プロローグ「桜咲く日」1129日
プロローグ
◾︎2030年3月6日「桜咲く日」1129日
まだ寒さの残る朝。白い吐息が、制服の襟元をかすめて消える。
須崎総合高校の校門前で、私は手をぎゅっと握りしめていた。
今日で、何かが変わる。そんな気がしていた。
「おはよう姫〜! 緊張しちゅう?」
後ろから声をかけてきたのは、小学校からの幼なじみ、奈央だった。
普段なら「緊張なんてするわけないやん」と言うところだけど、今日は声がうまく出なかった。
ううん、違う。この胸のざわつきは、入試の緊張やない。
会場に入る時、私の目が、ある人に吸い寄せられたんよ。
黒髪で、すっとした横顔。見慣れん顔。
彼の名前はまだ知らなかった。
けど、彼を見た瞬間、心臓がドクンと鳴った。
「…あの子、誰やろ」
奈央に聞こうとしたけど、なんや、聞くのが怖くて口をつぐんだ。
だって、「気になっちゅう」って自分で言うみたいやもん。
これはたぶん、叶わん恋や。
だって、私は──長くは、生きられんき。
わかっちゅう。この体のことも、未来のことも。
お医者さんである父の目を見れば、全部、隠しきれん。
それでも、彼と同じ高校に行けたら…
ほんの少しでも、毎日が変わる気がした。
その想いだけが、あの日の私を支えていた。
私は静かに目を閉じ、深呼吸する。
この春、私は恋をする。命の残りを知りながら。
桜の蕾が膨らむ空の下、まだ名前も知らぬ君へ、心が走り出した。
次回「目に見える数字」1129日