第十二話 触れてはいけないと思っていたもの
それは、
ほんの些細な違和感から始まった。
朝だった。
エリシアは、
ミラの寝顔を確かめてから、
部屋を出ようとして——
ふらりと、足元が揺れた。
「……あ」
壁に手をつく。
一瞬、
視界が白くなる。
——大丈夫。
そう思おうとしたが、
胸の奥に、
鈍い痛みが走った。
理由は、わかっている。
昨日から、
気づかないふりをしてきた。
眠れてはいる。
不安も、静かだ。
けれど、
ずっと張りつめてきたものが、
ほどけ始めた反動が、
今になって、身体に出ていた。
「……無理、してたのかも」
ぽつりと、
自分に向けて呟く。
その瞬間。
胸の奥で、
小さな衝動が生まれた。
——触れれば、楽になる。
それは、
今まで他人に向けてきた感覚だった。
傷に手を伸ばすとき。
痛みに寄り添うとき。
でも。
自分には、
向けてこなかった。
エリシアは、
立ち尽くす。
治癒魔法は、
誰かのためのもの。
自分に使うのは、
ずるい気がしていた。
甘えのようで、
逃げのようで。
——でも。
ミラの言葉が、
胸に蘇る。
ひとり……じゃ……なかった……
エリシアは、
ゆっくりと、
自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動。
浅い呼吸。
まだ、残っている緊張。
逃げたいわけじゃない。
ただ——
ここにいる自分を、
置いていかない。
指先に、
かすかな温度が宿る。
見慣れた光。
他人を癒すときと、
同じ色。
けれど、
どこか、
やさしさの向きが違う。
エリシアは、
目を閉じた。
——大丈夫。
誰かに言うように。
けれど、
はじめて、
自分に向けて。
光が、
静かに広がる。
痛みが消えるわけじゃない。
疲れが、
一瞬で癒えるわけでもない。
それでも。
胸の奥にあった
「触れてはいけない場所」が、
そっと、
ほどけた。
——あ。
エリシアは、
小さく息を吸う。
怖くなかった。
痛くもなかった。
むしろ。
ここにいる感じが、
はっきりとした。
「……そっか」
思わず、
笑ってしまう。
「私、
自分のことだけ、ずっとずっと置いてきてたんだ」
そのとき。
背後から、
小さな声がした。
「……エ、リ……」
振り返ると、
扉の向こうに、
ミラが立っていた。
まだ眠たそうな顔で、
羽を揺らしながら。
エリシアは、
反射的に手を伸ばす。
「起こしちゃった?」
ミラは、
首を横に振る。
「……ひかり……やさしい……」
その一言で、
胸が、
きゅっと鳴った。
エリシアは、
ミラの前に膝をつき、
視線を合わせる。
「ねえ、ミラ」
静かな声。
「これからは……
一緒に、
自分のことも守ろう」
ミラは、
一瞬きょとんとしたあと、
ゆっくり、
頷いた。
「……いっしょ……」
エリシアは、
その言葉を、
胸の奥で受け取る。
——治癒魔法は。
誰かを救うためだけの力じゃない。
置いてきた自分に、
戻ってくるための手。
そのことを、
エリシアは、
まだ完全には理解していない。
けれど。
確かに、
最初の一歩は、
踏み出していた。




