一話・エピローグ
終章:A面
黒澤棺は、ビルの入口にたどり着いた。
時刻はすでに、朝七時を回っていた。
高層ビルの間を、遠くサイレンの音がこだましている。救急車か、パトカーか、オークション会場の異変に気づいた誰かが呼んだのだろう。
いずれにしても今更、意味がない。オークション会場には、もう生存者は残っていないのだから。
駐車場に停めていた社用車の運転席には、すでに”とら”が座っていた。ここに戻ってくるまでそれなりの修羅場をくぐり抜けただろうに、スーツには少しも乱れている様子はない。”とら”はなぜか真剣な眼差しで、カーナビを見つめている。
棺は”とら”が座る運転席の窓をコツコツと叩き声をかけた。
「とら、パートナーズの連中は?」
声をかけると、”とら”はすさまじく驚いて跳ね上がりついでに車の天井に頭をぶつけた。棺は怪訝に”とら”を見つめた。
「なにやってんだオマエ。コントか?」
「しゃ、社長……! おつか、おかえりなさい……!」
”とら”は、光の速さでカーナビに消すと、棺に向き直った。あきらかに不審な動き。棺が尋ねる。
「おまえ今テレビ見てた? なんのやつ?」
「いやっ、これはっ、そのっ……。……ご、ご無事でなによりです……」
挙動不審な”とら”を、棺は無言でねめつけた。”とら”はわざとらしく話題を変えようとしている。
「そっ、そんなことより……あいつは? シノはどうしたんです?」
棺は短く答える。
「死んだ」
「じゃあ……、……社長は、いわゆる……やっちまったんですか……無駄骨……」
「そうでもない」
棺は運転席後ろの扉を開け、後部座席に座った。
柔らかいシートに身を預け、電子タバコを咥えてから、窓の外を眺める。
高層ビルの隙間から、燦然と輝く朝日が見えた。
太陽は昇り、一般人たちの日常が始まろうとしていた。スーツ姿のサラリーマンが、地下鉄駅からちらほらと姿を見せている。猫背で覇気のない青年たちは、今朝まさに失ったばかりの部下の姿に重なった。
棺は何気なく、唇に触れた。
そこにはまだ、生ぬるい感覚が残っている。中途半端に柔らかくて、中途半端に温くて、心地よさとは程遠い他者の熱。
ーー東雲十三は、”件”と共に、仕置銃の最大の砲撃に呑まれた。
”件”の消滅と同時に、呪いの力によってかくされた空間もまた、消えた。
視界全てを埋め尽くした光が、ゆっくりと薄らいで風景と同化したとき、東雲十三の姿は、どこにもなかった。
ーーあの世に、旅立ってしまったのだ。
「……たぶん、一生忘れない。良いヤツ、だった」
「……。社長が、そんなコト言うなんて珍しい……。あいつ、伝説つくりましたね……」
「……伝説。……そうかも、な」
棺は呟いて、口をつぐんだ。”とら”も、それきり無言になった。
気まずい沈黙が嫌で、棺はなんとなく、カーナビを点けた。
画面には、国民的アニメだという、”のらたま”が放映されていた。二頭身のねこ・ノラと、その仲間たちのサバイバルアニメだったはずだ。
テレビ画面をじっと見つめていた”とら”が、ふと言った。
「社長、あれ……」
「ん?」
棺は”とら”が指し示す方に、視線を向けた。
フロントガラスの向こうに、一人のサラリーマンが立っていた。
中肉中背の、ひょろりとした若い男だ。垂れ目と、重たげな二重瞼のせいで、どことなく眠そうな印象を与える。”へらへら”と”にやにや”の中間ぐらいの、曖昧な笑顔を浮かべ、所在なさげに立っていた。
ボロ切れ同然のスーツをなんとか身に纏い、ネクタイはちぎれ、靴はあちこち剥がれて、ひどい有様でーーでも、しっかりと、生きている。
車の前に、東雲十三が立っている。
「……シノ……」
棺は、呆然と呟いた。
”とら”が十三を警戒しながら、棺にそっと呟いた。
「……社長、銃をーー」
「いいよ、とら。それより、上着貸してくれるか」
「上着……? ですか……? 後ろにある予備、ご自由に……」
「アリガト」
”とら”のデカい上着を預かった黒澤棺は、ドアを開けて、東雲十三の前に立つ。
「社長……」
