第六話 妹、陥落
「お茶と、さっきのケーキ持ってきた……」
オレンジジュースのグラスとショートケーキの皿を乗せたお盆を手に、ひよりが部屋に入ってきた。
ひよりの視線の先にあるのは、ベッドの前で両手を広げ、必死の形相で立ち塞がる僕。
そんな僕を至近距離から興味深そうに見つめる麗奈さん。
完全に事後、もしくは僕が何かよからぬことをしようと迫っていた構図に見えなくもない。
弁解しようとした僕より先に、ひよりの軽蔑しきった声が部屋に響く。
「お兄ちゃん、発情期の猿だからって、彼女さんが嫌がってるのにベッドに無理矢理押し倒そうとするなんて、ついに犯罪者になったんだね。今すぐ警察に通報してあげる」
「ち、違う。これは、その……麗奈さんが僕のブラックボックスを暴こうとして……」
「ブラックボックス? 何、その気持ち悪い隠語。最低、汚物、キモ、死ね」
ひよりの瞳からハイライトが消え、完全に不審者を見る目になっている。
絶体絶命の危機に陥った僕を救ったのは、他でもない麗奈さんだった。
「ひよりさん、それは誤解よ。時雨くんは卑猥なことをしようとしたわけではないの」
「……そうなの?」
「ええ、彼はただ男子高校生としてプライバシーの死守という防衛本能に従って、ベッドの下に隠された成人向け雑誌を私から守ろうとしていただけなの」
「うっ……やっぱり最低じゃん。ドスケベ、爆ぜろ、失せろ、消えろ、死ね」
「ぐはっ……!?」
助け舟かと思いきや、容赦ないフレンドリーファイア。
僕の社会的尊厳は、妹の前で完全に粉砕された。
「……もういい。ケーキ置いていくから勝手にして」
ひよりは呆れ果てたように、ローテーブルにお盆を置く。しかし、視線は『パティスリー・シュヴァル』のショートケーキに釘付けになっている。
どうやら、呆れよりも食い気が勝っているようだ。
「ありがとう、ひよりさん。ちょうど喉が渇いていたところなの。せっかくですから三人でお茶にしましょう」
「えっ、ひよりも……?」
「もちろんよ。一人で食べるより、サンプリング……いえ、一緒に食べた方が美味しいもの」
ひよりは躊躇したものの、純白の生クリームと宝石のように輝くイチゴの誘惑には勝てず、ゆっくりとテーブルについた。
「いただきます……」
ひよりがケーキを口に運ぶと、張り詰めていた表情から、幸せそうな笑みがこぼれた。
「どう? 美味しい?」
「う、うん……」
ひよりは思わず素直に頷いたが、すぐにハッとして、慌てていつもの険しい表情に戻った。
「べ、別に普通だもん。お兄ちゃんが買ってくるコンビニの安いケーキよりはマシだけど……」
必死に内弁慶な態度を取り繕うが、フォークを進める手は止まっていない。
「興味深い反応ね。ひよりさんのSNSのサブアカウントでは、『休日はお気に入りのカフェで新作スイーツ♡』と、ずいぶん饒舌に語っているのに、実際の食事風景は無防備で素直なのね。自己顕示と実際の自己認識の落差が、とても可愛いわ」
「ぶふっ!? な、なんで、ひよりの裏垢を知ってるの……?」
オレンジジュースを噴きそうになり、顔を真っ赤にして震えるひよりを、麗奈さんは涼しい顔で受け流した。
「過去三年分の投稿から行動パターンを分析すれば、特定は容易よ。でも安心して。私は『妹属性』のサンプルデータを、より深く多角的に検証したいと考えているの。そうね。時雨くん、そのゲーム機を使いましょう」
「ゲーム……?」
「そうよ。対戦型アクションゲーム『レジェンド・オブ・バースト』。ひよりさんがネット上で『神速の翡翠』というハンドルネームで、かなりの勝率を誇っているタイトルね」
「ひぇっ……!?」
ひよりが珍しく悲鳴を上げた。
現実では陰キャを極めながら、ネット対戦では最強格のプレイヤーとして君臨していることまで、麗奈さんのリサーチからは逃れられなかったらしい。
「私の計算によると、ゲームプレイ中の操作ログと判断速度は、人の深層心理を最も顕著に表すわ。ひよりさん、私と対戦してもらえるかしら?」
