第一話 日常に、名前のない影
エリシアの朝は、静かだった。
窓から差し込む光はやわらかく、
鳥の声が庭の木々を揺らす。
屋敷の朝はいつも、穏やかで整っている。
侍女が用意してくれたドレスに袖を通し、
髪を整えてもらいながら、
エリシアは鏡の中の自分を見つめていた。
——今日も、変わらない。
そう思う。
何も問題はない。
不安になる理由なんて、どこにもない。
「お嬢様、本日は体調はいかがですか?」
いつもの問いかけ。
いつもの優しい声。
「ええ、大丈夫よ」
そう答えるのも、いつも通りだった。
けれど、胸の奥に、ほんのわずかな違和感が残る。
本当に?
問いかける声は、とても小さい。
自分の声なのかどうかも、よくわからない。
朝食の席では、父が新聞を読み、
母が穏やかに微笑んでいる。
「今日は学院の授業が早いんでしょう?」
母——エリーナが言う。
「ええ。治癒魔法の基礎演習があるの」
「無理はしないように」
その言葉には、いつも少しだけ心配が混じっている。
エリシアは微笑んで頷いた。
「大丈夫よ。ちゃんとできるから」
そう言いながら、
自分の言葉が、どこか遠くで響いているように感じた。
父——エドガーは、新聞から目を離さずに言う。
「できるかどうかより、疲れていないかだ」
その声は穏やかで、押しつけがましさはない。
エリシアは、その優しさに、少しだけ胸が締めつけられた。
——どうして?
愛されている。
大切にされている。
それは疑いようのない事実なのに。
なのに、
ふとした瞬間に、
胸の奥が冷える。
まるで、
いつか、この光景が消えてしまうと知っているかのように。
食事を終え、廊下を歩いていると、
向こうから兄がやってくる。
「エリシア」
知的で落ち着いた声。
兄、ルシアンだ。
「今日は治癒の実習だったな」
「ええ」
「魔力制御は安定している。無理に抑え込まなくていい」
ルシアンはそう言って、
何気ない調子で妹の頭に手を置いた。
その手は、あたたかい。
——なのに。
一瞬、
エリシアの呼吸が浅くなる。
理由はわからない。
怖いわけでもない。
ただ、
「離れる準備をしてしまう自分」 が、
心の奥で、反射のように動いてしまう。
ルシアンは、わずかな変化に気づいたのか、
すぐに手を離した。
「……何かあったか?」
「ううん。何も」
即座にそう答えた。
本当のことだった。
何も、起きていない。
起きていないのに、
何かが起きそうな気がする。
それが、
エリシアの日常だった。
誰にも言えない、
言葉にできない、
けれど確かにそこにある、不安。
エリシアはまだ知らない。
その不安が、
彼女を壊すためのものではなく——
守るために、ずっとそばにあったもの だということを。