十三の、ぼやけた笑顔が帰ってきた。
「スミマセン、なんかオレ、生きてたみたいです……。はは……すみません、あんだけ啖呵きっといて、なんか恥ずいスけど……」
「ーー……うん。いいよ。いいんだ。……そのぶん、これから働いてくれるんだろ?」
「ーーはい」
黒澤棺は、東雲十三を見上げた。
東雲十三は、黒澤棺をまっすぐ見つめた。
視線の奥で、お互いはもっと深く、多くの言葉を交わしたかったのだと思う。
だが、棺は言いたい言葉を、全て閉じることにした。ーーなぜなら。
「今日は、切り上げよう。ーー定時、過ぎてるからな」
「そうか。ーーそうですね」
十三は腕時計を確認して、そっと笑う。
定時は過ぎた。
今日のサラリーマンとしての時間は、終わったのだ。
いま、棺は社長ではない。十三も社員ではない。互いにとって何者でもなくなった二人は、今日これ以上、共に過ごす理由はない。
それにーーこれからまだまだ、二人には時間がある。
同じ職場で働く、上司と部下として。
棺は”とら”から借りた上着を十三に預け、言った。
「明日は、休日。明後日の二十二時から出勤だ。いいな?」
「ーーはい」
十三は改まると、頭を下げて言った。
「明後日より着任いたします。改めて、これからよろしくお願いいたしますーー黒澤社長」
「ーーあぁ。明後日からよろしくな。東雲十三」
お先に失礼します、と一礼して、東雲十三は、踵を返した。
地下鉄駅へ下っていく十三の背中は、サラリーマンたちに混ざって、すぐに見えなくなった。
その背中を見送ったあと、棺は車に乗り込み、”とら”へ声をかける。
「とら、会社に戻ったら、灰島に報告。今日のニエについて、素性調査を依頼してくれ。たぶん矢馬が色々探り入れてくるだろうが、うまく誤魔化せ。突っ込まれてもシラを切れ。いいな」
「うわぁ……難題……」
「それから、”しま”のスケジュール、空けてもらってくれ。新人の雇入れ健診の結果、これからメールで送るから、健康状態の把握を頼むと。手が空いたらそのうち面談にも来てほしいと伝えてくれ」
「灰島さんに、矢馬さん、おにいちゃん、と……忙しくなりますねぇ」
手帳にメモを書き殴った”とら”がぼやく。
「あぁ。本当に、これから忙しくなるぞ」
黒澤棺は電子タバコに火をつけ、呟く。
「ーー”有望な新人”が、入ったからな」
窓を開けた”とら”は、「できれば、残業は勘弁してくださいね……」などとのたまいながら、車のエンジンを発進させた。
終章:B面
東京の隅っこにある街の、安アパートの一室。
帰宅した東雲十三は、自室の洗面台で顔を洗っていた。
タオルで顔を拭って、鏡をまじまじと見つめる。
備え付けの小さな鏡に、自分の顔が写っている。二十三年間、見慣れた顔。冴えない顔。眠たそうなまぶた。
ーー違う。
十三は、震える指で鏡をこすった。
目の形も眠そうなまぶたも、自分自身なのに、違うーー自分じゃない。
オレは。オレは。オレはーー。
「……社長……オレ……オレ、どうすればいいんですか……」
鮮明に蘇る記憶に苛まれた十三は、ここにいない黒澤棺に助けを求めた。
「オレは……もう、オレじゃない……。オレは死んだんだ……あのとき……」
あのとき、駐車場で再開した黒澤棺に、十三はどうしても言えなかったことがある。
薄暗い洞窟。ごつごつした岩肌の感触。坂を下る死者たち。ハングドマンの言葉。
そしてーーと、十三は自分の6畳間に目を向けた。
床に散らばったエロ本でも、スマホのエロサイトでも、遂情できなかった。
十三の胸のうちを、欲望の嵐が吹き荒れていた。身の内側をこそげ落とすかのような強風が暴れ回る。男ならば、誰もが抱いたことがあるはずの感覚。だが、今までの十三には、なかったはずの渇望。
ーー黒澤棺が、欲しい。
東雲十三でなくなった男は、黒澤棺に、どうしようもなく欲情していた。
一話は完結となります。ここまで読んでくださった皆様ありがとうございました。
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