「……そこまで言うなら、別にいいけど。……こうなったら、ボコボコにして泣かせてあげるんだから!」
秘密を暴かれた羞恥心が、ゲーマーとしてのプライドに火をつけたようだ。
ネットの世界にだけは絶対の自信を持つひよりは、自分の部屋からコントローラーを持ってくると、殺気立った様子でモニターの前に陣取った。
しかし、その自信は、わずか数分で瓦解することになる。
「嘘……なんで? なんで当たらないの……?」
「ひよりさんの手癖はすでに解析済みよ。右への回避後に必ず繰り出す強攻撃、完全にパターン化しているもの。対処は難しくないわ」
「あ、ありえないよ……。そんなの人間業じゃない!」
麗奈さんの冷徹なまでの最適解によって、ひよりの放つあらゆるコンボが虚しく空を切る。
結果、三戦全敗。
ひよりはコントローラーを握ったまま呆然としていた。
「立ち回り、判断、キャラコン……ひよりが今まで見てきた誰よりも格上だったよ……」
「データの積み重ねよ」
「すごい……。ねえ、今の立ち回りどうやるの? あのキャンセル技、人間の出せるスピードじゃないよ」
「そうね。物理的な入力限界を突破するために、独自の指使いと予備動作の省略を組み込んでいるの。教えてあげましょうか?」
「えっ、いいの……!?」
ひよりの張っていた虚勢が、完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
◇
三十分後。
「そう、上手よ。そのまま重心をずらさずに、最短距離でボタンへ」
「はい! すごい……本当にすごいです! 麗奈お姉様!」
いつのまにか、ひよりは麗奈さんを実の姉のように慕い、背中を預けて密着し、二人羽織の体勢でコントローラーを握っている。
圧倒的な美貌、冷徹なまでの知性、そして自分を遥かに凌駕する強さ。
実力至上主義のひよりにとって、麗奈さんはもはや兄の不釣り合いな彼女ではなく、完璧な理想像へと昇華されていたのだ。
「ふふ。ひよりさんは素直で飲み込みが早いわ。時雨くんとは違うわね」
「えへへ……お兄ちゃんみたいなモブと一緒にしないでください。麗奈お姉様の妹の座は、ひよりが死守しますから」
「頼もしいわね。この『姉妹』という概念のサンプリングも、有意義なデータが取れそうよ」
「ひより、なんでも協力しますっ!」
「あの、僕、完全に空気なんだけど……」
僕の小さな呟きが二人に届くことはなかった。
その後も二人は完全に自分たちだけの世界を構築し、僕はただの背景と化す。
自分の部屋でありながら居場所を失った僕は、二人の楽しげな会話とゲーム音声を聞きながら、そっと窓の外を眺めることしかできなかった。
◇
「今日も楽しかったわ、時雨くん」
「それはよかった……」
夕暮れ時。
予定の時刻を迎え、玄関で靴を履く麗奈さんを僕とひよりで見送る。
「あの、麗奈お姉様、また一緒にゲームしてくれますか……?」
「そうね。オンラインでの共同戦線のデータも取得しておきたいところだから、今夜にでも通信を繋ぎましょうか」
「はいっ! 待ってます!」
今朝の殺意はどこへ行ったのか。
キラキラと瞳を輝かせる妹の頭を、麗奈さんは優しく撫でた。
ひよりは「えへへ……」とだらしなく笑い、すっかり手懐けられている。
「また明日、学校でね、時雨くん。ひよりさんもまた遊びましょう」
「はいっ。お気をつけて、麗奈お姉様!」
パタンと玄関の扉が閉まる。
その直後、先ほどまでの天使のような笑顔が消え去り、ひよりは汚物を見るような目を僕に向けた。
「お兄ちゃん、何、ボーッと突っ立ってんの? モブ、キモ、汚物、ゴミ、死ね」
「おい、お兄ちゃんの当たり酷すぎないか……」
ひよりは容赦なく毒を吐き捨てると、颯爽と二階の自室へと消えていった。
僕のパーソナルスペースは徹底的に暴かれ、あまつさえ妹の心まで完全に奪われてしまった。
いや、むしろ僕に対する扱いが悪化している。
お家デートとは何だったのかと、静まり返った玄関で、深く深く溜め息をつくしかなかった。




