるなんて……万死に値するわ!」
教室を満たす怒号。
そんな四面楚歌の状況下でも、詩織ちゃんは周囲の罵声など意に介さず、麗奈さんの言葉の端を捉えていた。
「時雨くん、合意書って何? もしかして……この人に変なこと言われて、無理矢理付き合わされてるの?」
「あら、無理矢理だなんて心外ね。彼は自らの意志で私との青春を選んだのよ。ねえ、時雨くん?」
右腕には幼馴染の柔らかな感触。
正面からは生徒会長の有無を言わせぬ威圧感。
板挟みの絶望に冷や汗が背中を伝ったその時、二限目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「いつまで騒いでるんだ。早く席につけよ」
前方の扉が開き、数学教師である岡崎先生の低い声が響く。
張り詰めていた空気が霧散し、僕は深く安堵の息を吐き出す。
麗奈さんは壁掛け時計を一瞥すると、スッと涼やかな顔色を取り戻した。
「朝比奈詩織さんね。この続きは、放課後に生徒会室でゆっくりとお話しましょう。もちろん、時雨くんもね」
有無を言わさぬ宣告。
麗奈さんは迷いのない足取りで踵を返し、教室を去っていく。
ひとまずの嵐は過ぎ去った。
しかし、隣の席から向けられる詩織ちゃんの熱を帯びた視線と、周囲のクラスメイトたちの理不尽な敵意に包囲され、僕のHPは、今日も着実に削られていくのだった。
◇
ようやく放課後を告げるチャイムが鳴る。
再び僕を取り囲もうと、クラスメイトたちが動く。
しかし皆が動くより早く、詩織ちゃんが僕の右腕を再びホールドした。
「行こっか、時雨くん。生徒会室だよね?」
絶世の美少女が僕の腕に抱きつき、有無を言わさぬ距離感で密着してくる。
その光景を見せつけられたクラスメイトたちは、嫉妬と驚愕でフリーズした。
大輝たちですら、ただ口を開けて立ち尽くすことしかできないようだ。
「そ、そうだね……」
彼らの怨嗟の視線を背中に浴びながら教室を出る。
廊下を歩く間も、彼女は僕の腕を組んで離れない。
すれ違う生徒たちの驚愕の視線を浴びても、詩織ちゃんは意に介する様子を見せなかった。
これが帰国子女というものなのかと、陰キャの僕には、麗奈さん同様に理解できないものがある。
そして、たどり着いた特別棟の最奥――生徒会室。
恐る恐るノックをして扉を開けると、今日は他の役員の姿はなかった。
「到着時刻、十六時五分。時雨くんの歩行速度ならあと二分は早く到着できたはずだけれど……想定外の重りが付いていたみたいね。まあいいわ。そこに座って」
詩織ちゃんは「重りって、私は標準よ!」と少し的外れな返答をしながら、レザーソファに並んで身を沈めた。
「さて、まずはデータのすり合わせから始めるわ。朝比奈さん、あなたの主張する『婚約』という事象について、具体的なエビデンスを提示しなさい」
対面に座る麗奈さんが静かに問いかける。
詩織ちゃんは、僕の右腕を抱き寄せたまま口元を綻ばせた。
「エビデンスも何も事実だよ。十年以上前かな、公園の砂場で『しぐれくん、しおりが大人になったらお嫁さんにしてね』って言ったら、『うん』って言ってくれたの。ずっとその言葉を信じて帰ってきたんだよ」
記憶の糸を辿ると、確かにそんなやり取りがあった気もする。
だが、それはあくまでも子供特有のおままごとの延長に過ぎない。
「なるほど。幼児のロールプレイに起因する生存バイアスね。長期間の隔離環境において、過去の美化された記憶に過剰に依存するのは、心理学的に珍しいことではないわ」
麗奈さんは手元のスマホを操作しながら、淡々と分析を述べた。
「でも、それは朝比奈さんの主観的な感情ね。現在、時雨くんのスケジュールと青春の軌跡は、すべて私が最適化しているの。過去の口約束が、合意書に基づく私のシミュレーションを上回る合理的な理由を説明してちょうだい」
「理由って、そんなの私が時雨くんを誰よりも好きだからに決まってるじゃない。計算とかシミュレーションとか、よく分からないけど。私は時雨くんと結婚するために日本に帰ってきたの。だから、誰にも渡さないよ」
――まさかの執着。
僕はただ、この理不尽な対立が早く終わることだけを願って息を潜めるしかなかった。
「面白いわね。感情という数値化できない不確定要素。それが私の計算モデルにどのような影響を及ぼすのか、検証する価値はありそうね」
麗奈さんは立ち上がり、一枚のプリントをテーブルに滑らせた。
「これは……『部活動設立申請書』?」
「ええ、合意書に基づく『比較検証プロセス』を実行するには、適切な管理環境が必要不可欠よ。よって、『青春研究部』を設立するわ」
「「……青春研究部?」」
僕と詩織ちゃんの声が綺麗に重なり、室内に虚しく響いた。
謎の部活に呆然とする僕たちを余所に、麗奈さんは淡々と続ける。
「私と朝比奈さん。どちらが時雨くんのパートナーとして最適か、公式な部活動という枠組みの中で競い合い、時雨くんの行動結果によって白黒つけましょう」
僕の平穏など一ミリも考慮されていない暴論に、天井を仰ぐしかない。
「あのさ、白黒付けるとか競うとかおかしいよね? 僕はただ平穏に過ごしたいだけだし、ラノベ代を稼ぐためのバイトもあるからね。毎日部活なんてそもそも無理だよ」
モブとしてのささやかな抵抗。
しかし麗奈さんは涼しい顔で切り捨てる。
「その点なら問題ないわ。駅前の商店街にある『明林堂書店』での時雨くんのシフトも把握済みよ。部活動の活動時間は、あなたの労働時間に干渉しないようにスケジューリングしているわ」
「……なんでバイト先だけでなく、シフトまで知ってるの?」
「当然よ。なんなら関係性の最適化のためにも、私も同じシフトでアルバイトに入ろうかしら? 書店員の制服という新たなアプローチも、シミュレーションとして有効な手段になりそうよ」
麗奈さんは事務的なトーンのまま、とんでもないことを口にした。
「えっ、時雨くんと同じバイト先にまで押しかけるつもりなの!? それなら時雨くんを守るためにも、私も働くよ!」
「え……?」
僕にとって最後の安息の地である本屋の職場が、制圧される未来が想像できてしまう。
覚悟を決めるしかないようだ。
「わ、分かった! 青春研究部とやらに入ればいいんだよね!」
これ以上のプライバシーの侵害を防ぐため、僕は半ばヤケクソで麗奈さんの高価な万年筆を手に取る。
右腕には十年以上の執着を抱える幼馴染。
正面にはデータ至上主義を掲げる生徒会長。
逃げ場のない生徒会室で、僕は重い溜め息と共に、詩織ちゃんと部活動設立申請書へサインをすることになった。
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