第二話 平穏な日常の終わり
翌朝、二年B組の教室。
いつもと変わらない喧騒に包まれる中、僕は自分の席に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
「よう、時雨。今日も朝からシケた面してんな」
遠慮のない声と共に背中を叩いてきたのは、バスケ部のエース、藤堂大輝だ。
今日も変わらず赤髪を逆立てた、クラスでも一、二を争う陽キャなナイスガイである。
ただ、挨拶代わりの背中への一撃は、肺から空気が押し出されるほど重い。
そろそろ手加減というものを覚えてほしいものだ。
「ちょっと、大輝。あんたの叩く力が強すぎて、早くも時雨のHPが削れてるじゃない」
「ああん? 朝からうるせえな、凛。これも愛情表現だろうが」
すかさず大輝に噛み付いたのは、彼とよく似た勝ち気な赤い瞳をギラつかせる、同じく赤髪ショートの陸上部の天音凛。
二人はいつも喧嘩ばかりしているが、傍から見れば完全に『両想い』である。
「君たち、いつも朝から騒々しいぞ。時雨の平穏なモブライフが脅かされるだろう」
呆れたようにため息をつき、銀縁メガネの奥の水色の瞳に理知的な光を宿しているのは、常に冷静沈着な 木崎圭吾だ。
「そ、そうだよ。あんまり大声出すと、高坂くんがかわいそうだよ……」
圭吾の背中に隠れるようにして小声で同調したのは、文学部の一ノ瀬澪。
三つ編みにした青髪と黒縁眼鏡。おどおどと揺れる淡い水色の瞳は、さながら怯えた小動物のようだ。
極度の人見知りだが、圭吾の隣が定位置になっているあたり、この二人も付き合うことになるのは時間の問題だろう。
小学生の頃から気の知れた仲であるこの四人は、僕の唯一の友達である。
クラスでも目立つ彼らがそばにいてくれるおかげで、ド平均の僕がカーストの波にさらわれることも、いじめられることもなく、今日も平和なポジションを確保できている。
「……みんな、おはよ。ちょっと憂鬱なことがあって」
「あんたはいつも憂鬱そうだけど、どうせ深夜アニメの録画でも失敗したんでしょ」
凛の的確な、しかし今回は珍しく外れている返答に苦笑した時だった。
教室の前方にある扉が静かに開く。
たったそれだけで、三十人以上いるクラスメイトたちの雑談がピタリと止まり、大輝たちも目を見開いて固まった。
窓から差し込む日の光を浴びて銀髪が揺れる。
完璧な姿勢で教室に入ってきたのは、神宮寺さんだった。
「嘘……なんで、うちのクラスに……?」
「神宮寺麗奈じゃん……」
「麗奈様……」
突如として現れた学園の頂点に、クラス中から戸惑いの声が口々に漏れる。
しかし彼女は周囲のざわめきなど存在しないかのように、迷いのない足取りで教室の最後列――僕の机の前で立ち止まった。
「おはよう、時雨くん。昨日の睡眠時間は七時間二十分ね。心拍数も平常通り。交際初日のコンディションとしては及第点だわ」
静寂に包まれた教室に、凛とした涼やかな声が響き渡る。
その瞬間、『交際』という言葉に反応したクラスメイトたちの間に、抑えきれないどよめきが広がった。
額に冷たい汗が流れるが、ここで僕が動揺してはいけない。
しかし大輝が「時雨と神宮寺が交際だと……?」と、小さく声を漏らし、凛は口を開けたままフリーズした。
常に冷静な圭吾ですら、手元の文庫本を取り落とし、澪に至っては圭吾の背中に隠れて小動物のように震えている。
そもそもスマートウォッチもつけていないのに、睡眠時間から心拍数まで把握されていたとは、なんて恐ろしい人だ。
「……おはよう、神宮寺さん。わざわざ教室まで来て、何か用があるのかな?」
「あら、恋人が朝の挨拶に訪ねに来るのは禁止されていないわ。それに『神宮寺さん』は減点対象よ。合意書の第十三条、『交際関係の円滑なアピールのための呼称規定』に則り、私のことは麗奈と呼ぶようになさい」
堂々とした彼女の発言に、周囲のどよめきがさらに大きくなる。
「あのさ、いきなり呼び捨てはハードルが高すぎないかな? 周りの視線も痛すぎて、僕の心拍数は急上昇してるんだけど」
「想定内よ。私の権力をもってすれば、この程度の騒ぎは誤差の範囲だわ」
周囲の喧騒など意に介さず、蒼い瞳が逃げ場を塞ぐように僕を射抜く。
この人は、僕が麗奈と呼ぶまで絶対にここを動かない気だ。
「……れ、麗奈……さん……」
「はあ……仕方ないわ。今はそれで許してあげる。データに『麗奈さん』と上書きしておくわ。そんなことより、これを受け取ってちょうだい」
