第九話 見えないものの話
ミラが再び眠りについたあと、
部屋には静けさが戻った。
エリシアは、
ベッドの脇に置かれた椅子に座ったまま、
しばらく動けずにいた。
胸の奥が、
まだ、微かに震えている。
——ひとりじゃなかった。
その言葉が、
ミラの声のまま、
心に残っていた。
「……エリシア」
兄、ルシアンの声がする。
振り返ると、
父エドガーと母エリーナも、
部屋の入り口付近に立っていた。
「少し、話をしよう」
ルシアンは、
声を落として言った。
エリシアは、
一瞬、ミラを見る。
眠っている。
安定した光。
「……ここで?」
「起こさない。
それに、この話は、
あの子のそばでした方がいい」
ルシアンの視線は、
ミラから離れなかった。
エドガーが、
短く頷く。
「続けていい」
ルシアンは、
ゆっくりと息を整えた。
「この国には、
精霊信仰がある」
それは、
エリシアも幼い頃から知っている話だった。
収穫祭。
水源に捧げる祈り。
森を荒らさぬための儀式。
——けれど。
「実際に、
精霊や妖精を見た者は、
ほとんどいない」
ルシアンは、
淡々と続ける。
「書物に残るのは、
何世代も前の記録ばかりだ」
エリーナが、
静かに補足する。
「だから、
信仰はあっても……
“実在”として扱う人は、
少ないのよ」
エリシアは、
ミラを見る。
こうして目の前にいるのに、
それが“当たり前ではない”世界。
「妖精や精霊は、
この国では、
守る対象でありながら——」
ルシアンの声が、
少しだけ低くなる。
「同時に、
“都合のいい象徴”として
扱われてきた」
エドガーが、
視線を上げる。
「どういう意味だ」
「精霊は、
豊穣や加護をもたらす存在として
祈られる」
ルシアンは、
指先で空をなぞる。
「だが、
その“力”だけが語られ、
彼ら自身の生は、
ほとんど顧みられない」
ミラの、
傷ついた羽が、
エリシアの脳裏に浮かぶ。
「妖精は、
魔物と土地の境界に生きる存在だ」
ルシアンは、
エリシアを見る。
「魔力の流れが歪めば、
最初に影響を受ける」
「……だから、
森で……」
エリシアの声は、
小さかった。
「魔物が出たのは、
偶然じゃない」
ルシアンは、
はっきりと断言した。
「妖精が倒れるほどの歪みが、
すでに、
あの森にはあった」
エリーナが、
胸元に手を当てる。
「……じゃあ、
ミラは……」
「巻き込まれた」
短く、
けれど、重い言葉。
エリシアは、
思わず拳を握った。
——守られる側だったのに。
「ここからが、
大事な話だ」
ルシアンは、
視線を家族に向ける。
「妖精を保護するということは、
“善意”だけの話じゃない」
空気が、
少し引き締まる。
「知られれば、
利用される可能性がある」
「研究対象として?」
「あるいは、
政治的な象徴として」
エドガーは、
静かに腕を組んだ。
「……厄介だな」
「ええ」
ルシアンは、
頷く。
「だからこそ、
中途半端な覚悟で
抱え込むべきじゃない」
一瞬、
沈黙。
エリシアは、
唇を噛みしめた。
——もし、
守れなかったら。
——もし、
またひとりにしてしまったら。
「守る」
その声は、
低く、
揺るぎなかった。
エドガーだった。
「この家で、
この子は守る」
エリーナが、
すぐに頷く。
「ええ。
選択肢は、最初からそれしかないわ」
エリシアは、
思わず父を見る。
「……いいの?」
自分でも驚くほど、
弱い声だった。
エドガーは、
ゆっくりと娘に向き直る。
「いいも悪いもない」
その目は、
真っ直ぐだった。
「お前が、
すでに選んだ」
胸が、
ぎゅっと鳴る。
「ミラは、
ひとりで倒れていた」
エドガーは、
静かに続ける。
「お前は、
ひとりにしなかった」
それだけで、
十分だとでも言うように。
ルシアンが、
小さく息を吐く。
「……じゃあ、
対策は僕が考える」
淡々とした口調。
「外部に悟られない方法。
結界の強化。
魔力の遮断」
それは、
兄なりの、
“守る”という形だった。
エリーナは、
ミラの寝顔を見つめ、
静かに微笑む。
「ここは、
あの子にとっても、
帰る場所になる」
エリシアは、
何も言えなかった。
ただ、
ミラのそばに立ち、
その小さな光を見つめる。
——忘れていただけで。
——最初から、
ひとりじゃなかった。
その事実が、
今、
少しずつ、
胸に染み込んでいく。




