最終話 たった一つの正解
翌朝、二年B組の教室。
(結局、一睡もできなかった……)
僕は机に突っ伏し、昨晩の不毛な攻防が脳内にフラッシュバックしている。
脱衣所での回避劇から、シングルベッドに四人で寝るという無茶な検証。
思い返せばキリがないほど大変な目には合ったが、結果として無事に何もなく終えることができた。
ただし、一つ屋根の下に三人の美少女が泊まっているという事態。いつ、夜襲(データ収集)が始まるか分からない緊張感にさらされ、休まる暇はなかったのである。
「よう、時雨。朝から死にそうな顔してるな」
不意に背中を叩かれて顔を上げると、大輝が呆れたように見下ろしていた。
もちろん、凛や圭吾、澪ちゃんの姿もある。
「……死にそうじゃなくて、半分死んでるんだよ」
「自業自得だな。昨日もお前を置いて帰った後、家で何をしていたのか……想像するだけで殺意が湧く」
「……大輝が思うようなことは何もないよ」
乾いた声で弁明した矢先、隣の席に鞄を置いた詩織ちゃんが、屈託のない笑顔で覗き込んできた。
「おはよう、時雨くん。昨日は初めてのお泊まりだったから、やっぱり寝不足だよね。ごめんね、夜遅くまでドキドキさせちゃって」
「ぐはっ!?」
「嘘……!?」
大輝と凛が目を丸くしてフリーズする。
教室の空気が一瞬で凍りつき、クラスメイトたちから再び明確な殺意が向けられた。
「詩織ちゃん、そういう言い方は盛大な誤解を招くって言ったよね……?」
「誤解じゃないよ? 時雨くんのベッドで一緒に……」
「いや、五分と経たずにリビングに移動したでしょ? そういう言い方は社会的生命が終わるからやめてくれるかな」
慌てて詩織ちゃんの口を手で塞ぐ。
周囲を見渡すと、皆の目は血走り、大輝は僕の首を絞める準備に入っていた。
そこへ、教室の扉が開いて現れたのは、銀髪を揺らす麗奈さんだった。
「おはよう、時雨くん。昨晩の睡眠時の心拍数および寝返りの回数から推測するに、疲労度はピークに達しているようね。これも私たちが同じ屋根の下で一夜を共にしたことによる有意義な生体反応だわ」
涼やかな声で放たれた、トドメの一撃。
「神宮寺会長まで泊まりですって!?」
「高坂……貴様というやつは、どこまで欲をかけば気が済むんだ!」
「今日こそは生かして帰さねえぞ……!」
「い、いや、これは『青春研究部』の活動の一環であって……」
僕の必死の弁明を引き継ぐように、麗奈さんが涼しい顔で事実を述べる。
「あら、やましいことは何もないわよ。合意書に基づく適正な観察と調理実習を通じた家庭力の比較検証。極めて健全なシミュレーションだわ」
「そ、そうだよ。言った通りでしょ? やましいことなんて何もないってさ」
僕はホッと胸を撫で下ろし、同意を求めた。
「もっとも、時雨くんが私の和牛ローストを評価した事実は揺るがないけれど」
「私のチーズハンバーグだって美味しかったって言ってくれたもん!」
詩織ちゃんが身を乗り出して抗議し、二人の視線が交錯する。
僕が胃痛に耐えていた時、救いの朝の予鈴が鳴り響いた。
橘先生が教室に入ってきたことで、僕は辛うじて命拾いをしたのだった。
◇
放課後。
僕は足早に教室を抜け出し、旧校舎の図書室へ足を運んだ。
西日が差し込む静かな図書室。
ここはあの日、麗奈さんに『合意書』を突きつけられた因縁の場所でもある。
本棚の影に身を隠し、深く息を吐き出す。
「やっぱり、ここにいたのね」
安息の時間は一分と持たない。
本棚の向こうから、麗奈さんが静かに姿を現した。
「……あのさ、GPSでも仕込んでるの?」
「時雨くんの行動パターンから導き出した最適解よ。疲労時、および逃避行動を取る際には、この場所を選ぶ確率は最も高いの」
麗奈さんは僕の隣に歩み寄り、静かに腰を下ろした。
いつもの威圧感はなく、窓から差し込む西日が、彼女の銀髪を黄金色に染め上げている。
「静かな場所にきたくてね」
「時雨くんの疲労度を考慮すれば、休息というプロセスも必要不可欠よ」
意外なほど素直な返答に、僕は思わず彼女の顔を見つめる。
「麗奈さんって、本当にデータがすべてだよね」
「当然よ。世界は不確実なもので溢れている。感情、気分、偶然。そういったノイズを排除し、常に最適解を導き出すことが私の存在意義だもの」
彼女の声は静かで、どこか儚げだった。
完璧な生徒会長として君臨し続けるための、途方もないプレッシャー。
常に正解を選び続けなければならない彼女の世界は、きっと僕には想像もつかないほど息苦しいことだろう。
「だからこそ、時雨くんは私にとって特別なサンプリングデータなの」
「僕の徹底した地味さが、君にとってノイズにならないから?」
「ええ、あなたの『ド平均』は、私の計算を裏切らないもの。いえ、訂正するわ」
麗奈さんは少しだけ目を伏せ、自嘲するように小さく微笑んだ。
「あなたの存在そのものが、私の思考における唯一の『安らぎ(バグ)』になりつつある。完璧を求められる私が、なぜかあなたの前でだけは、ただの女子高生としての青春をシミュレーションしたくなるのよ」
それはデータ至上主義の彼女が初めて見せた、論理ではない感情の吐露だった。
いつも振り回されてばかりだが、彼女の奥底にある孤独に触れた気がする。
「あのさ、麗奈さん」
僕が言葉を返そうとした時だった。
「時雨くん、見ーつけた!」
「ちょっと、詩織先輩! 抜け駆けはずるいです!」
「お兄ちゃん、こんな所で麗奈お姉様と密会なんて、図書室の空気が汚染されるから、今すぐ死ね」
図書室の静寂を破り、いつもの三人がなだれ込んできた。
どうやら僕の平穏は、やはり長くは続かないらしい。
「データ収集の休息時間は終了ね。では、青春研究部の活動を再開するわ」
麗奈さんは先ほどの儚げな表情を一瞬で消し去り、いつもの完璧な生徒会長の涼しい顔に戻っていた。
ただ、その口元に浮かぶ微笑みは、いつもより柔らかい気がする。
「時雨くん、今日は一緒にクレープ食べに行こ!」
「いいえ! 先輩の糖分摂取量は私が管理します!」
両腕を美少女たちにホールドされ、正面からは麗奈さんの理不尽な管理、背後からは妹の毒舌。
図書室に響く賑やかな声を聞きながら、僕は諦めと共に、深く、深く溜め息を吐く。
そう、これが僕の彼女たちと紡ぐ、盛大に間違えた青春。
これからもきっと、僕の日常は彼女たちが引き起こす理不尽な『ノイズ』に振り回され続けるのだろう。
けれど、この騒がしくて、少しだけ温かい日々も、案外悪くないと錯覚し始めている自分がいる。
『人生とは選択の連続である』
これまでの人生、大半の選択を間違えてきた僕だけれど。
彼女たちと一緒にいる日常は、きっと、僕にとってたった一つの正解なのだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
元々長い話にするつもりもなく、サクッと完結にしました。