彼女は涼しい顔のまま、綺麗な風呂敷に包まれた三段重を僕の机に置いた。
「条項第四条、第二項に基づく兵站支援の実行よ。購買部の惣菜パンに依存した食生活は、長期的な任務遂行において重大なリスクを伴うの。よって、今日から私があなたに最適なエネルギーを供給するわ」
「兵站支援って……普通にお弁当でいいんじゃないかな……」
手作り弁当の譲渡。
その事実が突きつけられた瞬間、教室内を渦巻いていたどよめきが、明確な殺意へと変わる。
「おい、高坂っ! てめえ、今すぐ表出ろ!」
「俺たちの麗奈様の手作り弁当だと……!? なんて羨ましい奴なんだ!」
とりわけ男子生徒たちの目が血走り、僕の全身を容赦なく串刺しにしてくる。
四面楚歌。針の筵。
絶望的な危機状況下で、僕が取るべき行動は一つしかなかった。
「……場所を移そうか。ここでは、その、目立ちすぎるからね」
「なるほど。他者のノイズを遮断した環境での食事。その提案が最適解ね。ド平均の割には質の高い回答よ」
「そ、それはよかった……」
麗奈さんは満足げに頷くと、踵を返して教室を出ていく。
僕は大輝たちの「俺たちに黙って……」という驚愕の呟きを背に受けながら、逃げるように彼女の背中を追った。
◇
辿り着いたのは、旧校舎の屋上に続く階段の踊り場。
滅多に人が寄り付かないデッドスペースで、麗奈さんはレジャーシートを手際よく広げ、三段重を恭しく置いた。
「さあ、私の隣に座ってちょうだい。早速、開けるわよ」
風呂敷の結び目が解かれ、重箱の蓋が開く。
一段目には、定規で測ったかのように美しく整列した色鮮やかなおかず。
二段目には、季節の炊き込みご飯。
そして三段目。そこには、僕の顔を模した海苔とチーズの『キャラ弁』。さらに、ケチャップで『LOVE』という文字が堂々と描かれていた。
「時雨くんの基礎代謝と一日の運動量を計算して、三大栄養素の比率を完璧に調整したわ。さらに視覚的な愛情表現を取り入れることが心理学的に有効だという論文に基づき、キャラ弁というフォーマットと、ケチャップの記述を採用したの。あなたのドーパミン分泌量が平均三十パーセント向上する計算よ」
彼女は一切の照れもなく、「ふっふん。どう、完璧でしょう?」と、自信に満ちた表情で胸を張った。
大真面目な顔で、とんでもないことを言っているが、僕のデータを分析し、海苔をハサミで切り抜き、定規でケチャップの文字を測っている姿を想像すると、少し可愛く見えるのも事実だ。
「い、いただきます……」
僕は玉子焼きを一つ摘み、口に運ぶ。
甘すぎず、出汁の香りが効いた完璧な味付けだ。
「どう、美味しい……?」
麗奈さんが涼しい顔を保ちつつも、身を乗り出して尋ねてきた。
「……すごく美味しいよ、麗奈さん。今まで食べたお弁当の中で一番かもしれない」
素直な感想を口にすると、彼女は「ふむ。計算通りだわ」と頷き、手元のスマホに何かを打ち込んだ。
「記録完了。私の料理スキルとデータ分析がもたらした当然の帰結。ここまでは計画通りね」
声のトーンは至って冷静沈着。
だが、微かに緩んだ口元と、誇らしげに揺れる銀髪から、彼女は喜んでいるのかもしれない。
――いや、騙されるな。
これは、あくまで『青春シミュレーション』という名の狂った実験が成功したことに満足しているだけだ。
現に彼女の瞳は、手作り弁当を喜ぶ恋人を見る乙女の瞳ではなく、予想通りのデータを出した被検体を観察する研究者の目だ。
「さて、エネルギー補給が確認できたら、次のタスクに移行するわよ」
「次のタスク……?」
「ええ。放課後は生徒会室に来なさい。合意書・第七条に基づく『放課後デートのシミュレーション』及び、週末のスケジュールのすり合わせを行うわ」
「えと、僕、今日は大輝たちとゲーセンに行く約束が……」
「却下よ。私のデータ保全とシミュレーションの実行が最優先課題だわ。もし、不満分子(友達)たちが邪魔をするなら、私から適切な処置……つまりハッキングによる弱み握りを施しておくけれど?」
「……え? いやいや、行く! 行くから!」
「賢明な判断ね。放課後も楽しみにしているわ、私の時雨くん」
麗奈さんは美しい微笑みを浮かべた。
他の男子なら見惚れてしまうだろう。
だが、僕はその笑顔の裏にある圧倒的な理不尽さにため息をついた。
これから待ち受ける厄介事を想像するだけで胃が痛くなる。
教室に戻れば、今までのような平穏な日常はないだろう。
逃げ場のない現実を前に、ただ遠くを見ることしかできなかった。




